税務その十一

 私は藤村蘭子。実相寺税理士事務所の「所長代理」である。


 前途多難と思われた当事務所も、何とか安定し、所長の沙織先生も「改心」してくれて、ようやく経営者らしくなって来た。私はホッとした。総務の植草薫さんも、肩の荷が下りたように喜んでいた。

 ところが……。

 私と植草さんは、沙織先生にある朝、突然驚愕の事実を告げられた。

「できたみたいなの」

「は?」

 何の事? 何ができたの? 何故か沙織先生は頬を赤らめて、

「赤ちゃん」

「え?」

 私と植草さんは仰天した。そう言えば、沙織先生、結婚していたんだっけと言うくらい、所帯じみていない。そう表現すると体裁が良いようだが、ストレートな言い方をすると「子供っぽい」のだ。

「それで、しばらく仕事をセーブしようと思って……」

「……」

 ニコッとして言われた。私と植草さんは思わず顔を見合わせてしまう。仕事をセーブするも何も、そんなに働いていましたか、貴女は? そう突っ込みたくなる気持ちを何とか抑える。

「夫が、しばらく休養しろって言ってくれて……」

 もの凄く嬉しそうなのは、赤ちゃんができたからなのか、仕事を「セーブ」できるからなのか?

「それで、二人には大変申し訳ないのだけれど、当事務所は、しばらく休業する事になりました」

「えええ!?」

 どういう展開? 何なのよ、この一年は? 植草さんと私の今までの時間を返して! そう叫びたくなった。

「いい加減にしてよ、沙織」

 植草さんの声は静かだったが、強い怒気が含まれているのがよくわかった。

「え? どうしたの、薫?」

 沙織先生は全く気づいていないのか、ニコニコしたままだ。ああ。鈍感過ぎる。

「貴女はそれでいいかも知れないけど、藤村さんや私はどうなるのよ? この一年近くの期間、私達がして来た事は何だったのよ!?」

 植草さん、そんな大きな声が出せるんだ。私まで驚いてしまった。沙織先生も、植草さんがそこまで怒るとは思わなかったらしく、

「そ、それは申し訳ないと思うけど、でも、私も……」

「貴女は周囲の人に甘え過ぎなのよ! 少しは周りの迷惑も考えたらどうなの!」

 植草さん、相当鬱憤が溜まっていたのだろう。全部吐き出そうとしている感じだ。

「薫……」

 沙織先生はすでに涙ぐんでいる。親友の思わぬ言葉に動揺が隠せない。

「信じられないわ、貴女の浅はかな考えが」

 植草さんは攻撃の手を緩めるつもりはないみたいだ。沙織先生は涙を堪えながら、

「貴女達の事を考えてない訳ではないのよ。今後は、業務を全部父の事務所に引き継いでもらって……」

 その発言には、私も開いた口が塞がらなかった。結局、「元の木阿弥」じゃないの。

「いい加減にして!」

 植草さんの声が更に大きくなった。沙織先生はビックリしたのか、黙ってしまった。

「今までだって、業務のほとんどは、藤村さんと私でこなして来ていたのに、貴女が休養するために事務所を閉めるのもどうかと思うけど、業務を近藤先生の事務所に引き継いでもらうですって? 何を考えているのよ!?」

 植草さんは泣いていた。私ももらい泣きしそうなくらい、植草さんの気持ちがわかる。

「だって、私、妊娠しているから……」

「臨月まで働いている女性はたくさんいるわ! 甘え過ぎよ!」

 植草さんはそこまで言って、突然ハッとした。何かまずい事を言ってしまったのに気づいたように、彼女の怒りが消えて行く。どうしたのだろう? 沙織先生がまた泣き出した。

「酷いわ。薫だって知ってるじゃない。私、私……」

 沙織先生はそこまで言うと、事務所を飛び出した。私は何が何だかわからず、呆然としてしまった。


 しばらく、時が止まったようになっていたが、我に返った植草さんが、

「沙織、一度流産しているんです」

「え?」

 私には想像もつかない。自分の身体の中に宿った命が消えてしまう。どんな思いがするのだろう?

「私、怒りに任せて彼女を罵ってしまって、途中で思い出したんです」

 植草さんは涙を流して、

「一番の友達とか言って、全然そうじゃないですね。沙織の事、全部知っているつもりだったのに……。もう、彼女に合わせる顔がないです……」

と言うと、ドスンと来客用のソファに倒れ込むように座ってしまった。

「植草さん……」

 私には、かけてあげる言葉がなかった。


 しばらくして、私と植草さんは近藤所長に呼ばれ、事務所に行った。

 沙織先生もいるのかと思ったが、彼女は実家に戻ったらしい。今、近藤所長の奥様と話しているそうだ。

「申し訳ありませんでした。私が至らないばかりに、実相寺先生に酷い事を言ってしまって……」

 植草さんは頭を深々と下げ、近藤所長に詫びた。

「植草さん、貴女が悪い訳ではないよ。あの子が唐突過ぎるんだよ。もう少し、順序立てて話すべきだったと私は思うよ」

 近藤所長は優しい目で植草さんを宥めた。

「ありがとうございます……」

 それでも植草さんは頭を下げたままで、震えていた。

「事務所の業務はそのまま続けて下さい。私もなるべく顔を出します。それから、こちらから応援を出してもいい。どうかな、藤村さん?」

 近藤所長は私を見た。私は微笑んで頷き、

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

「こちらこそありがとう、藤村さん、植草さん」

 近藤所長は植草さんの肩に手をかけて言った。ようやく植草さんが顔を上げた。

「沙織には、できる範囲で仕事は続けろと言った。一度悲しい思いをして、慎重になるのはわかるが、事務所を休業するのはやり過ぎだと言っておいたよ」

 近藤所長はニコッとした。私と植草さんも顔を見合わせてから、微笑み合った。


 そして、今日も通常業務に戻る。数少ない農家の顧客だ。

「今日は」

 今日はビニールハウスに出向いた。会計監査ではなく、別の相談があるとの事。

「お世話になります。ごめんなさいね、藤村さん、貴女のようなお嬢さんを汚いところにお呼びして」

 奥さんが手袋を取りながら言う。

「とんでもないです。汚いなんて、そんな事ありませんよ」

 そして私は悪戯っぽく笑い、

「それに私はお嬢さんではありませんし」

「ハハハ」

 奥さん、ちょっと受け過ぎです。そう言いたかったけど、言えない。

「おう、藤村さん、悪いね」

 ハウスの奥から、ご主人が現れる。私は奥さんに勧められ、ハウスの外にある椅子に座った。ちょっとした休憩所だ。

「実はさ、農協に勧められて、アパート造る事になったんだよ」

 ご主人は汗をタオルで拭いながら言った。

「そうなんですか」

「それで、農協の担当が言うには、アパートは会社名義にした方がいいらしんだけど。何か、うまく丸め込まれてる気がしたので、藤村さんに訊いてみようかと思って」

 農協の担当さん、信用されていないなあ。どうしてだろう? 私はニッコリして、

「その通りですよ。アパートを法人名義にすると、その土地の評価額が下がるんです」

「ああ、そうか。で、旦那が死んだ時、相続税が安くなる訳ね」

「おい」

 奥さんがアッケラカンととんでもない事を言ったので、さすがにご主人はムッとした。

「そこまではまだお考えにならなくてもいいと思いますが、もう一つ節税効果があるんです」

「何ですか?」

 お二人が「節税」と聞き、目を輝かせる。私は苦笑いをして、

「アパートを会社名義にすると、会社の財産になりますから、代替わりしても税金は発生しないんです」

「そこでも相続税が減るのね。良かったね、お父さん」

 奥さんが満面の笑みで言う。しかし、ご主人は面白くなさそうだ。

「何だよ、お前は。そんなに俺に死んで欲しいのか?」

「違うよ。何怒ってるのさ」

 奥さんはニコニコして言った。いいコンビだな、この二人。

「でもさ、会社にするにはお金がかかるんでしょ? 大丈夫かしら?」

 奥さんは、お金の心配をし始めた。

「確かに設立にはお金がかかりますが、トータルで見れば、法人にした方が得ですよ」

「藤村さん、まさか、会社の方が顧問料が高いから、勧めてるんじゃないよね?」

 ご主人の鋭い指摘を私はニコッとして誤魔化した。


 いろいろ話をして、法人化は決まった。そして詰めの話をするため、もう一度来る約束をし、私は事務所に帰った。


 そして週末。また尼寺君を誘った。すると何故か彼は、

「東山さんと錦織さんは誘わないで下さい」

と返信して来た。フーン。尼寺君、あの二人苦手なのかな? 私は深く考えずに、いつもの居酒屋に行った。今日は絶対に眠ったりしないぞ、と誓って。

「今晩は」

 いつもの座敷に彼はいた。どうしたのだろう? 妙に緊張しているように見えるのだけど?

「こ、今晩は」

「今日は絶対に眠らないから、よろしくね」

 私は精一杯の愛想笑いをして、尼寺君の向かいに座る。

「うん。今日は本当に眠らないで欲しいんだ」

「そう?」

 彼、何か気合が入ってるんですけど。何で?

 そして、いつものようにささやかな飲み会が始まる。尼寺君とこうして飲むようになって、どれくらい経つのだろう? 少し前まで、全くどうしているのか知らない仲だったのに。凄く不思議だ。

「あれ?」

 普段は乾杯のビールを一口くらいしか飲まない尼寺君が、今日はジョッキを空けた。

「大丈夫、尼寺君?」

 私は心配になって訊いた。

「だ、大丈夫。平気だから」

 そう言いながらも、すでに顔は真っ赤だ。今日は彼が潰れる番かしら? でも私は彼を送り届けられないぞ。どうしよう?

 そして時間は過ぎ、気づいてみると、尼寺君はジョッキを三杯空けていた。新記録だ。それに気圧される形で、私はまだ一杯しか飲んでいない。おかげで眠らなくてすみそうだけど、ちょっとつまらないかな。飲み足りないし。

「尼寺君、どうしたのよ。飲み過ぎじゃない?」

「ら、らいじょうぶらから……」

 すでに呂律が回らなくなっていて、全然大丈夫じゃない。

「もうお開きよ、尼寺君。帰りましょ?」

 私は堪りかねて言った。すると尼寺君は急に正座して、私を見た。

「藤村さん」

「はい?」

 何、この雰囲気? 尼寺君が私をジッと見つめる。恥ずかしくなって来た。

「貴女の事が、大好きれす。付き合ってくらさい」

「え?」

 衝撃の告白? でも、呂律が回っていないから、ふざけているようにも見える。真に受けないほうがいいかも。

「……」

 そうは思いながらも、私の心臓は速くなっていた。何、このドキドキ?

「よろしくお願いします……」

 頭を下げたまま、尼寺君はイビキを掻き始めた。興ざめだ。何よ、もう!

「こちらこそ、よろしくね、尼寺君」

 聞こえていないのをいい事に、私は返事をした。

 ずっと待ってたんだ。今わかった。私は尼寺君の事が好き。酔っ払って告白されたのはちょっとムカつくけど、それでも彼の事が好き。

「今度は、お酒の力を借りないで告白してよね」

 彼の耳元に囁いた。それでも彼は起きなかった。


 それにしても……。この酔っ払い、どうしよう? って、私には言われたくないよね、尼寺君。

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