第09話「白河紅の華麗な策略」
「岩手彦のあの顔には溜飲が少しは下がったわ。上総も少しは使えるじゃないの」
「とりあえず、ダンジョンから出れたのもタクシー代を貸してくれたのも感謝してるけどよ」
「なに」
「なんで俺はおまえんちにいるんだよ」
なんとか秋葉原ダンジョンを脱出した上総はなぜか紅のアパートにやって来ていた。
「そんなの決まってるじゃない。あの男を出し抜くための対策会議よ」
なんとなくではあるがタクシーで移動する際中、紅の話を聞いたところ、彼女とあの岩手彦という男はともに陰陽機関に所属する同僚ではあるが互いに功を競うライバルということだった。
「けどな、もうこんな時間だしゆっくりするのもあれだしなぁ」
「時間のことなら気にしなくていいわよ。あたしはひとり暮らしだし、明日学園は休むつもりよ」
「じゃなくてだなぁ」
「え? もしかしてえっちいことあたしにするつもりだったの。やだ、怖いわ」
紅は自分の身体を抱きかかえると怯えたような表情で壁際まで後退した。
「しねぇーよっ」
「そういいきられると、それはそれでムカつくのだけど。でも、上総はそんなに照れなくていいのよ。あなたのような、臭くてモジャモジャでいかにも素人童貞そうな男があたしのようにかわいらしい女の部屋に不法侵入以外の方法で入るなんて生まれてはじめてで、そして今後ともそういった可能性は絶無なのでうれしくておしっこちびりそうでも、軽蔑はするけど不快感を顔に出さないよう努力するから」
「おまえ笑顔でもの凄いこといってるよなっ!」
「兄さん。紅はぼっちだからこの部屋に人間を呼んだことがないんだよー。ただ舞い上がってるだけだから、そこは年上の余裕でいなしてやんないと――ほぐばっ」
「誰がぼっちですって。塵に還りたいのかしらこの子ぎつねは」
器用にテーブルへとティーカップを並べていた外道丸の首を片手で捻じり上げる紅を見て上総は顔を引き攣らせた。
「にしても、いい部屋に住んでんなぁ、おまえ」
4LDKでひとり住まいとは。こちとら狭い1DKでミノムシのように暮らしていた。その上同居人が増えて今は三人だぞ。
「でも、そんなに便利ってわけじゃないのよ。駅まで徒歩十五分はかかるし。雨の日とか意外と億劫よ」
「……ちなみにお家賃はいかほど?」
「三十二万くらいだったけど。結構お得よね」
「がふっ」
上総は胸に深い傷を負って床に這った。毛足が異様に長い。手触りは上質である。
うん。お年頃の少女っぽい部屋で絨毯がもこもこだ。とってももこもこで苦しくないよ、俺。
「てか、ホントにJKセレブと語り合ってる暇は社会人にねーの。マジでおまえとの共同戦線は駅から出た時点で終わってるからさ。金はキチンと返すから、もう帰ってもいいか」
「そんな……酷い……唐突におまえとの関係は終わりだなんて」
紅は袂で顔を覆ってしくしくと泣き真似をし出した。これには上総もうろたえずにはいられない。
「ちょ、嘘泣きだろ? そんな男女間のもつれのよーなもんはハナッからなかっただろーが」
「でも、あなたはあの秋葉原駅の惨状を見てなんとも思わないの? 罪もない人々がわけのわからない怪異に傷つけられ命を落としているのは真実よ。あなたの胸に正義の炎は燃えていないのかしら」
「本心は?」
「岩手彦を出し抜いてドヤ顔したいの」
「じゃあな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいって! 最後にお茶の一杯だけ飲んでいってよ、ねえ、ねってば」
上総は呼び止める紅を無視して沓脱に座り込む。もはや午前の三時である。
一時間でもいいから家に戻って眠りたい。今日から地獄のストレスマックス社畜生活がはじまるのだ。
亡くなった人たちは素直に不幸だと思わなくもないが、あの岩手彦という退魔士は有能そうだ。
謎のダンジョンの秘密も国家の力で暴かれるだろう。勇者だった頃の夢はもう忘れてリリアーヌとクリスのために生きると決めたのだ。
ふと気づくと、部屋のほうからすすり泣く声が聞こえてくる。
(ふん。また泣き真似だろうが、今度は騙されないぞ。キリないキリない)
そう思ってチラと振り返ると、今度は本当に紅は涙で頬を濡らししゃくりあげていた。
「ちょ、マジで……?」
「あなたには感謝しているのよ上総。お願いだから、感謝のしるしに一杯くらいいいじゃない。ええ……そうよ。外道丸のいうようにあたし、寂しいのよ」
上総は顔をしかめながら苛立たしげに立ち上がった。
あのときもそうだった。勇者として異世界に召喚され、まだ幼さが残るリリアーヌに懇願され戦うことを決意した。
あのときのリリアーヌと目の前の紅が重なったのだ。甘い、と自分は思う。そんな安っぽい義侠心のために自分はこれまでどれだけの時間と人生の意義を見失い続けてきたのだろうか。
幸いに日本にも独自の怪異を清める国家機関が存在する。
上総に超人的な力が残っていたとしてもお鉢が回ってくることは万が一にもないだろう。それを思えば、どういった事情か知らないが、こういった退魔業に身を染める紅の苦労が偲ばれた。
「じゃ、じゃあ一杯だけ」
「ほ、ホント。今すぐ用意するから待っててね」
紅の声が上擦っている。深夜の謎のテンションで上総はどこかハイな気分になりつつあった。
(でもこれってもしかして、すっごくラッキーなんじゃないかな。相手はすっげーカワイイJKだし、よく考えなくても俺は十も下のおにゃのこに歓待されてるわけだし。ちょっと血生臭い経緯だけど、会ってこんなに懐かれるなんて、もしかしてモテ期ってやつかな。う、うはは。ついにこの俺にも春が巡って来たわけか)
「はい、どうぞ」
上総はニコニコ顔でちんまり対面に座る紅が妙にいとおしく思えてきた。
――もしかして、もしかして、コイツってば俺に気があるんじゃね? 上手くすれば、なんか合法的にそういった関係に……待てよ上総。おまえにはリリアーヌやクリスがいるだろうが。でも、やはり日本人は日本人と一緒になったほうが上手くいくって統計上結果が出ているし。
「いただきます」
アイボリーホワイトのカップを持って香気漂う紅茶を口に含んだ。上総はほんのりとした甘みに相好を崩しどこか熱の籠った視線で自分を見る紅の顔を脂下がった顔で見つめていた。
「おかしいわね。ゾウもコロリといく量を混ぜたのに、まだ落ちないわ」
紅はキッチンで茶請けのチーズケーキを用意しながら紙包みから取り出した粉をさらりとまぶした。
「なあ紅。もうやめようぜー。そうでなくてもカズサの兄ちゃんはいいやつなんだし。協力が必要なら素直に頼めば聞いてくれるって」
「ダメよ外道丸。それじゃ相手に主導権を握られてしまうわ。ここはなにがなんでもあの男の弱みを握ってぐうの音も出ないように調教しておかないと」
無論こと紅が茶に混入させたのは陰陽師白河家に伝わる超強力な睡眠剤である。
一般的には致死量に当たるほどのものを先ほど献じたカップに混ぜたのだが、上総はむしろ鼻歌まじりでふんふんと上機嫌で一向に眠る気配を見せない。
これは上総の胸元に刻まれた勇者の紋章の効果が働きあらゆる人体に不必要な薬効を打ち消していることに起因していたのだが、さすがに紅の知るところではなかった。
秋葉原ダンジョンで出会った岩手彦――。
紅にとっては同じ陰陽機関に所属する同輩といえど、決して相容れぬ部分がある男であった。
彼女は、内閣調査室が特別に作った陰陽機関という国内の不可思議事犯を操作するいわゆる超法規的実行部隊にして「陰陽七手組」のうちのひとつを預かる競争相手でもある。
また彼女には個人的に岩手丸率いるいわゆる岩手組に負けられない理由もあり、そのためには彼女が去年から代替わりして預かることとなった白河組を強化する必要があったのだが、性質的にぼっちであり他人とのコミュニケーションを取るのを得意としていない彼女としては戦力を強化できずにいる苦しさがあった。
(上総はたぶんどこにも所属していない元退魔士といったところね。あの膂力といい、異界でも冷静さを失わない胆力。欲しい。我が陣営に加えて絶対に手駒にしないと)
紅が見るところ、岩手丸は手下を上総に一蹴され確かに屈辱を覚えていたが、その瞳に興味の色が浮かんでいたことも同時に気づいていた。
今回の連続傷害事件を端に発した怪異は当初陰陽機関が思っていた小規模なものではなく、確実に遥かに大きな事件になると紅は確信している。
「あたしの犬になってもらうわよ、上総」
紅はチーズケーキを用意すると、かなり無理をして年上の男を落とすため自分を取り繕った態度で接することにした。
「かーずくん。ケーキ用意してきたよん。一緒に食べよっ」
「うっわ、なに? 急に、怖ッ」
「そのいいかたはないでしょーがっ!」
ふと気づくと上総は毛布に包まっている自分に違和感を感じた。頭の奥が二日酔いのようにズキリと痛い。顔を上げて見慣れない部屋を見渡す。
自分がどこにいるかどうかより、まず壁かけ時計が午前十時半を差していることで血の気が一瞬に引いた。
「ちょ、なんでっ。いつの間にっ! てか、なんで裸なんっ?」
かろうじてパンツは履いているが上半身は裸だ。あたりを見ると、ワインのボトルが二、三本転がっていた。
そういえば昨晩、紅に上手煽られて一杯か二杯飲んだことまでは覚えているがその先はまるきり記憶にない。
「ううん。なぁに、上総ぁ。もう、朝なのぉ」
「だっ、なにやってんだ。おまえはっ」
見れば生まれたままの姿でいた紅が同じ毛布からゴソゴソと這い出てきた。
――これはもしかしてもしかすると、してはならないことをしでかしてしまったのか。
「なあ、なんでおまえは裸なんだ」
「やだ」
紅が急いで毛布の中に再び潜り込んだ。目の前に彼女の白いブラとショーツがチラチラと浮かぶ。
あたりを見回すと脱ぎ捨てた白衣や緋袴が脱ぎ散らかしてあり、あまつさえかわいらしいピンクのゴミ箱には意味深なティッシュの塊が端に引っかかっていた。箱がある。うん。世界一薄くて数枚しか入ってない割にはバカ高い例の避妊具だ。上総は白目になると走馬灯のようにリリアーヌたちとはじめてあった日のことを思い返していた。
「あたし、ダメっていったのに。あなたが無理やり、その、するから」
「嘘ですよねぇ」
「嘘じゃないわ」
「ゆ、夢だよ。まだ俺は夢の中に」
「穴という穴に精液を流し込まれたわ」
「だって、これが――あ、封が切ってないッ」
「あなたが……生じゃないとイケないとか……せめてつけてっていったのに……無理やり」
相当に無茶苦茶なプレイを強要されたはずにもかかわらず、紅はどこかなにかをやり遂げた顔をしていた。慈母のようにやさしげな表情でこちらを見返している。今は逆にその微笑が恐ろしかった。
「俺は、君に取り返しのつかないことしてしまった。なんて、詫びればいいのやら」
「ううん。あなたの忠告も聞かずに軽率に招き入れたあたしも悪かったのよ。気にしないでちょうだい」
――そのおもねるような媚びた態度が余計に痛い!
ふと気づくと、紅が下着姿のままそっと胸元にしなだれかかってきた。
喉がカラカラに渇いている。ふにゃっとした弾力が手のひらにかかり驚いて視線を合わせると、紅は恥ずかしそうに顔にかかった黒髪をかき上げて頬を朱に染めた。
「その、なんだ。俺にできる償いをさせて欲しい。できることがあるなら、なんでも協力するから」
「そう。でも、そこまでいってくれるのならあなたにすがらせてもらうわ」
胸板に紅が人差し指でくるくると円を描いている。これはいくら上総が男女関係の経験が薄くても意図している意味は理解できた。
そうしていると、スマホを小刻みに着信が揺する。
上総の携帯だ。発信名は会社の上司である。無論のこと、欠勤を罵倒する五十男の顔が浮かびげんなりした。諦めて電話に出ようとすると、すっと白い手が伸びて紅が出た。
「はい、雪村上総の携帯でございます。ええ、ええ、はい。まことにもって……は? いや、ちょっと待ってください」
ちょっと待てはこっちのセリフだ。なに勝手に人の携帯に出てるんですかね!
「ふぅん……オジサン、そういうこといっちゃうんだ……たかがド底辺のカス上司のくせに」
煽らないでくださいィ。
会社行けなくなっちゃう!
「はっ……あんまいい気にならないでくれる。上総はアンタのとこのブラックなんかに勤めなくたって、なーにんも困んないんだけどね……はぁ……そういうこというワケ。だったらあたしにも考えがあるんだからね」
なにを? と思って呆然としていると、紅は空に印字を切ると明らかに強烈な呪詛が混じったなにごとかを電話先に詠唱しはじめた。
ああ、わかった。これダメなやつだわ。
「って、なに勝手なことしてんだーっ」
「あんっ。もお、なによう。今、いいとこだったのにぃ」
「いいわけあるかっ。あの、雪村です。権田さん? 権田さんっ?」
スマホから漏れ聞こえてくる先にはよく己の罵倒していた権田の絶叫する声が響いてきた。
鈍い音が響き渡って重いものが倒れ、同時に同僚たちが救急車を要請する悲痛な叫び声があった。
「なにをしたんだよ、おまえは」
「べっつにー。ただ、上総がちょこーっと休んだだけで酷いこというからムカついて、ね。だから、電話先の男に全身から血が噴き出て悶死するまじないをちょっとだけかけてあげました」
えっへんと紅は小ぶりな胸を張った。
上総はあまりの暴挙に血の気が引いた。
「あ、アホかーっ」
「てへり。褒めてくれもいいのだぜ。あたしってば有能でしょう」
上総はあまりに想定を逸脱したできごとに忘我の状態となった。
余談ではあるが、このあと権田は激しい精神錯乱を侵し、事務所にセルフのスタンドで汲んできたガソリンを撒き全焼させるのだが、もはや物語とはあまり関係ない。
「いいわけないだろう、いいわけないだろうが」
上総はふらついた足取りで服を着て紅のアパートから出て行った。
「あ、また連絡するから無視しないでねー。ダーリン」
「うあああっ」
耳をふさぎ目を閉じなにも見ないようにする。
東京の平和はまだ遠い。
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