第08話「備えあればうれしいな」

 しばらく歩くと天井が岩盤で覆われた付近から抜け出ることができた。


「おおっ、明るい」

「文化の光よね」


 先ほどまであった胸躍らせるいかにもな不思議なダンジョンの雰囲気は消え去り、上総たちの前には平常通りの駅構内が広がっている。


「けど、これなんだよ。先が見えないぞ」

「完全にパースが狂ってるわね」


 秋葉原駅はそれほど広い駅ではない。だが1F部分は次元を捻じ曲げたように空間が先の先まで無限に広がって終わりというものが見えなかった。


 頭上にはライトが煌々とまたたいているので心理的負荷は減ったといえるが、人っ子ひとりいない構内は不気味に過ぎた。


「空間が、なんらかの理由で捻じ曲がっているのか?」


「それだけじゃないわ。時間も完全に停止している」


 紅が袂から銀色の古ぼけた懐中時計を差し出してきた。


「壊れてるとかそういうことは」


 彼女は続けてスマホを開いて見せる。アンテナはバリバリに立っているのだが、時刻のみが世界と切り離されたように隔絶されていた。


「これだけで安易に時間も停止しているとはいい切れない」


「そうね。あたしがいっているのはあくまでも可能性よ。でも、ここまでの怪異は早々お目にかかれるものじゃないわ。そういったこともあるかも知れないということを想定しておくことが大事なの」


「わーったよ。やれやれ。これで外界の時間が普通に流れてたらどうすべぇか」


 上総たちは無限に引き延ばされた1Fの駅構内をゆっくりと歩きはじめた。


「それって手巻きだよな」


「ええ、そうよ。家を出るとき、きちんと壊れていないか確認してきたもの。この空間はなんらかの力が働いているとしか思えないわ」


「ちなみに紅は駅がこうなった状態だから依頼を受けて入ってきたのか」


「それは――」


 紅は身体をもじもじさせると、逆に上総を威嚇するように睨みつけてきた。


「な、なんだよ。守秘義務があっていえなってんなら、別に無理に聞かないけど」


「兄さん。そら紅だって、自分が外にうじゃうじゃいた怪物から逃げ切るために駅に入ったなんてプロとして到底口にできな――むごぐっ」


「だから、あんたはなんだってそうぺらぺらと人の恥を晒すかなぁ、もう!」


 紅は外道丸の頭を竹筒の中に押し込むと感情的に吠えた。


 それから窺うように上総を上目遣いで見ると、ごまかすように自分の髪をさっとかき上げた。


「な、なによ。あれは戦略的撤退であって、そもそもプロとしてあたしは当然の選択をしただけであって、そのことであなたに非難される理由は」


「別に俺はなんもいってないけどな。それにピンチのときに引くのは当然のことだから気にしなくてもいいと思うぞ」


「は――誰がなにを気にしているっていうの? あんた、ちょっとばかり外道丸を助けたからってあたしが気を許すとでも思ってるの!」


「許してるじゃん許してるじゃん」


 外道丸が筒の中でそういうと紅は顔を真っ赤にしてぼごっと筒を叩いた。


「で、紅は外でなにをしていたんだ」


「知っているだろうけど、ニュースでさんざんやっていたでしょう。秋葉原駅で起きた連続傷害事件、あれの調査をUDXの裏でやっていたの。そうしたら――ま、ちょーっとばっかりめんどくさいのがドバッと、ね。致し方のないことだったのよ。うんうん」


「ま、どっちにしろこっから出なきゃならんしなぁ」


(俺は補助的な魔術しか使えない上に、初級のみときた。リリアーヌがいれば精霊召喚術でどうにかなったんだろうが)


 てくてくと無目的に歩いていると紅の腰に括りつけられていた円盤状の璧がかたたっと揺れて澄んだ音を放ちはじめた。


「なんだ?」

「来たわね。それも、一匹や二匹じゃなさそう」


 紅はそういうと素早く上総の背に隠れた。


「おい、なんで隠れるんだ。さっきキノコさんをやっつけたやつを使えばいいじゃんか」


「あれはもう品切れ。なるべくなら近接戦はさけたいのよ。あたしか弱いから」


 上総はがしがしともじゃもじゃな頭髪をかきむしると、紅が油断なく視線を伸ばしている今来た道を振り返った。


 ここはパッと見普通の駅だがすでに異界のダンジョンである。


 どのような怪物が姿を現してもなんの不思議もないのだ。


 ベタベタと粘液質なものがのたくるくぐもった音が近づいてくる。


 ふ、と顔を上げると天井には体長五メートルに達するであろう茶褐色の魚が集まっていた。


「逃げるぞ」

「え?」


 上総は見慣れたその異形の魚を視界に収めるや、紅を抱えて脱兎のごとく逃げ出した。


(ロムレスアブラボウズだ――あんなもん相手にしてられるか)


 一切戦おうとせず逃げ出した理由は上総はこの魚に嫌というほど苦汁を飲まされていた過去の経験からだった。


 このロムレスアブラボウズというダンジョンに棲息する魚は水陸どちらでも生存することができ、小動物をその鋭い歯で襲ったりするが、落ち着いて対処すれば初級の冒険差でも問題のないものだ。


 いうまでもなく危険度は著しく低く、今の上総でも不覚を取ることは万が一にもありえない。


 ならば、なぜ逃げたかというと――。


(アレとやりあうと、ものすごく身体が臭くなる)


 ロムレスアブラボウズはその名の通り身体がほとんど油の塊のようなもので、下手に触ると強烈な臭いが付着して、半月は社会生活が送れなくなるレベルのものだ。


 無論のこと、そのような目に会うのはご免被るし、無理に戦ったとしてもなんら意味はない。


「ねえ、ちょっと! あの魚ってそんなにヤバいやつなの? あたしにはさっきのキノコのほうが強かったように思えるんだけどっ」


「そう思ったらひとりでやってくれ。俺はいつでもおまえを放り出す覚悟がある」


「はぁ? か弱い退魔巫女をゴミみたいに捨てるっていうの? キモいおっさんのくせにクズなの? 死ぬの?」


「死なないけど、あの魚に触ると浮浪者並のオーラを二週間は放ちながら生きることになるがそれでいいのならご勝手に!」


「上総、超特急で!」


 狙いを定めたロムレスアブラボウズたちが天井と床を交互に跳ねて纏わりつこうと襲ってくる。


 上総はかつて味わった異様な臭気といつもは愛想がよかったメサイアパーティーたちの憐憫に満ちた視線を思い出しながら駆けた。


「ねえっ、上総。何匹かすっごく速いのがついてきてるんだけどっ」


「だああっ。異様に進化した個体がぁ――ってしめた! あそこで迎撃するぞ」


 無限に続くと思われた駅構内マラソンも終わりが見えてきた。


 出口の改札口がついに視界に収まったのだ。


 上総はウサギのようにぴょんぴょーんと跳ねながら改札機を飛び越えると紅を放り捨てた。


「ぎゃんっ」


 妙な声で紅が顔をしかめ鳴く。


 見ている暇はない。


 構っている余裕はない。


 自動改札機と床の設置面に指をかけた。


「ぎゃあー。上総、来てるっ。えらいのが来てるっ」


「わーって、るって!」


 ばぎばぎごりごりっ


 ともの凄い轟音を立てて上総の腕が自動改札機を根元から引っぺがした。


 上総は唇から鋭い呼気を放出しながら持ち上げた自動改札機を向かい来るロムレスアブラボウズの群れへと情け容赦なく投擲しはじめた。


 矢のように疾った自動改札機がこちらに向かって押し寄せてくる群れを次々と肉塊に変えてゆく。


 どっどっ、と肉がひしゃげて潰れる音が響き、魚体を構成していた油分がびしゃっと床となく天井となく汚してゆく。


 上総は冷静に次々と改札機を根元から引き剥がすと、重さなどないかのような超人的膂力で軽々と宙を舞わせて怪魚たちを葬っていった。


 だが数が数だ。


 上総が超人的な力ですべて自動改札機を得物として投げつけても生き残った数匹は果敢にも突撃をやめようとしない。


 上総が諦めて会社の馘首を受け入れようと目に涙を溜めはじめたとき、背後からしゅしゅっと赤い光がほとばしったのを見た。


 火矢だ。


「射てっ。そのまま異形の怪物たちを平らげよ」


 くっ、と首を曲げ後方を見るとダークスーツを着込んだ四十過ぎの精悍な男が、巫女の一軍を指揮して矢を射らせていた。


 巫女たちは全員が全員とも紅と同世代の若い少女たちだった。


 平均的に見ても顔を基準にそろえたような整った容貌を誰しもが持っていた。


 いつの間に、これだけの数が迫っていたのか不思議なほどである。


 ざっくり見て三十人はいそうな巫女たちは、それぞれがしゃりしゃりと音を立て神楽鈴を揺すったりする組と、長弓を引き絞って矢を射たりする組とで分かれ完全な統制が取れていた。


 ロムレスアブラボウズたちは火矢を喰らうとオレンジ色に燃え上がり、嫌な臭いを発して燃え尽きていった。


 ちなみにロムレスアブラボウズは煮つけにして食べると非常に美味らしいが、捕獲時のリスクが高く、市場で競りに出ることは極めて稀である。


 一部の好事家が冒険者に頼んで捕獲依頼を出すこともあるらしいが、臭いの保証については対象外なので冒険者ギルドでも忌み嫌われている。


(と、過去を思い耽るのはどうでもよくて。この巫女さんたちは、いったいぜんたいなんなんだろうか。陰陽機関からの援軍かな?)


「岩手彦ッ」


 上総が見当違いなことを考えていると、紅はダークスーツの男を親の仇のような目で喰うように睨んだ。


「これは、珍しいところで珍しいものに出会った。てっきりあの惨状ではとっくに食い尽くされたかと思ったのだがな」


「お生憎さま。あたしはあんたの使えない下僕とは格が違うのよ」


「そのわりにはこのような下等妖物に手をこまねいて逃げ回る程度では話にならない」


「なんですって。アンタ、もう一度いってみなさないよ。そのキザッたらしい眼鏡バキバキにぶっ壊してやるんだから」


 紅が吐き捨てるように叫ぶと見目麗しい巫女たちが形相を一変させて前に出た。


「岩手彦さまになんたる無礼な口の利き方。分を弁えなさい」


「は? そいつのケツにくっついてるだけが能の雑魚どもは引っ込んでなさいよ」


 頬を紅潮させて岩手彦の巫女軍と紅が改札口で真っ向からメンチを切り合う。


 上総は泡を喰いながら両者を見やり、どう仲裁の言葉をかければいいか激しく悩んだ。


 岩手彦が手を上げると巫女たちはよく躾けられた犬のようにサッと引き下がる。


 次いで、柱の陰に隠れていたスーツをかっちり着込んだ男たちが四人ほど姿を見せた。


「おまえがどう思おうが今回の件は私の組で引き受けさせてもらう。素直に呑んでくれるとこちらとしても大変手間が省けるのだが」


「で、か弱い乙女にそのゴリラどもを差し向けて黙らせようってわけ? 名高い陰陽師の岩手彦さまは大層紳士的でいらっしゃるのね」


 岩手彦は眉間にシワを刻んだままわずかに視線を落としていった。


 その表情、遠いなにかを懐古するような、悲しみと憐憫が入り混じったものだった。


「こういったときほたるならばおとなしく聞いてくれたものだがな」


「おまえが、姉さまの名を口にするな――!」


 突如として激高した紅が歯を剥き出しにして岩手彦に掴みかかるが、重量感のある四人の男が壁のように立ちはだかって進ませない。


「いい加減に聞き分けろ」

「岩手彦さまはお忙しい身の上なのだ」

「いちいちお手を煩わせるんじゃない」


「どきなさいよ」 


 紅の目がスッと細まる。立ちはだかった男たちをすでに人間として認めない冷え切ったものだった。


 男が無言のまま手を伸ばす。グローブのように厚みがあって節くれだった太い指が紅に迫った。


「ちょっと待てってば。いきなり同業者同士揉めるのはどうかと思いますよ」


 ずっと見守っていた上総は音もなく紅と男の間にすべり込み、腕を掴み取っていた。


 男は百九十近い長身でボディビルダーのように胸板が厚い。


 ちょっと見は痩せてひょろっとした上総に押さえ込まれたことで驚いたようだが、思い直して振りほどこうと身をよじるがその太い腕はピタリと押さえ込まれたまま微動だにしなかった。


 男は額に脂汗をかいたまま、歯を食いしばって満身の力を込めているが逃れることができない。


 一方上総は飄々とした様子で特に力を込めている風でもなく、猫背のままあくびまでする始末だった。


 男が唸りながら頭突きをかましてきた。


 ガッと頭蓋が鳴る音がして紅が甲高い声で怒鳴る。


 次の瞬間、黙って見ていた岩手彦の爬虫類のような目にわずかに感情が生まれた。


 頭突きをかました男がふらふらとその場に崩れ落ちてゆく。


 どこか蔑むような目で紅と上総を見ていた美貌の巫女たちが口元を手で覆った。


「野郎ッ」

「ふざけやがって!」

「なめるなっ」


 残った三人の男たちが三方から上総に向かって飛びかかる。


 紅が前に出ようとするのを押し止め、上総がなんでもないようにいった。


「ちょっと相談があるんだけどさ」


 振り返ったまま平時と変わらない様子で困ったような顔をした。


 男たちがそれぞれ右拳を、肘打ちを、蹴りを容赦なく放って来る。


 上総は額と胸と腰にそれぞれ打撃を受けたが身じろぎもせず平然としたまま片手で胸ポケットから財布を取り出した。


「もお、うるさいなぁ。今大事な話してるんだからさ」


 ひょいと蹴りを放ったまま足を上げている男の右足首を掴んで引き上げた。


 大の男を、それも確実に一〇〇キロ超えの巨漢を猫の子のように逆さまに釣ったのだ。


 上総は男の右足を持って風車のようにぶるんと振ると棒立ちになっていた男の身体へと放り投げた。


 軽々とティッシュ箱のように投げられた男は強張った表情の男を巻き込んで駅員質の窓ガラスを突き破り昏倒した。


 残ったひとりの男が上総の右足を取ろうとタックルをかましてくる。


 上総は見ようともせず右肘を後方へと曲げて男の顔面に突き入れる。


 ぐじゃあっ、と男の顔面中央が陥没して仰向けに引っ繰り返った。


 後方へと二メートルほど吹っ飛ぶ。巫女たちはきゃあっと悲鳴を上げて自分たちの場所まで飛んできた男をさけた。


 岩手彦はそれを目にし、ピクピクとこめかみに青筋を立てて確かに不快感を露わにした。


「なあ紅。いいか」

「な、なによ?」


「手持ちが足りないから帰りのタクシー代貸してくんない?」


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