税務その十

 私は藤村蘭子。実相寺税理士事務所の「所長代理」を仰せつかっている。

 とは言え、職員は総務全般を担当する植草薫さんと私だけだから、名ばかりの肩書きだ。しかも、所長である沙織先生は、気が弱くていい加減なので、下手をすると何かあった時、全部私が責任を負うかも知れないのだ。

 そんな事はないと信じたいけど。


「おはようございます」

 事務所に入って行くと、例によってまだ沙織先生は来ていない。あの人に朝顔を合わせたのは、移動したての頃だけで、最近はすっかり「重役出勤」だ。内勤の植草さんでさえ、顔を合わせない日もあると言う。

 お香と、淹れ立てのコーヒーの香りのマッチングが絶妙だ。お香は元々は沙織先生の趣味だけど、すでにその選考基準は植草さんが握っている。

「おはようございます」

 植草さんはそう言いながら、素早くコーヒーを出してくれる。

「ありがとうございます」

 私は頬微笑んでお礼を言った。植草さんはニコッとしてから、

「藤村さんは、税理士試験を受けないんですか?」

と声を落として尋ねて来た。

「え?」

 私は思ってもみない質問に一瞬硬直した。

「な、何ですか、いきなり?」

 私は苦笑いをして植草さんを見る。植草さんは、

「沙織、心配で。そのうち、『事務所閉める』とか言い出しそうな気がするんです」

「え?」

 仕事にかまけていて、沙織先生の変化に気づいていなかった。ドキッとした。

「あの子、元々気が弱いから、自分で事務所を開くなんて無理だったんですよ。でも、ご両親の期待と勧めに逆らえないから、ここまで来てしまいましたけど」

「はあ」

 何となくわかる気がする。沙織先生と実務で一緒に動いたのはほんの少しだけだったけど、関与先企業に行っても、沙織先生はいつも後ろにいた。だから、

「新人さん?」

と訊かれてしまう事が多かった。

「申し訳ありません、植草さん。私がもっと先生の力になれればいいのですが……」

 私は自分の至らなさに愕然とし、植草さんの優しさに感動した。

「いえ、そんなつもりでお話した訳ではありませんので。こちらこそ、申し訳ありません」

 植草さんは顔を赤らめて言った。その奥ゆかしさ、私も分けて欲しい。

「私が厳しく言い過ぎたんです。あの子は、あれで精一杯だったのでしょう。それに気がつかないなんて、友達失格です」

 植草さんの言葉が、沙織先生に届いていなかったとは思わない。要するに、沙織先生はずっと甘えていたのだ。植草さんのせいではない。

「それは違うと思います。植草さんは、親友だからこそ、本当に親身になって沙織先生にご助言されていたのだと思います。だから、植草さん、そんな風にご自分を責めないで下さい」

「ありがとうございます、藤村さん」

 わわ、植草さんが泣いちゃった。私はドキドキしてしまい、

「泣かないで下さい。何も気づかなかった私が悪いんです。今日は仕事を早く切り上げて、先生とお話してみますから」

「はい。よろしくお願いします」

 植草さん、本当に沙織先生の事が心配なんだな。いいな、こういう関係って。私にはいるだろうか、ここまでの親友は? ふとそんな事を思う。そして、何故か尼寺君の事を思い出し、赤面した。

(何で尼寺君?)

 自分でもわからない。確かに、最近、愚痴を聞いてもらっている。そういう面では、尼寺君はいいお友達だ。じゃあ、何故赤くなる、蘭子? もう一人の私が鋭い突っ込みを入れる。

(それはわからないよ)

 言い訳する私。溜息が出そうだ。


 今日の会計監査先は、高校生と中学生のお子さんがいる八百屋さん。会社にするほどの規模ではないので、個人事業で確定申告をしている。

「藤村さん」

 帰りがけに奥さんに声をかけられた。

「はい、何でしょう?」

 私は笑顔で振り返る。奥さんは小声で、

「子供達をアルバイト扱いって、ダメなのよね?」

「ええ。青色申告では、家族への給与は専従者給与以外経費になりません。専従者は、その名の通り専従している者ですから、学生さんは専従者にはなれないのです」

 専従者は年間六ヶ月以上事業に従事していないといけないから、中学生はもちろんの事、高校生も無理だ。

「経費の方は別にいいんだけど、旦那の貯金とかがね」

「相続の方ですか?」

 私は、気が早い奥さんだなと思いながら、鞄を床に置いた。話が長くなりそうだ。

「ええ。少しずつでも、子供達に財産を分けてあげたいんだけど。今は年間百十万円までなら贈与税がかからないのよね?」

 奥さんはいろいろ調べているようだ。

「でも、毎年百十万円ずつ贈与すると、それをトータルで計算されて、もの凄い税金を取られるって聞いたんだけど」

 その情報は少しデータが古いけど、まあいいか。私はニコッとして、

「それなら、毎年百十万一千円贈与して、百円だけ贈与税を支払えば大丈夫ですよ」

「え?」

 奥さんはキョトンとした。奥さんの言っているのは、「定期贈与」の事だ。「一千万円を十年で贈与します」と契約し、毎年百万円ずつ贈与した場合、一見課税されないように見えるが、「それは一千万円贈与したと看做す」という事にされてしまうのだ。

 ならば、その裏をかいて、毎年百十万一千円を贈与したと申告し、課税分の千円に対する贈与税百円を納めれば、定期贈与ではなくなる。

「なるほど。凄い裏技ね」

 奥さんは大喜びしていた。


 私は八百屋さんを出て、事務所に向かう。

「はあ」

 何か気が重い。沙織先生には、話がある事を告げてあるので、逃げられるとは思っていないが。


「只今戻りました」

「お帰りなさい」

 事務所には、何故か植草さんしかいなかった。

「沙織先生はお出かけですか?」

「はい、近藤先生のところです」

 何故か嬉しそうな植草さん。なるほど、とうとう近藤先生が動いて下さったのか。

「藤村さんが話があると電話で言った時、沙織は随分驚いてました。藤村さんが辞めてしまうのではないかと思ったみたいです」

「そうなんですか」

 私はクスッと笑ってしまった。何か可愛いな、沙織先生って。それじゃダメなんだけど。

「それで、慌てて近藤先生のところに助けを求めたんです。近藤先生は、沙織の弱さを知っているから、きつい事を言わないで、来なさいとだけ告げたようです。でも、沙織は死刑宣告された囚人のような顔で出かけましたよ」

 植草さんは愉快そうだ。朝は泣いてたのに、今は笑ってる。二人の関係は本当にわからない。

「本当にありがとうございました、藤村さん。やっぱり貴女はこの事務所の大黒柱です」

 植草さんは真面目な顔でそう言った。私は恥ずかしくなり、

「やめて下さいよ、大黒柱だなんて。私、そんなに年取ってませんから」

と言った。植草さんはそれがツボだったのか、お腹を抱えて大笑いした。彼女がこんなに笑ったのを見るのは、多分初めてだ。とにかく、丸く収まりそうで良かった。


 そして、ふと目を覚ますと、いつもの居酒屋。いつもの尼寺君。

「今度はカラオケ行かないからね、藤村さん」

 尼寺君にそう宣言され、私は返す言葉もなく、苦笑いした。

「今日はお開きにしよう」

 尼寺君は前回相当懲りたようだ。私は決まりが悪くなり、

「はい」

と素直に返事した。

 優しい尼寺君はタクシーを呼んでくれて、私が寝てしまわないようにずっと一緒にいてくれた。

「タクシー、来たよ、藤村さん」

「え、うん……」

 フラフラしながら、外へ出る。

「危なっかしいなあ」

 尼寺君は私を心配して、一緒にタクシーに乗ってくれた。行く先は何とか告げられたが、とうとう私は寝入ってしまった。


「ふん?」

 目を覚ます。自分の部屋だ。あれ、パジャマに着替えてる。でも、真っ暗な部屋には私一人。

 尼寺君は、私をどこまで運んでくれたのだろう? まさか、着替えまで?

 クローゼットを見ると、服がキチンと掛けられている。ドキドキして来た。

 もしかして……。でも、まさかね。


 どちらにしても、毎度毎度、申し訳ありません、尼寺君。

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