遠き日を留めて
雛田安胡
遠き日を留めて
津宮雪乃は、自室のベッドの隅で蹲っていた。
時刻は深夜二時を回っただろうか。部屋に灯りは何も無く、窓から差し込む月明りだけが、寒々と室内を照らしていた。
明日も授業がある。もうとっくに眠らなければいけない時間だというのは、頭では分かっている。でも、眠りたくなかった。
眠ったら、朝になってしまう。朝になったら、学校に行かなければならない。それが嫌だった。行きたくない。
雪乃は、クラスの中でいつも一人だった。
自分から誰かに話しかけるなんてできっこない。話しかけられたとしても、気の利いた対応だってできない。そして気が付いたら、みんなから疎んじられていた。
「……………………っ」
雪乃はそれまで握りしめていたストラップを、窓に向かって放り投げた。
小学生の頃、授業で作ったビーズのストラップだ。自分が確かにここにいる、そう代わりに主張してくれている気がして、ずっと大事にしてきたもの。
いつもなら、投げたりなんかしない。でも今日は、特に辛かった。だからつい、当たってしまったのだった。
コツン。
力無く飛んでいったストラップは、窓に当たって床に落ちた。
そして、その窓の向こうのベランダに、人影が見えた。
「え…………?」
年齢は雪乃と同じくらい。タキシードのような服装で、細い目が特徴的な、空っぽの笑みを浮かべている少年だった。
その少年は、優雅に一礼して言った。
「こんばんは、そして初めまして、可愛らしいお人形さん。僕はグノーシス。悪魔です。身勝手で傲慢な主への当てつけの為、貴女を救いに来た者です」
そして更に笑みを強めて、続けた。
「取り敢えず、鍵を開けてくれませんか。こう見えて、けっこう寒いのです」
当然のことだろうが、雪乃は反射的に逃げ出そうした。しかし一瞬の後、ピタリとその動きを止めた。
(これがもしも、わたしが見てるだけの幻だったら…………)
いつか誰かに言われた、悪口が蘇る。
『ホラ話をするなんて、悪いやつだ』
『やっぱり変なのよ、あの子』
また、後ろ指をさされてしまうかもしれない。
そう思うと一歩も動けず、誰かに言って助けを求めなきゃという気持ちも、霧みたいに消えてしまった。
振り返って、窓の方を見る。
その少年はまだ、ガラスの向こうでニコニコと笑っていた。
「……………………」
雪乃は窓に近づくと、掛かっている鍵に手を伸ばした。
(どうせ幻覚なんだし、もうどうにでもなれ……!)
窓の鍵は、少しだけ軋みながら外れた。そしてそれを見つめていた少年が、窓の淵に手を掛ける。
カラカラカラ。
軽やかな音がすると同時に、冷たい風が雪乃に当たる。
窓を開けた少年は、律儀に履いていたブーツを揃えて部屋に上がり込んでいた。
「えっ……、あ、あの……」
「どうかしましたか? ふむ、それにしても暗いですね。僕はともかく、貴女は悪魔じゃないんですから、もっと明るくいきましょう」
パチン、と少年が指を鳴らす。すると、部屋の蛍光灯が真っ白な明かりを放った。
(げ、幻覚なんかじゃない……?)
慌てふためく雪乃に、少年はまた笑いかける。
「さあさあ、お好きな場所に座って下さい。ちょっとばかり強引に上がり込んだ客人なんて、気にされなくても結構ですよ」
まだ全然、混乱はしていた。だがそれでも、雪乃はたどたどしい動きで頷いた。それ以外にやれそうなことが無かったのだ。そして、さっきまでいた場所に、さっきまでと同じ体勢で腰を降ろした。
要は、ベッドの隅に蹲ったわけである。
「では、ちょっと拝借しますよ」
少年はそう言って、勉強机から椅子を引き出して座った。
「では、何から話しましょうか。と言っても、いきなりたくさんのことを吹き込んで混乱させるのもいけませんからね。はてさて、どうしましょうか」
少年は、どこかもったいぶった動きで、顎に手を当てて考え込む。
「そうですね。まず、可愛らしいお人形さん、貴女は……」
「…………あのっ」
「? 何でしょうか?」
「あっ、いえ。何でも……ないです…………」
雪乃の声は、だんだんと尻すぼみになっていった。
他人の話を遮るというのは、人によって変わるけれど多くの人にとって、不快に取られるものだと雪乃は思っていた。
そして、そんなことをしたら嫌われてしまうのは当たり前。嫌われる、というのが、雪乃は一番嫌いだった。
しかし雪乃の考えに反して、その少年は何故か、少し早口にこう言ったのだった。
「いやいや、言いたいことがあるならば、好きなように仰って下さい。僕の話より貴女の話。これは当然のことですから」
少年の空っぽな笑みは変わってはいなかったが、その口調には何故か、俄かに焦りが混じっているようだった。
(なんで全然、厭そうにしないんだろう……)
わけが分からなかった。動揺もしたし混乱もした。だから雪乃は、取り敢えず少年の言葉に従ってみることにした。
「あ、あの、お人形さんって、わたしのこと……ですか?」
少年は頷く。
「ええ、勿論そうですとも。綺麗な傀儡、純粋無垢なハリボテ。まあ、言い方は何だって良いのです。肝心なのは、貴女が神様によって仕立てられた、都合のいいお人形だということです」
少年は椅子から立ち上がって、まるで歌劇でもするかのように片手を胸に当て、もう片方の手を天を仰ぐように伸ばす。そして話を続けた。
「そう、貴女はお人形だ。それもとびっきり出来が良くて可愛らしい。お店に置いたら、すぐに近所の女の子が買って行ってしまうくらいにね。
ただしかし、塗られた絵の具は最低だ。愚鈍、臆病、無知蒙昧、自己中心で独りぼっち。そんな色ばっかり。これじゃあ、買った女の子だってすぐに嫌いになって捨ててしまう。
絵の具を塗ったくった悪い人は誰かって? そんなの決まってる。神様さ。でもね、誰もそのことに気付けないのさ。みんなお人形のことを汚い醜いなんて蔑むけど、そんなものに触りたくない関わりたくないって言って、絵の具師が誰かなんて気にしないからね。それに、みんなは信心深くて良い人ばっかりだから、だーれも、神様なんて疑わない。
綺麗だったお人形は、哀れにも神様に貶められて、道端で朽ちていきました。めでたしめでたし」
朗々と長話を終えた少年は、ふう、と一息を吐いて、雪乃を見つめた。
「如何でしたか、こんなおとぎ話は」
雪乃は、少年から視線を逸らした。
「よく分からないですけど……、お人形は、可哀そうでした」
少年は大きく頷く。
「ええ、そうでしょうとも。ですから……」
「……でも」
「?」
雪乃の、小さく呟いただけの声にも反応して、少年はピタリと喋るのを止め、不思議そうな顔をした。
「そのお人形は、醜くなってしまったんですよね? だったら仕方ないことなんじゃないか、って……思います」
それに、と雪乃は思う。
(お人形が一つ、無くなってしまっただけなんだし)
「ほう、たかが人形一つ、ですか」
「っ!」
雪乃は、驚いて顔を上げる。しかしそこには、さっきまでと同じように、空っぽの笑みを顔に貼り付けた少年がこちらを見つめているだけだった。
「僕は悪魔ですよ。心を読むぐらい出来て当然です。それはそうと」
それまで浮かべていた笑みを少年は消して、それまで細めていた目を、僅かに開いた。
途端、雪乃は背筋が凍るのを感じた。その少年の瞳が、笑みを消した瞬間に現れた雰囲気が、堪らない程に恐ろしく感じたのだ。
「もう言いましたが、その人形とは貴女のことですよ、津宮雪乃さん。それでも貴女は、人形が朽ちるのは仕方ないと、そう言いますか?」
雪乃はこくりと、頷いた。
少年は見定めるように、ベッドの隅で蹲りながらも自己犠牲を肯定した、その少女を睥睨した。
「…………はあ」
そして、見開いていた瞳をまた細めて、酷く気疲れしたように背中を丸めて嘆息した。
「人形を作ったのも神様でしたか、それとも、神様が都合のいい人形を狙って絵の具を塗ったくったのですか。どちらにしたってやることは変わりませんがね。さて」
また、少年は雪乃の方を向いた。
「それ、嘘偽りではない、本心ですね?」
雪乃は頷こうとしたところで或ることに気付き、拗ねたような気分で俯いた。
「また、心を読めば……、良いじゃないですか」
ほんの少しの間。
「くっ、あははは」
少年の快活な笑い声が部屋に響いた。
何が面白いのだろうか、と、雪乃がまた顔を上げると、少年は笑いを堪えながら答えた。
「僕は悪魔ですよ。嘘をつくに決まってます。心が読めたらこうして話す必要なんてないでしょう。あれはね、簡単な推測ですよ。貴女ならこう思うだろう、という具合にね」
またひとしきり少年は笑うと、目元の涙を拭って続けた。
「まあ、貴女が自己犠牲を肯定するということなら、貴女の意思は無視していくだけですよ。なんてったって悪魔なんですから、人の考えはお構いなし、と言うことで」
そこまで言うと少年はくるりと踵を返して、入ってきた窓の取っ手に手を掛けた。
「ま、待ってくださいっ」
雪乃はベッドから慌てて降りて呼び止めると、少年は来たときと同じような、空っぽの笑みを浮かべて振り返った。
「なんですか?」
「あなたは、ほんとは誰なんですか、何をするつもりなんですか……っ」
少年は小首を傾げる。
「一度言いましたよ? 僕はグノーシス。悪魔であり、貴女を救いに来た者だって。何をするかは、まあ、お楽しみということにしましょう」
そう、愉快そうに言った少年は手早くブーツを履くと、ベランダの手すりに足を掛けた。
「では、また今度」
颯爽と身を投げた少年、グノーシスの姿は、その後雪乃がベランダから捜しても、どこにも見当たらなかった。
翌朝。雪乃は、朝の光が顔に当たったのを感じて目を覚ました。
(あれ……。夢?)
ゆっくりと上体を起こして、寝ぼけ眼で部屋を見渡す。
(……じゃない)
勉強机の椅子が、不自然な位置に佇んでいた。明らかに、誰かが引き出して座ったのだ。
自分が座った記憶はない。昨日の夜、そこに座っていたのは、細い目と空っぽの笑顔が特徴の少年だった。
グノーシス。結局あの少年は、何をしに、何を言いに来たんだろうか。
(また今度、って言ってたから、次会ったときに訊こう。……あんまり、考えたくないけど)
と、雪乃は取り敢えず楽観的に捉えることにして、ベッドから身を起こす。
(それよりも、学校に行く支度をしなくちゃ……)
壁に掛けられた時計は七時前を指していた。逆算すると、四時間くらいしか眠れていないことになる。実際、身体も怠かった。
でも、学校を休んでしまったことで後ろ指を差されるよりは、ちょっとくらい無理をして登校するほうが、雪乃にとってはよっぽど楽だった。
クローゼットから、中学校にしては珍しいブレザータイプの制服を取り出し、着替ようとパジャマの裾に手を掛ける。すると途端に、雪乃の腕に痛みが走った。
「っ…………」
昨日の傷がパジャマに擦れたのだろうか。
思わず泣いてしまいそうになるぐらい、辛い痛みだった。
天塚明が登校する時間は、彼自身のクラスメイトと比べても、全校生徒と比べても、かなり早い時間だ。
早く起きることは苦ではなかったし、それなら早くに学校に行って本でも読んでいれば良いだけ。余裕を持って登校するというも、本を読むのも、善いことなのだから。
明にとって、それは行動理由として十分だった。
今日も、人の疎らな中学校の正門をくぐる。
「あの、すいません」
突然、後ろから声が掛かった。
明にはこんな早い時間に登校してくる、しかも他人行儀に接してくる知り合いなど心当たりが無かったので、怪訝に感じながらも振り返った。
「天塚先輩、ですよね」
そこには、細い目が特徴的な男子生徒が立っていた。制服のネクタイの色は青。明の一つ下の学年、二年生だ。
因みに、明の学年である三年生は赤である。
「そうだけど、何か用事?」
その生徒は頷いた。
「お願いが一つあります。先輩のクラスに、津宮雪乃さん、って居ますよね。その人と仲良くしてあげてくれませんか。人助けだと思って」
人助け。その響きは、明にとって非常に重要なものだった。
だが、明は首を捻る。
「それなら、俺じゃなくて女子の方に頼めば良いだろう。どうして俺に?」
訊き返すと、その生徒は酷く気まずそうな顔をした。
「津宮さんは、人付き合いが苦手ですから……。極端な話、普通の人に頼んでも、あんまり意味が無いんですよ。でも、天塚先輩なら、と聞いたので」
断る理由など、明には無かった。善は実行されるべきなのだから。
「いいよ。やってみる」
男子生徒は笑みを浮かべた。
しかし明には、その笑みが何故か、とても空っぽで底の見えないものに見えた。
「ありがとうございます。それじゃ僕はこれで」
礼を言い、そのまま明を追い越して立ち去ろうとした後ろ姿を、明は呼び止めた。
「ちょっと待った、君、名前は?」
男子生徒の動きがピタリと止まる。そしてほんの一瞬、けれども不自然に感じてしまう一瞬の後に、男子生徒は振り返った。
「見潟半人です」
「分かった、覚えとく」
見潟半人は、今度は無言で一礼して、生徒玄関の方へ踵を返した。
明もその後に続くように生徒玄関に向かったが、彼は一度もこちらを振り返らなかったし、内履きに履き替えた後は、姿を見ることも無かった。
(なんか、無愛想な奴だな……)
しかし明は、その程度にしか思うことが出来なかった。
二年の教室は二階、三年の教室は一階にある。玄関に居ないのなら、もう二階の自教室へ向かっている筈だ。それに、自分から大して関わりの無い先輩に、用事が無いのに話しかけるなんて真似は普通しないだろう。そう考えるとあの態度は普通か。
と、明は自分を納得させて、青いリノリウムの廊下を自分の教室に向かって歩く。
当然、人影は少ない。自分のクラスにも、数えるぐらいしか生徒は居なかった。まあ大抵、後十分もすれば騒がしくなってくるのだが。
教室が静かなうちは本を呼んで、ある程度登校してきた人数が増えたら彼らと雑談をに興じる、というのが天塚明のいつもだった。
だが、今朝は違った。暫く経って生徒の数が増え、教室の中に賑わいが満ちてきても、明は読んでいる文庫本を手にしたまま席から動かなかった。
(津宮……。あんまり、話題には上がらない奴だよな。それに、そもそも……)
クラスメイト達はどこか、津宮雪乃を避けていた。
どんな風にか、と言われても答えようは無いが、明も十代半ばなのでありスクールカーストとかそういうものに対して敏感だったため、それくらいは知っていた。
ただ、何故避けられているかは知らなかった。明は、雪乃と一緒のクラスになったのは三年が初めてだったし、小学校も違った。全く関わったことが無いのだ。
(誰かに訊いてみるか……)
文字を追うことを止めて完全に考え込んでいると、ふいに、その津宮雪乃が教室に入って来るのを見つけた。
そして雪乃が通りかかった途端に、その近くでお喋りに興じていた男子のグループの空気が硬くなり、彼らの声量が下がったのも。
明は内心で悪態を付く。
(人付き合いが悪いとか、そういうレベルじゃないだろ、これ)
何か問題のある他人に、その抱えている問題がどういったものかも判らずに接触するというのは、明にとってしたくない行為の一つだった。
なるべく、下を向いて歩く。他人と目を合わせない。雪乃にとっては、もう慣れ過ぎてしまった当たり前のこと。
それは、毎朝教室に入るときも変わらない。
そして、自分が近づくと声を潜める人達も、全くもっていつも通りだった。
(気にしない、気にしちゃいけない)
雪乃はそう自分に言い聞かせながら、席に座った。昨日までなら気にすることも疲れてしまうぐらいで、こんなことは無かったのに。
(あの人のせいかな……)
昨日の夜の少年、グノーシス。
彼は自分のことを悪魔だと言い、雪乃のことを人形だと言った。
(たしかに、わたしは人形みたいかもしれない)
他人に悪く思われたくない、迷惑をかけたくない。たったそれだけの、強迫観念じみたもので、自分の意志とは無関係に動かされている。
そう考えれば、雪乃が人形であることに間違いは無いだろう。
(でも、やっぱり違う……)
しかし同時に、雪乃はそう思った。
だって、他人からどう思われるかを考えてしまうのも、雪乃自身の感情なのだから。
雪乃が自分の唇を噛み締めるの同時に、始業のチャイムが鳴った。
それは、その日の放課後の事だった。
「……津宮」
帰ろうとした雪乃を誰かが呼び止めた。少しだけ聞き覚えのあるその声に振り向くと、整った顔に生まれつき明るい色合いの髪で、涼やかな微笑みを浮かべた男子生徒、天塚明が雪乃を見つめていた。
彼は雪乃にとって、いつも人に囲まれていて皆を引っ張っていくような存在で、強いて言うなら上の方にいる人で、とても自分に声を掛けるなんて有り得なかった。だからどうすれば良いか判らず、返事をすることも忘れてただ立っていた。
しかし彼はそんな雪乃の様子など気にしていないのか、鞄を担ぐとこう言った。
「一緒に帰らない?」
雪乃の思考は、一瞬で固まってしまった。当たり前だ。こんなとき、どうすれば良いのか、或いはどうすれば良かったのか、雪乃は全然知らないのだ。
だからなのか、それとも違う理由からなのか、とにかく怖かった。ここでの自分の発言が、行動が、どんな噂や波風を立ててしまうのか。
(えっと…………)
フリーズしてしまった頭で、雪乃は必死に考えた。
しかし、はぐらせるような上手い応え方なんて、こんな状態じゃなくたって出来ないのだ。無理に決まっている。分かったのはたったそれだけ。
結局、雪乃に残されていたのは、『はい』か『いいえ』のどちらかだけだった。
「…………」
迷った末に、雪乃は頷いた。
断るよりは悪く思われないのだろう、と。たったそれだけの理由で、まるで人形のように。
そんなことを知らず、明は屈託のない笑顔を見せた。
「よし。じゃあ行こうか」
それでも、雪乃はどこか、取り返しの付かないことをしたと、そんな気がしていた。
昼休み。雪乃に関することを何にも知らなかった明は、取り敢えず、教室に残っていた顔見知りにそれとなく話題を振ってみた。
「津宮? 俺は小学校は一緒だったけど、中学に上がってからはクラス違ったし……、そもそもあいつ、全然話さないじゃん、知りようがないんだわ」
整髪料で髪を固めているその男子生徒は、教室を見渡してその本人が居ないことを確かめると、
「まあ、顔は好みだけど…………」
そう付け加えた。
「てか、お前のほうが知ってんじゃね。去年クラス一緒だったろ」
髪を固めた男子生徒は、隣の長身の男子生徒に言った。
「まあ知ってると言やあ知ってるけど、……そんな愉快なもんじゃないぞ?」
明の方を向いた長身の男子生徒を、明は躊躇いなく促した。
「続けて」
「一年の時の話だったと思うんだけど、津宮のやつ、先輩の彼氏に手を出したとかで、その先輩にすげえ虐められたらしい……ってだけの話だよ」
「津宮……、そんなことするやつだったかなあ?」
髪を固めた男子生徒が首を傾げる。
「人間いろいろあんだろ。まともに話したことが無くて分からないってんなら、尚更さ。…………で、俺はこれくらいしか知らないけど、満足かよ、天塚」
沈思黙考していた明は、その言葉にはっと我に返った。
「ああ、うん。ありがとう」
どこか様子のおかしい明に二人は揃って訝しそうな視線を送るが、また考え込んだ明は全く気付かなかった。
それは、その日の放課後のことだった。
明は、すぐさま帰ろうとしていた雪乃に声を掛けた。
「津宮」
呼び止められたその小さな後ろ姿は、くるりとこちらを振り返った。そしてその時、明は初めて、津宮雪乃という人間を正面から見ることが出来た。
肩の辺りまで伸ばした髪を後ろで纏め、前髪は目の上で切り揃えている。それに縁どられた顔はいかにも少女然としていて可愛らしい。
(確かに、あいつ好みな顔立ちだな、うん)
余談だが、『あいつ』こと髪を固めた男子生徒は、明の後ろで目をまん丸に見開いていたところを、長身の男子生徒に教室の外へ連れて行かれていた。
「一緒に帰らない?」
そう、明は切り出した。ついでに微笑みを添えて。
それに対して雪乃は驚くほど逡巡する素振りを見せたが、ほんの少し待つと、意を決したように小さく頷いた。
紛れも無い。OKということだ。
「よし。じゃあ行こうか」
雪乃を連れて教室を出る。
ふと明の脳裏に、さっき自分の後ろで目を丸くしていた顔が浮かんだ。
(悪い。狙ってるとかじゃないけど、こういうのが一番手っ取り早いだろ?)
心の中で言い訳をして、明は玄関に向かった。
靴を履き替えて、陽の落ちかけた外に出る。そしてようやく、明は雪乃に話しかけた。
「家、何処にあんの?」
「……東栄町のほう」
雪乃は小声で答えた。
(東栄町か……)
明の家はそこと少し離れた、中他門というところにある。中学校からでは微妙に方向が違うし、東栄町を通るとなると遠回りだ。
(まあ、いっか)
明は何の臆面も無く笑って見せる。
「良かった、俺もそっちだ」
こんな時に興醒めなこと言うのは善くない。自分が陰でちょっとばかり苦労をすれば良いだけ。それが明の持論だった。
人の姿が疎らな通学路を、並んで歩く。
『よく図書室に行ってるよね、どんな本読んでるの?』とか、『部活は入ってないの?』とか、『最近、家で飼ってる犬がさ――――』とか。
明は雪乃に、たくさんの話をした。だがそれに対する雪乃の反応は、どれも小声で、端的なものばかりだった。
(もしかして、警戒されてんのかな、俺)
殆ど初対面だから嫌われているということは無いだろうが、それにしても、である。
(それとも、津宮って元々こういう奴なのか?)
見潟半人が言っていたのはこれ、ということだろうか。
「あ、あのっ」
唐突に雪乃が上げた声で、明は思考から引き戻された。
「ん……、なに?」
明が視線を向けると、雪乃は俯いてまた逡巡する様子を見せたが、今度は直ぐに顔を上げた。
「なんで、わたしなんかと一緒に帰るんですか。わたしなんかと話してて、たのしいですか……?」
これは、どういう意味だろうか。
明は、立てていたどの予測とも違ったことを言いだした雪乃に驚き戸惑った。ただ、そういう質問に対する、背中が痒くなるような答えをいとも簡単に言えてしまうのが明という人間だった。
「楽しいよ。他人と話してて楽しくないことなんて、あるわけないだろ」
動揺の素振りを微塵も見せず、明は言った。
しかし、そんな教師が言うような綺麗な詭弁を言われてもなお、雪乃は食い下がった。
「なら、他の人と話せばいいじゃないですか……! 敢えてわたしに話しかける理由なんて、無いですよ……」
「いや、ある」
雪乃の泣き出しそうな顔を一度見てから、明は続けた。
「津宮さ、俺が見たところだけど、全然人と話してないじゃん。だからだよ。他人と話さないって、善くないと思うんだ」
唖然とした雪乃。明は、まだ言葉を紡ぐ。
「だからさ、話そうよ。そんで、聞かせてくれよ。津宮のことをさ」
しかしその裏で、明は口には出さずに独りごちる。
(教えてくれ。君が、本当はどういう人間なのか)
「ふーん……。だいぶ疲れてるみたいですね、可愛らしいお人形さん」
「ひゃっ!」
それはまだ日付の変わらない、けれどもだいぶ遅い時間の、雪乃の部屋でのことだ。
「ひゃっ、て。確かに僕は悪魔ですけどね、こうして人の形をしてるんですよ。悲鳴を上げなくたって良いじゃないですか」
「ご、ごめんなさい……。だって、いきなりだったから…………」
何が起きたのかというと、疲れ切ってベッドに倒れ込んだ雪乃の視界に、自分の椅子に勝手に座っている人影が映り、しかもそれが話しかけてきた、というわけである。
「だいたい、なんで入ってるんですか。他人の部屋に勝手に」
「ありゃ、お人形さんでも流石に怒りましたか、これは失礼。ですけどね、一回開けてくれたではないですか。ならば後は出入り自由。人間には人間の、悪魔に悪魔に常識というものがありますから」
(屁理屈にしか聞こえない……)
雪乃は頬を膨らませた。それを見た自称悪魔の少年、グノーシスは楽しそうに笑う。
「でもまあ、貴女が肩の力を抜いてくれたのは嬉しい限りです。いつまでも怖がられているかと、こちらとしても忍びないですからね。それはそうと、どうです? この服」
ここに来てやっと、雪乃はグノーシスの服に違和感を覚えた。
「あっ……」
それは紛れもなく、雪乃の通っている中学校の制服だった。
「タキシードよりは接しやすいんじゃないかと、ちょっと思い立ちましてね。残りは悪趣味な洒落と悪戯心で。悪魔のマストアイテムは、今も昔もこの二つですから」
「あの……」
「何ですか?」
「ネクタイの結び方、変ですよ」
「……これは、敢えてこうしてるんですとも、ええ。着物を着るとき左前だと不吉だからやめろと言われるでしょう。悪魔は不吉が大好きですからね。つまりはそういうことです」
グノーシスはそう言いながらも、乱暴な動作でネクタイを解いてしまった。
「……ふふっ」
思わず、口許が綻ぶ。
「お、やっと笑ってくれましたか。うん、貴女というお人形はどんな表情でも可愛らしいが、やっぱり笑っているのがいちばんだ。苦しそうなお人形なんて、誰も買いませんからね」
グノーシスは満足そうに頷くと、今度は雰囲気を一変させて言った。
「それで、貴女は今日、どこぞの天使に誘われていましたが、どうでしたか? ご感想は」
(天使……?)
きょとんと首を傾げる雪乃。だが、直ぐに察しはついた。
「天塚さんのこと?」
グノーシスは首肯した。
「ええ。そいつです」
「…………」
正直、雪乃は迷っていた。
目の前の少年は、今まで自分が学校なんかで教えられた枠組みに当て嵌めれば、不審者以外の何物でもない。でも、彼は少なくとも人間じゃない不可思議な何かだし、もしそうなら、不審者とかそういう問題じゃなくなる。
でも何故か、理屈ではなくて直感的なところで、話しても良いんじゃないかという気がしていた。
それは、雪乃がグノーシスという謎の存在に、気を許していたということなのかもしれない。
「すごく、優しい人、だったかな……」
知らない内に、雪乃は口を開いていた。
グノーシスの方を向くと、頷いているのが見えた。続けていい、っていうことだろう。
「わたしに話しかけてくれた理由がね、わたしが他人と話してないのが良くないから、って。そんな理由で行動できるなんて、きっとすごいことなんだと思う」
「ふむ」
グノーシスは、顎に手を当てた。
「良くない。いや、善くない、ですか。なかなかの御仁ですね」
「それでね、最後に『また明日も話そう』って。話かけてくれるのは、嬉しいんだけど……、わたしは、そういうの出来ないから、辛くて」
「そんなの、自分が話したいことを素直に口に出せば良いんですよ。例えは悪いですけれど、それこそ僕みたいにね」
あはは、と雪乃は力無く笑う。
「そうだよね……。でも、それが出来ないの、どうしても。他人の前にいると、頭が真っ白になっちゃって」
そう言った雪乃に、グノーシスは少し意地悪に口許を歪めた。
「そうですか? 今の貴女はとても饒舌じゃないですか。その調子なら、心配なんて要らないと思いますけどね」
「あれ、……ほんと。どうしたんだろう、疲れてるのかな」
グノーシスは、今度は優しげにゆったりとした動作で頷いた。
「ええ、きっとそうです。今日はもう眠りましょう、可愛らしいお人形さん。付き合わせて、すいませんでしたね」
そういうとグノーシスは立ち上がって、ベッドの上の雪乃に歩み寄った。
「いえ、そんなこと……。わたしは、あなたと話すのだって……何だか、……たの……し……」
雪乃は、グノーシスが自分の目の前に振りかざした手を見たのをを最後に、昏々とした眠りの底に落ちていった。
グノーシスという名を騙る少年は、パチンと指を鳴らして部屋の灯りを消すと、眠っている雪乃に毛布を掛け、そしてその顔をじっと見つめた。
「見ず知らずの、そもそもどんな存在か分からない相手に、君は心を開き過ぎだよ。そんなに常世に傾いていたら、駄目だ」
少年の細められた瞳に、決意が灯る。
「絶対に、約束は果たすとも。罪耶の名と、宿禰の誇りに誓って」
少年の姿は、霞のように掻き消えた。
(あれ……?)
雪乃は気付くと、何処にあるとも知れない、棚の林立する蔵の中にいた。
しかし、着ている服は自分のパジャマで間違いはないようだ。
(グノーシスと話してて、それで寝ちゃって……。これ、夢なのかな)
でも、夢にしてはとても鮮明で、自分の手足も好き勝手に動かせるようだった。俗にいう、明晰夢とか、そういう類だろうか。
蔵の中は薄暗いものの、前が視えない程では無かったので、雪乃は取り敢えず歩き回ってみることにした。
(それにしても、広い蔵……)
暫く真っ直ぐに歩いてみたけれど、全く壁に行き着く気配が無い。
途方に暮れていると、どこからか小さな女の子の泣く声が、雪乃の耳に届いた。
(え?)
慌てて周りを見渡す。すると、並び足つ棚の隙間から、採光の為の小さな窓から零れた光に照らされた場所で、灰色のワンピースを着た小さな女の子が座り込んで哭いているのが見えた。
(あのワンピース……、わたしの?)
雪乃は小さい頃、普通の子なら好みそうもない灰色のワンピースがお気に入りだった。そしてその子が来ているワンピースは、雪乃の記憶の中にあるそれと、全く同一のものだった。
「どうしたんだい、こんな場所に独りで」
聞き覚えのある声がした。しかしその言葉は雪乃に向けられたものではなかった。
その声の主は、何故か着流し姿をしていて、独り哭いていた女の子の脇に跪いていた。
そして、それは細い目が特徴的で中身の無さそうな笑みを浮かべている少年で、まるで――――。
「だれも、あそんでくれないの」
女の子が泣きじゃくりながら言った。
「友達はどうしたんだい?」
少年が尋ねた
「わたし、ともだちができないの」
女の子はまだ、泣いていた。
「それじゃあ、お母さんやお父さんは?」
また、少年が尋ねた。
「おうちにいない。いそがしいの」
女の子はまだ、泣き止まない。
「それじゃあ、僕と遊ばない?」
女の子は、泣き止んだ。
「いいの?」
少年は頷く。
「良いとも。僕だって、暇だったからね」
ふわっ、と。
少年がその台詞を言った瞬間、奇妙な感覚に雪乃は襲われた。そして気付くと、小さな窓から差し込む光が茜色になっていた。
「ほら、もう帰らなきゃ。みんなが心配するよ?」
優しい口調で、少年が言った。
「やだ。もっとあそぶ」
女の子は、駄々を捏ねた。
「じゃあ、こうしよう」
少年が何か提案した。そして、まるで子供同士が悪戯の相談をするように、女の子に耳打ちをした。
途端、女の子の表情が明るく変わる。
「うん! やくそくね!」
女の子はパタパタと、何処かへ向かって駆け出していく。きっとそっちに、出口があるのだろう。
「…………おやすみ」
その少年は、雪乃のことを見ると呆れたように眉尻を下げて微笑み、確かに、そう言った。
「待って――――!」
色が焦る。影が霞む。そうして雪乃は夢の中から急速に遠ざかって行った。
「――――っ!」
飛び起きると、外はもう明るかった。
時計を見る。いつもの時間より十分以上遅い。
(学校……!)
雪乃は慌てて、支度を始めた。
だからだろうか。いつもより、憂鬱じゃなかったのは。
放課後のことだ。
「週末、どこか出掛けない?」
明は別れ際に、雪乃にそう提案した。
「え…………?」
当たり前のように驚き固まる雪乃を尻目に、明は続ける。
「いやさ、津宮とゆっくり話せるのは、下校している今だけ。だけど、これ以上部活サボるのはまずいんだよ。だから、平日に話せなかった分を週末に話そう、って思ったんだけど、嫌じゃない?」
雪乃は、こくりと頷いた。
「よし、じゃあ、土曜日の午後で。迎えに行くからさ。またな!」
明は精一杯嬉しそうな素振りをみせて、雪乃と別れた。
「ほお、それで出掛ける為に、可愛いらしいお人形さんが可愛らしいおめかしをしている、と」
グノーシスは相変わらずの制服姿で雪乃の椅子に腰かけながら、白のワンピースにカーディガンを羽織り、髪を纏めている雪乃を茶化した。
「そういうこと、言わないでください……」
雪乃は照れたように頬を赤らめる。
「可愛らしいの事実ですよ。おめかしなんかしなくたって、今の貴女はいつもよりとっても、お綺麗です」
「だから……」
雪乃が照れ隠しに言おうとした言葉を、グノーシスが遮った。
「誰か、いらっしゃったみたいですよ。それにしても酷い匂いだ。偽善と放棄と暴虐で頭が割れるみたいですね。こりゃあ、天使が来たので間違いない」
グノーシスが言い終わるのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「天塚さんだ、もう行かなきゃ」
雪乃はトートバッグを肩に掛けると、グノーシスに、
「それじゃあ、いってきます」
と声を掛けて、階段を駆け降りた。
はやる鼓動を抑えながら玄関の前に立って、一度深呼吸をする。
(何を話すかも、ちゃんと考えたんだから。大丈夫、大丈夫)
そう念じて、靴を履いて、玄関のドアノブに手を掛ける。
「おまたせ……しました」
雪乃のぎこちない台詞に、ジーンズにジャケットという出で立ちの明は微笑み返した。
「そんなことないよ。さあ、行こっか」
一人だけ取り残されたグノーシスは、独占欲を酷く阻害されたことに苛立って、またそんな自分を皮肉っていた。
(なんだ、僕も大概、人間らしいところは残ってるもんだな。尚更、宇迦罪耶宿禰神なんて肩書きが馬鹿らしく思えて来る)
グノーシス、いや、本来の名前すら不明なその細目の少年は、おもむろに懐から手帳を取り出した。
そこには、ゆらゆらと陽炎のような文字が浮かび上がる。
「彼はきっと、人の真贋を見分けられる、稀有な少年だったのだろうね」
細目の少年は淡々と、それでいて朗々と、浮かび上がる文字を読み上げる。
「だからこそ、彼はほんとうは美しいその人形に惹かれた、惹かれてしまったんだ。その人形は誰からも愛されないような醜い絵の具を塗ったくられて、凡百へと紛れていた。けれど彼の慧眼はあっけなくも、その憐れな境遇の人形を見つけ出した。だけどね、めでたしめでたしとは、行かなかったのさ。
彼はその慧眼を抜きにしても魅力的な少年で、周りには彼に取り入ろうとする狐たちが大勢侍っていたんだ。そして、獣臭い狐たちは嫉妬した。彼が人波の中から救い上げ、愛でようとした、その人形に。狐たちは彼が抱きしめてしまう前に、そして彼に気付かれない場所で、ついに人形を攫うことに成功した。少年の慧眼はどうしたって? 彼はね、人が良すぎたんだよ。狐たちを疑おうともしなかった。
後はみんなの予想どおり。憎たらしい狐どものお祭りさ。あいつらはね、みんなの見ているところで、人形を傷だらけにして、塩を塗り込んで、泥まみれにしてまた凡百の中に投げ込んだ。投げ込まれたとこにいた連中は、そりゃあもう大喜び。だってその人形は、真贋の分からないそいつらの目には、醜くて傷だらけで薄汚れた、ただの人形にしか映らない。それに、狐たちはこの人形をさんざん傷つけたんだから、自分たちだって傷つけて良いじゃないか。そんなふざけた理屈で、連中は人形に八つ当たりが出来るって喜んだのさ。そりゃあもうみんながみんな、醜い顔をして人形をさらに傷つけた。
でもね、彼らがいた場所は不思議なところで、誰しもが一度行かなきゃいけない場所だけど、三年しかいられない場所だったんだ。良かった、もしかしたら直ぐにでも、人形はそこを出られるかも。だけど、ざーんねん。少年と狐たちはあと一年だったけど、人形はあと三年。まるで牢獄だね。
そして人形は、みんなが飽きるまで虐められて、だれとも話せなくなっちゃったんだってさ。はい、おしまい。
え、なに、人形の名前が知りたい? ふーん、そっかそっか。因みにキミ、お名前は? ほお、ツミヤスクネくんか、面白い名前だね。良いよ、とくべつに教えてあげる。その人形の名前はね――――」
細目の少年は今まで読んでいた手帳を、力任せに握りしめた。途端、少年の今いる部屋には到底似つかわしくない、冷やかな、それでいて穏やかな憎しみが、少年から溢れ出す。
そして、細めていた目を開いて氷のようになった表情に相応しい鋭利な声が、部屋に響いた。
「――――津宮雪乃と、言うんだってさ」
「じゃあ次は、本屋とかどう?」
駅前の喫茶店で一通りお喋りを終えた後、明はそう切り出した。
「本屋さん……ですか」
「まあ、話すには向かない場所だろうけど、でもやっぱり、津宮にとって話題に事欠かない場所といったら、そこだろ?」
雪乃は少し迷ってから、小さく頷いた。
「うん。そこならもっと、……話せると思い、ます」
「よし、じゃあ、善は急げだ」
会計を済ませて、喫茶店から出る。代金は全部、明が支払った。雪乃は自分の注文した分は自分が払うと言っていたが、明があくまでも自分が奢ると言ったところ、呆気なく折れた。
(さて、いつ尻尾を出すのやら)
駅の向こうにある書店へ向かいながら、明は考える。
(津宮を知っている人は殆どが、先輩の彼氏に手を出そうとした奴だ、とこぞって悪評を言っていたけど……)
実は明はこの週末まで、片っ端から知り合いに津宮雪乃に関することを訊いて回っていたのだ。
そして、訊いた人の殆どがこう言っていた。先輩の彼氏に手を出した挙句返り討ちに遭った愚かな子、だと。今のあまり喋らない性格は猫を被っているからで、本当はもっと狡猾で卑怯な奴だと言った人もいた。
しかし逆に、そういった噂は濡れ衣で、もっと込み入った事情があったらしいということを言った人もいた。
(いや、津宮に非があると言っていた人が殆どだ。信憑性で言えばそっちの方が高いに決まっている)
内容から、どちらが正しいか判断しようとすれば必ず私情が混ざる。それは善くない。なら、私情を交えられないような絶対的な定規で物事を測ればいい。今回の場合、それは数だった。
まるで機械のように、理屈に従って動くことを善とする。良くも悪くも、明はそういう考え方の持ち主だった。
「……さん、天塚さん」
「うん……? あ、ごめんごめん、ぼーっとしてた」
「大丈夫ですか……?」
ただ、目の前にいる津宮雪乃という人が、そんな悪逆をするようには思えなかった。何となく、だったが。
(いや、猫を被っている可能性は消えたわけじゃない。まだ、気は抜けない)
そういえば、と明はあの朝に会った後輩の顔を思い返す。
見潟半人。彼に頼まれたことが、いつの間にかこんな深みに陥っていた。頼まれた内容は『津宮雪乃と仲良くしてほしい』というだけのものだったのに、気付けば明は、雪乃の正体を見極めて、場合によってはある行動を取ろうとしていた。
(しないに越したことは無い……。当然だ。だけど、もしそうなら、俺がするべきだ)
明はそう、心に決めていた。
「わあ……!」
書店の中に入ると、雪乃はそんな声を上げた。
「本屋とか、来たことなかったの?」
明の問いに、雪乃は頷いた。
「はい……。出かけるということを、全然しなかったので」
言うなり、目の前の本棚を眺めはじめる雪乃。
「暫く、好きに見てきなよ。俺もそこら辺をぶらぶらしてるからさ」
明にそう言われて、雪乃はまるで小躍りするように訊き返す。
「良いんですか?」
明は若干の苦笑いを混ぜながらも、首肯した。
「うん。その後に、どんな本があったか話そう」
「はいっ」
元気な返事を返して、雪乃は書店の奥に向かう。
どれもこれも見たことない本ばかりで、心が躍った。
(ここは、雑誌かな……)
雪乃は雑誌の類は全く知らなかったので、素通りして更に奥へ進む。
(あれ……、どこだろ、ここ)
図書室と違ってかなり広く、どこにどんな本があるか番号が振られていなくて、かなり分かりづらい。
雪乃は、普通の小説が置いてあるコーナーを捜して、きょろきょろと辺りを見渡す、が。
(――――!)
目が合った。
雪乃がずっと、心の奥底にしまってきた事件と、その象徴が。
そこに居たのだから。
雪乃は、反射的に雑誌が陳列された棚の影に隠れた。でも確かに、彼女たちはこっちに気付いていた。もう手遅れかもしれない。
二年前のあの時、中心になって雪乃を苛めていたのは雪乃の二つ上の学年、当時の三年生の女子生徒達だったが、彼女達の腰巾着のように振る舞っていた二年生の一部もまた、それに加担していた。
雪乃が目を合わせてしまったのは、その加担していた女子生徒達だった。
彼女達はもう高校に進学していたが、まだ中学を卒業して間もない時期なのだ、たまにとはいえ、こうして集まることもあるのだろう。そして雪乃は、そこに居合わせてしまった。
ひたすらに、運が悪かった。
(大丈夫、大丈夫。おちつけ、わたし……!)
飛び出しそうな心臓を押さえつけて、必死に言葉を心の中で繰り返す。
「ねえねえ、どうしたのー? 一瞬固まっちゃってさ」
「ああ、いやさっきね――――」
すると、そんな声が聞こえて、近づいてきた。
(あ――――)
足が竦む。駄目だ、逃げられっこない。
雪乃は唇を噛み締めると、雑誌の棚に身体を向けた。
雑誌の棚を見るふりをして、彼女達が自分の背後を、何事もなく通り過ぎるの祈って待つだけ。そんな惨めな方法しか、雪乃には残っていなかったのだ。
そして何やらかしましくお喋りをしながら歩いていた彼女達は、もしかするとさも当然のように、雪乃のいる雑誌が並べられたコーナーに、入ってきた。
「………………っ」
どん。と。
雪乃の肩に、彼女達の内の一人の肩がぶつかった。
いや、ぶつけられた。
たたらを踏んだ雪乃が見上げると、そこには通り過ぎていく彼女達がいて、その内の何人かが、雪乃を見て愉しげに口許を吊り上げていたのだ。
(ひ……、あ……っ)
怖かった。
辛いことをされた記憶がどんどん蘇って来て、何も考えられなかった。目頭が熱かった。
(早く、ここを出たい……、帰ってしまいたい……)
その時、救いを求めるように雪乃が思い浮かべたのは天塚明の顔ではなく、何故か、グノーシスを名乗る少年の顔だった。
(うーん、津宮のやつ、どこいったんだろ)
雪乃と別れた後、明は本当に書店の中をうろうろと歩き回っていた。
(小説とかは、読んでもあんまり面白くないし、漫画もそれほど読まないしな……)
雪乃が好みそうな小説が一面に陳列された列にも行ってみたが、興味も無いのに立ち入るのは居心地が悪く、結局参考書なんかを見て回っていた。
そして気付くと、入り口前の新刊が並んでいる場所に戻って来ていた。
(あれ、一周しちゃったか。ま、気長に津宮を待とう)
明がそう考えた瞬間、その雪乃本人がこちらに歩いて来ていた。
しかし、どうにも様子がおかしい。俯いていて、歩き方もぎこちない。
「津宮、どうしたの。具合でもわるい?」
明が尋ねると、雪乃はほんの少しだけ頷いた。
「はい……。ごめん、なさい。今日はもう、帰って……いいですか……?」
「いいけど……」
そう答えると、雪乃は無言でさっき入ってきたばかりの自動ドアへ歩き出そうとした。
「いや、待って」
明は雪乃の手を取ると、本棚の影になっている場所へ引っ張った。
「その、鞄に入ってる本。なに?」
引き止めた理由は、それだった。
雪乃が肩に掛けているトートバック。そこから無造作に角だけを出した、薄めの文庫本。
「この本屋はね、本を買うときに必ずチラシが挟まれるんだ。でもその本は」
明はその文庫本を取り上げて、ぱらぱらとページをめくった。
何も挟まってなどいない。見事に空っぽだった。
「……なのに津宮は、レジを通らないでそのまま帰ろうとした。これって立派な万引きだよな?」
雪乃は俯いたまま、小さな声で言い返す。
「そんな本……、わたし、とってません……」
「じゃあなんで、鞄の中にはいってんの?」
明は、酷く冷たい声を出した。
「わかりません……」
(ふーん。遂に尻尾を見せたかと思ったら、こんなもんか)
追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「とにかく、お店の人に謝りに行くんだ。言い訳はそこでするんだね」
「ほんとにっ……、私じゃないんです……!」
雪乃が俯いていた顔を上げる。彼女は、泣いていた。
「信じてください……」
しかしその懇願は、明には届かない。
(嘘泣きも出来るのか……。やっぱり、噂は本当だったんだな)
明は今までずっと、津宮雪乃という人間を疑っていた。
多くの人が言うように、先輩の彼氏に手を出して酷い目に遭った愚かな人間なのか。或いは、そういう濡れ衣を着せられた、今まで自分が見てきたままの純真無垢な人間なのか。
そして雪乃が、明が考えるところの『善くない』人間だったなら、何らかの罰を与えてあわよくば更生させようと、そう考えていたのだった。
その結論はもう、明の中に存在していた。
「信じるも何もないだろ、先輩の彼氏に手を出して、その挙句に虐められたやつの言葉なんてさ」
雪乃にどんな傷を与えるかも知らずに、明はその言葉を言い放った。
「あれで懲りなかったのか? なら今度は万引き犯として、しっかり罰を――」
――受けることだね。
そう言おうとした明の声は、何処からかパチンと指の鳴る音が聞こえたのと同時に、完全に掻き消えていた。
「はーい、そこまでですよ。小汚い天使の演説は」
声の主は、本棚の影から現れた。
ラフなパーカー姿の、細い目と空っぽの笑みが特徴的な少年。
「グノーシス……?」
雪乃が何か呟くのが聞こえた。
(見潟……? なんでここに!)
しかし何故か、明の声だけが。
「――――!」
音にならなかった。
それどころか、それまで書店の中に満ちていた小さな騒めきまでもが消えていた。
「その可愛らしいお人形さんはですね、忌々しい女狐に嫉妬され、最後には女狐とそれに加担した全員から悪者に仕立て上げられた、いわば被害者なのですよ。もうちょっと頭を使ってはいかがですか。まあ、天使風情に言っても詮無いことですが」
朗々と話しながら、少年は明の方へ歩いてくる。
「ああ、それと、邪魔なので動かないで下さい。こちとら、裏切らなかった天使はお呼びじゃないんでね」
無理矢理にでも動こうとした明の躰が、まるで金縛りにでもあったかのように固まった。
そして少年は、優しく雪乃の手を取り言う。
「さあ、お人形さん。もう大丈夫ですから、帰りましょう」
雪乃は手を引かれるがまま、外へ歩いて行く。
(まて――――!)
明は喋ることも動くこともままならず、心の中で叫んだ。そして二人が店から出ると同時に、全てが元に戻っていった。
居なくなった雪乃以外は。
「大丈夫でしたか?」
優しい言葉。
雪乃は気付くと、靴を履いたまま自分の部屋に座り込んでいた。書店からここまで、歩いた記憶も走った記憶も無い。そもそも、靴を履いたままの理由が分からなかった。
「ああ、靴。脱がし忘れてました。悪魔的な力で、書店からここまでほんの数歩で着くようにしたものですから、つい」
そう言うとグノーシスは、雪乃の履いていた靴を丁寧に脱がして、部屋の隅に置いた。
「すいませんでした、お人形さん。彼をけしかけたのは間違いだったみたいです。天使というのは、往々にして神様を裏切って人間に味方してくれますから、それに……。うん? 何でしょうか」
雪乃は、グノーシスの来ていたパーカーの裾を握った。
「おねがい……、そこにすわって」
それはどんな虫の羽音よりも小さく、それでいて全て絞りつくしてやっと出せたような、そんな声だった。
しかし、グノーシスは雪乃のそんな声すら易々と聞き取ると、黙ってその通りに、雪乃前に跪いた。
「……………………っ!」
グノーシスは、本人からしてみれば大変不覚なことに、一瞬何が起きたのかまるで分からなかった。
(ああ、そうだったのか……)
そして、理解した。
(僕を抱きしめられるくらい体は大きくなったのに、雪乃の心はまだ、いつかのあの蔵にずっといるままなんだな)
雪乃は哭いていた。
グノーシスを抱きしめて、まるで幼い子供のように。
声を上げて、涙を零して。
それは今しがた天使に傷つけられたからではなく、ずっと孤独で辛かった膿を流すように、深く悲痛だった。
「じゃあ、こうしよう」
柔らかな空気。
(この声……なんだか、安心する。……グノーシス?)
雪乃は、目の前に座っている、細い目をした気長し姿の少年を見上げていた。
(あれ、なんかわたし、ちいさいな……)
雪乃とグノーシスは、座れば目線の高さは大体一緒の筈だった。それが何故、雪乃がグノーシスを見上げているのか。
グノーシスが、顔を近づけてきた。
(え……? ちょっと、ひゃっ……!)
雪乃は顔を赤くして離れようとした。だが、体が動かない。実際の雪乃はきょとんとしたまま座り込んでいるだけだ。
(これって、夢……?)
そう雪乃が勘付くと同時に、耳元でグノーシスが囁いた。
「君に友達ができるまで、僕が友達になってあげる。でも、いつか必ず、僕以外の友達をつくるんだ。僕も手伝うからさ。約束だよ?」
(あ…………!)
「うん! やくそくね!」
雪乃は全て、思い出した。
「――――!」
夢を見て飛び起きるのはこれで二度目だ。
時計の時針は七を指していて、外は暗い。そして部屋の中に少年の姿は無かった。
雪乃はベッドの上で、丁寧に毛布を掛けられて眠っていたようだった。おおかた、あの少年がしてくれたのだろう。
(ツミヤスクネ……)
グノーシスという名前も、悪魔だなんだという話も全部、嘘だったのだ。
彼の本当の名前は、ツミヤスクネ。
雪乃はまだ小さい頃、父方の祖父の家に住んでいた。いわゆる三世代家族というものだ。ただ、そこでも雪乃は独りだった。両親は仕事が忙しく、祖父母は厳しい。友達も全くいなかった。
そんなある日、祖父の湯飲みを割ってしまって叱られることを恐れた雪乃は、鍵の開けっ放しだった蔵に隠れた。
まだ幼かった雪乃にとって蔵はとても広く怖い場所で、しかし出ていけば祖父に見つかって叱られる為に出られず、いつの間にか悲しくなって雪乃は哭いてしまっていた。
そして出逢ったのだ。あの、着流し姿で細い目をした少年に。
彼は優しくて、雪乃が蔵に行くと必ず遊んでくれた。その中で雪乃は、いろんな話を聞いた。
少年の名前はツミヤスクネということ。少年は日本にたくさんいる神様の一人で、雪乃の家とこの辺りの畑を守る神様だということ。昔はとても強かったということ。
しかし、両親と今の家に引っ越してから逢う機会は全く無く、そうこうしている内に祖父母が交通事故で死んでしまい、それに伴う形であの家は取り壊されてしまったのだ。
もう彼に逢えない。それを知った雪乃は一晩中ずっと泣いていた。その時から彼に関する思い出は悲しい記憶に変わり、だんだんと薄れていったのだ。
(どうして…………)
また逢えたこと。それはとても嬉しい。
だけど、どうしてあんな嘘をたくさん吐いていたのか。雪乃はそれが、知りたかった。
でも。
(どこにいっちゃったんだろ……)
薄闇に沈む部屋のどこにも、いる筈の姿は無かった。
週末明けの、昼休みのことだ。
「なっ……、見潟!」
陽の当たる廊下で、天塚明は整った顔に似合わない、焦燥の滲んだ大声を上げた。
そして大声を上げられた方の少年は、何が面白いのかにやりと笑った。
「どうしたんですか? 津宮雪乃と仲良くしてほしいという頼みを承諾したくせに、あまつさえ彼女を傷つけようとした天塚先輩……?」
「……っ!」
明は何も言い返せずに唇を噛んだ。
「それじゃあ僕は急ぎの用事があるので。失礼しますよ」
そのまま立ち去ろうとした少年を、明は焦って引き止めた。
「ま、待ってくれ!」
少年は忌々しそうな表情で、明に向き直る。
「何ですか。急いでると言った筈ですよ」
「津宮に、謝らせてくれないか」
少年は呆れた声を出した。
「謝りたいなら勝手に謝ればいいでしょう。赦して貰えるかはともかく、それくらいなら自由ですよ」
その正論に、明は首を横に振った。
「駄目だ。そうじゃない。なんとなくだけど、それじゃ意味がないんだよ」
そこで初めて、少年は多少前向きな表情を見せた。
「なんとなく、ですか。……良いでしょう。けど、条件があります」
「条件?」
「そうですね、グノーシスとして言うなら、神様を裏切ることです」
明にとってその言葉は、意味の分からないものだった。
「どういうことだよ!」
そう訊き返すと、少年は途端に不機嫌になって、踵を返してしまった。
「あっ、……おい!」
「自分で考えることですね。後、その気があるなら、視聴覚室に来てください」
見潟半人と名乗っていた少年の姿は、掻き消えてしまった。
視聴覚室といってもスクリーンがあるだけで、他の造作は普通の教室と変わりがない。だから大して施錠もされないし、そうなると昼休みには生徒の溜まり場になることもある。
雪乃は、そんな教室に呼び出されていた。
「アンタさぁ、万引きしたってマジ? ウケるんですけど」
三人いる中の中央の女子生徒が、下品な言葉遣いで言った。それに呼応するように、両脇の二人のクスクスと笑う。
「そんなこと……、してません」
今度は右の女子生徒が口を開く。
「うそ言ったって無駄だし。土曜日にアンタを本屋で見たっていう先輩からのタレコミなんだよ」
(先輩……。あの人たちだ……)
あの時のことを思い出しただけで、雪乃は足から力が抜けてしまいそうになる。
そんな雪乃の様子をどう勘違いしたのか、女子生徒達は陰湿な笑みを浮かべた。
「それでさぁー、あたしたち今月ピンチなのよね。お小遣い。だから、あとはわかるでしょ?」
中央の女子生徒が、雪乃に歩み寄る。その後ろから、左の女子生徒が煽るように言った。
「まあ別に、断ってもいいんですけど。そしたらアンタが万引き犯ですよー、ってみんなに言いふらすだけだから」
雪乃に近づいた女子生徒は、ブレザーのポケットからおもむろにカッターナイフを取り出すと、それを雪乃の顔の前でちらつかせて見せる。
「逃げようとしても無駄だし。まあそれに、服で隠れて判らないところなら、いくら切っても……」
手が、雪乃のブラウスのボタンに伸びる。ただ、そこまでだった。
「こんにちはー、っと」
女子生徒の体が、真横に弾き飛ばされた。
いつの間にか現れた男子生徒が、腰の辺りに蹴りを入れたのだ。二年生の証である青いネクタイをしたその男子生徒は、そんなことをしたにも関わらず細い目元で笑っていた。
「そんな歳で強請に恐喝とは、先が思いやられる穢れっぷりで。悪魔としては、敬服の限りですけどね」
その姿に、雪乃は目を見開いた。
「スクネ……!」
その呼び方に、少年は苦笑を漏らす。
「やっぱりばれてたか。だったら、あんな口調を続ける必要もないかな」
グノーシスと名乗っていた少年、罪耶宿禰は頬を掻いた。
「いった……、二年のくせに、なにしてんだよっ!」
蹴られた痛みから起き上がり、罪耶に向かってカッターを振りかざす女子生徒。罪耶はその手を捻りあげていとも簡単にカッターを奪い、それを逃げようとしていた女子生徒めがけて軽く放った。
タンッ、と堅い音がしてカッターが壁に突き立つ。それは逃げようとしていた女子生徒の、眼前を掠めていた。
「君たちが仲間を見捨てて逃げるのは勝手だけどね、二つだけ確約して欲しいんだ。在りもしない話を吹聴しないこと、二度とこんな真似しないこと。簡単だろう?」
彼女らは三人全員が、硬直した顔で首を縦に振った。
「よろしい」
罪耶が捻っていた手を放すと、一瞬で視聴覚室は二人だけになった。
「スクネって、ほんとに強かったんだね……」
壁にナイフよろしく突き立ったカッターを見て、雪乃は呑気な感想を漏らす。カッターのは横から力を加えるとすぐ折れてしまうと雪乃は聞いたことがあったので、そこから出た素直な感想だった。
しかしそれを聞いた罪耶は、深々と溜息を吐く。
「こういうときは、普通僕を恐れたり、非難したりする場面だよ。あんな女子供に手を上げたんだから」
「そう……なのかな」
また、大きな溜息。
「前々から思っていたんだけど、雪乃は良くも悪くも、神様を怖がらなさすぎだ。常世側に来すぎてる。それじゃあ、そっちで友達が出来ないよ?」
壁に刺さったカッターを引き抜き、罪耶は雪乃に視線を向ける。
しかしその視線を受けてもなお、雪乃は訳が分からないといった様子で首を傾げた。
「最初に会ったとき、言っただろ? 君に友達が出来るまで、って。僕はあくまでも一時凌ぎなんだ。だから、雪乃は、こっち側で友達を作らなくちゃいけない。そう約束したじゃないか」
「うん……。した」
雪乃はまるで子供のように、むくれた顔で首肯する。
「その為に、思い出されにくいようあんなキャラ作りまでしたんだから。……おっと、早速候補のおでましかな。雪乃、自分に正直にね」
そういうと、罪耶はカッターナイフは投げて遊びながら、教室の隅に歩いて行った。
見潟に言われた条件はまるで意味が分からなかったが、自分で考えろと言われた明は必死に思案を巡らせた。
そして至った結論は、単純そのものだった。
(自分の非礼をきっちり詫びる。出来ることは、それぐらいしかない)
決意を固めた明は、来いと言われていた視聴覚室に、足を運んだのだった。
開け放たれていた入り口から中を覗く。居るのは二人だけ。見潟半人。そして、津宮雪乃。
見潟半人は隅でカッターナイフでジャグリングらしきことをしていて、明には興味が無さそうにしていたが、一瞬だけ明の方を向くとニヤリと笑いを浮かべた。
よく来た、と。そんな風なことを言っている気がした。
そして津宮雪乃は窓際の中央辺りに立って、じっと明を見つめていた。
「…………津宮」
明はカラカラに乾いた喉で、ようやく最初の言葉を絞り出す。
「ごめん。あの時俺は、津宮の事情を全く知ろうとせずに、他人から聞いた情報だけであんなことを決めつけて、どうかしてた。ほんと、ごめん」
思い切った動作で、明は頭を下げた。
「顔……、上げてください」
雪乃の声が静かに、けれども確かに教室の中に響いた。
「天塚さんのしたことは、誰しもやってしまう間違いだと思います。だから赦すべきだと思うし、わたし自身もそう思ってます。だけど……。ごめんなさい」
その謝罪は、明に向けたものだったのか、それとも、罪耶に向けたものだったのか。それは雪乃だけが知っている事だった。
「天塚さんといると、そのときのことばかり考えてしまって……。ですから、謝ってくれたのは嬉しいんですけど」
――――一緒に居たくありません。
「……天塚」
視聴覚室を力無い足取りで出ていこうとしていた明の背中に、罪耶は声を掛けた。
「今まで君がしてきたことは間違いだったかもしれない。けど、たった今成し遂げようとしたことは、絶対に間違いじゃない。結果がなくても、胸を張っていいと思う」
その言葉に明は一度立ち止まったが、結局振り返ることは無かった。
そして罪耶は、明と友達になることを拒んだ少女に視線を移す。
「良かったのかい? 彼、これから自分自身の意思で行動するようになると思うし、中々の好人物だと思うんだけど」
雪乃は頷いた。
「うん。だって、あんなことを何回も思い出すのは……ぜったい、嫌だもの」
(雪乃がそれでいいなら、良いか)
そう、罪耶は少し放任主義な考え方で自分を納得させた。
「そういえば、スクネ。なんで、わたしの家に来れたの?」
打って変わった雪乃の質問に、首を傾げる罪耶。
「わたしてっきり、お祖父ちゃんの家が蔵ごと取り壊されたって聞いた時、もうスクネに逢えないんだ……って思って、すごく泣いたの。だから、今こうやって逢えた理由を訊かないと、なんだか泣き損な気がしちゃって」
照れたように笑う雪乃。罪耶も、それに微笑み返した。
「そうだね……。あの蔵が取り壊された後、僕は暫くそこに留まっていたんだ。もしかしたら、津宮家の人が誰か来るんじゃないかってね。でも何か月か待ってみて、まるでその気配が無かったもんだから、自分から行くことにしたんだ。僕は津宮の氏神だから、津宮の血が途絶えない限り消えないんだけど、力を無くしていったら地縛霊かなんかと変わらないからね。
それで津宮の血を引いてる家にちょっとずつ居候させてもらいつつ、きちんと家督とかを継いでる家か、あの家の直系にあたる雪乃の家を捜してたんだけど、これがまた見つからなくってさ。最近になって漸く雪乃の家を見つけたんだけど、今度は雪乃がまだ友達つくれてなくて、さ」
「なんか……、ごめんね」
あはは、と罪耶は乾いた声で笑った。
「手伝うって言っておきながらこんなに時間を開けちゃった僕が悪いんだよ。気にしないで」
「……でも」
急に、雪乃が声のトーンを落とした。
「友達づくりは、しばらくいいかな……」
罪耶は怪訝そうな顔をした。
「どうしたの、寂しいって泣いてた子とは思えない発言だけど」
だって、と。悪戯な子供のように口許を綻ばせ、雪乃は言う。
「友達が出来ない間は、スクネがいてくれるでしょ?」
罪耶の、カッターを放り投げては遊んでいた手の動きが止まる。
「そんなこと、言うもんじゃないよ」
しかし、そう言った宇迦罪耶宿禰神という一人の神様の口許も、まんざらではなさそうに綻んでいた。
遠き日を留めて 雛田安胡 @asahina_an
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