税務その九

 私は藤村蘭子。近藤税理士事務所から出向して、近藤先生のお嬢さんである実相寺沙織先生の事務所で所長代理を仰せつかって数ヶ月が過ぎた。


 沙織先生の使途不明金事件は、総務の植草薫さんの捨て身の作戦で何とか解決した。

 沙織先生、フィギュアに嵌ってしまい、自分の給料では賄い切れなくなってしまったらしい。税理士としてあるまじき行為だと、父親である近藤先生にこってり説教をされ、ご主人である実相寺誠弁護士にも叱られたようだ。呑気な性格の沙織先生も、

「どうしよう?」

とか言っていられなくなり、反省している。それにしても、三十代の女性が嵌るフィギュアって、どんなものなのだろう?

「ああ、外国のドラマの主人公のフィギュアですよ」

 植草さんに試しに訊いてみたら、あっさり判明した。私には理解不能だ。幼い頃でさえ、全くお人形遊びすらしなかったのだから。

「私にはわかりますねえ」

 ちょうどその場に居合わせた私の後輩である錦織つばささんが口を挟む。彼女は近藤所長の言いつけで、私のところに書類を届けに来たのだ。顔も声も可愛いが、ちょっとお調子者なのがいただけない。

「へえ、錦織さんも、フィギュアとか集めているの?」

 意外そうな顔で、植草さんが尋ねる。私もそう思った。

「いえいえ、私はフィギュアは集めてませんけど、カードを集めているので」

「カード?」

 ますますわからない世界に突入しそうなので、私はその場を離脱した。

「行って来まーす」

「ああ、待って下さいよお、藤村先輩」

 錦織さんが追いかけて来る。私は自分の机から鞄を取ると、玄関へと歩く。

「今日は、もう一度藤村先輩について行って、しっかり学ぶようにって、所長に言われたんですから」

「ふーん」 

 近藤所長は、私をあの監督と勘違いしているのだろうか? 私は再生工場ではないのだ。錦織さんは、先日H税務署の調査官である尼寺務君に関与先企業の不備を指摘され、落ち込んでいるのだ。それを何とか立ち直らせて欲しいのか、近藤所長は私に錦織さんを鍛え直して欲しいと言って来た。

 今更何か教えられる事もないと思うのだが。

「ですから、宜しくお願いします」

 妙に殊勝な態度なので、私は面食らう。錦織さんて、こんな性格だったっけ?

「藤村さんの彼って、結構鋭い人なんですね」

「だから、尼寺君は私の彼じゃないってば!」

 私と尼寺君が、調査の時一緒に食事をした事を知り、ずっと誤解している。何故食事をしただけで付き合っている事になるのか、錦織さんの発想が理解不能だ。

「隠さなくたっていいじゃないですかあ。高校の同級生と交際中なんて、私、憧れちゃいますよお」

「隠してなんかいないわよ。尼寺君は彼じゃありません」

 私はムッとして言い返す。そして、錦織さんを無視して歩調を早める。

「えーっ、じゃあ、神村塗装の奥さんは、私を騙したんですか?」

「!」

 ギクッとする。神村塗装と言えば、私が初めて一人で関与した会社だ。確かあの奥さんには、息子さんとの付き合いを勧められて、思わず尼寺君の名前を出して逃げた気がする。

「な、何の事?」

 私はそれでも恍けた。錦織さんは首を傾げて、

「確か、あの奥さんが藤村先輩の彼だって言っていたの、尼寺さんだったと思うんだけど」

「何かの勘違いでしょ。私が神村塗装さんに行っていた頃は、まだ尼寺君とは再会していないし」

「そうなんですよねえ」

 錦織さんは、ようやくその話題から離れてくれた。


 今日行く関与先は、新規だ。沙織先生の事務所に出向してから初めての新しい顧客。何でも、前の税理士が調査の時に全然役に立たなかったので、契約を解除したのだとか。そういう会社が一番難敵である。頭痛がしそうだ。

 その会社は有限会社早乙女左官工業。社長は大企業の営業だったが、実家の左官屋を経営していた父親が亡くなり、跡を継いだ。左官の実務経験は皆無だが、営業の経験を生かし、仕事を取って来るのは天才的らしい。そして、その奥さんは、社長の母親と毎日経営の事でぶつかり合うという、相当気の強い女性だ。もうそれだけで尻込みしそう。

「夫は、乞われて事業を継承したんです。それなのに何故、お母さんがいちいち口を出すんですか?」

 奥さんの言い分。

「私は、先代が築いて来たものを守りたいだけ。儲け主義は先代の考えに反する。そんな事は絶対に許しません」

 大奥さんの言い分。どちらもそれなりに理に適っている。だから余計難しい。

「毎日こんな具合だから、藤村さん、よろしくお願いしますね」

 社長は営業の時はかなり攻撃的らしいが、普段は至って温厚なので、少し安心した。登記内容を確認すると、社長の早乙女晋太郎さんが代表取締役、奥さんの瑞季みずきさんが取締役、大奥さんの和子さんが監査役。対立の火種はそこにもあった。

「有限会社には、監査役は必要ないはずなのに、どうしてわざわざそんな役職を継続するのよ」

 奥さんの瑞季さんは夫の晋太郎さんに詰め寄った。

「仕方ないだろう? 母さんを無役にする訳にはいかなかったんだから」

 晋太郎さんは、小さい頃から母親ベッタリの所謂「マザコン」だった。あまり度が過ぎてはいないらしいが、女の私にすると、ちょっと気持ち悪い。面倒臭そうだし。

「どう思います、藤村さん?」

 瑞季さんが私に尋ねて来た。私は苦笑いをして、

「先代の社長の奥さんを経営に参画させないのは、性急過ぎると思います」

 私が味方ではないと判断したのか、瑞季さんはプイッと顔を背けた。子供みたいだ。

「当たり前です。恥知らずな」

 大奥さんの和子さんは、睨みつけるように瑞季さんを見ている。先代の社長の時に監査役だった和子さんを追い出すように役から解くのは、あまりにやり過ぎだ。むしろ、瑞季さんは取締役になれたのだから、それに感謝すべきである。はあ。税理士はそもそもそこまで関わる必要はないはずなのに。疲れる。

「取り敢えず、今までの申告書と元帳を拝見できますか?」

「はい」

 同時に立ち上がる瑞季さんと和子さん。困った顔の晋太郎さん。社長、しっかりして下さい。二人は互いを威嚇するように睨み合う。

「母さん、頼むよ」

「はい」

 晋太郎さんの言葉に、勝ち誇ったように和子さんが動く。キッと不甲斐ない夫を睨みつけ、瑞季さんは座った。

「……」

 その間、私と錦織さんは何も言えずに唖然としたままだった。


 申告書を見る限りでは、業績はいい。売上げも事業規模から判断して、上位クラスだろう。粗利も悪くないし、人件費の割合も大きくない。外注費が多いのは、仕事の性質上仕方がないかも知れない。ここまで仕事が切れ間なくあるのは、間違いなく社長である晋太郎さんの営業手腕のおかげだろう。マザコンだけど、仕事はできるようだ。

「……」

 元帳を見て驚いた。今時珍しい手書きだ。それなのに完璧。凄い。和子さんは、簿記一級を持っているらしく、未だに帳簿関係は全て和子さんが取り仕切っている。瑞季さんは、それをパソコンに入力し直し、試算表を打ち出しているが、手計算の見事な元帳があるため、晋太郎さんはほとんど瑞季さんの打ち出す試算表を見てくれない。こんなところにも火種があった。

(一番悪い夫のパターンだな……)

 妻は元は他人なのだから母親より大事にしなければならないのだ、というのが近藤所長の信条。だから所長はそれを身をもって実践している。但し、所長の場合は、奥様の采配の方が大きいが。

 結局私達は、嫁と姑の争いに時間を取られ、大した話もできずに退散した。こんな事は初めてだ。

「疲れましたね、先輩」

 元気いっぱいだった錦織さんがグッタリしている。

「ホントね」

 私もその意見には同意した。

「これからあそこが関与先になるなんて、地獄ですね。御愁傷様です」

「言わないでよ、錦織さん」

 私はギョッとした。

 確かに気が重いが、裏を返せばやり甲斐があるという事だ。そう思う事にした。


 そしてそんな事があってから一週間ほど経った。

「藤村さん、早乙女左官様からお電話です」

 植草さんが言った。

「はい」

 私はすぐに電話に出る。

「お電話代わりました、藤村です」

 電話の相手は瑞季さんだった。一体何だろうと思っていると、

「大変申し訳ないのですが、今回の顧問契約、なかった事にしていただけませんか?」

「え?」

 何か文句を言われるのかと思っていたが、まさかそんな唐突に「契約解除」を言われるとは夢にも思わなかった。

「本当は解除するのは心苦しいのですが、母がどうしても、という事で」

「大奥様が、ですか?」

 私はその言葉に不信感を抱いた。そもそもこの顧問契約は、瑞季さん主導で社長が依頼して来たものだ。大奥さんの和子さんは、全く関与していないはず。それにどう考えても、和子さんが異を唱えるのは納得がいかない。

「母は以前の税理士の先生に申し訳ないと言うのです。ですから、何ヶ月か冷却期間を置いていただいて、それから再契約という事でお願いできないでしょうか?」

 瑞季さんの言葉は嘘臭かった。もう二度と契約するつもりなどない事は見え見えだ。

「わかりました。契約解除はお受け致します。但し、一度大奥様とお話させていただけませんか? 私共に落ち度があったのであれば、それをお伺いしたいので」

「それには及びません。あなた方に落ち度があった訳ではありませんから」

 瑞季さんは私の言葉を遮るように言った。口調が強くなっている。私が和子さんと話をすると困るのだろう。

「それでは失礼致します」

 瑞季さんはサッサと電話を切ってしまった。

 恐らく、自分の思い通りにならない瑞季さんが、独断、あるいは晋太郎さんを無理矢理説得して断わって来たのだろう。そんな事をして、会社にメリットなどないのに。何て短絡的な人なのだろう。

「どうしたんですか?」

 植草さんが心配そうに尋ねて来た。私は作り笑いをして、

「関与を断わられてしまいました」

「まあ」

 しばらく植草さんは何か言いたそうな顔で私を見ていたが、

「コーヒー飲みます?」

「あ、ありがとうございます」

 流石植草さん、私が話し辛そうなのを感知してくれたようだ。

 しばらくして出勤した沙織先生に、早乙女左官の件を報告した。

「そう。でも良かったわね」

 また呑気なモードの沙織先生は嬉しそうに言った。

「どうしてですか?」

 私はついムッとして尋ねる。沙織先生はそんな私の感情の変化などまるで気づいていないようで、

「だって、面倒臭そうなところだったから。あちらから断わってくれるのなら、何も問題ないし」

「……」

 私は呆れてしまい、思わず植草さんと顔を見合わせた。


 そしてその日の帰宅時。植草さんと戸締まりを確認し、事務所を出ようとした時だった。電話が鳴り出す。

「お電話ありがとうございます、実相寺税理士事務所でございます」

 私は素早く受話器を取った。

「遅い時間に申し訳ありません。もうお帰りの時間なんでしょ?」

 相手は早乙女左官の和子さんだった。

「いえ、大丈夫です。あの、朝のお話でしょうか?」

 私は和子さんが電話して来たのは、多分瑞季さんと正反対の事を言うためだろうと思った。

「ええ。ウチの顧問をお断わりになったと聞きまして、驚いて電話したんです」

 うわあ。そんな嘘吐いたんだ、瑞季さんは。酷いな。

「理由をお聞かせ下さい。ウチのどこがお気に召さなかったのでしょうか?」

 和子さんはすっかりその嘘に騙されているようだ。それはそうだ。いくら仲が悪い嫁でも、そこまで嘘を吐くとは思わないだろう。

「私共がお断わりしたのではありません。瑞季さんからお断りのお電話を頂いたのです」

 私の言葉に、和子さんは瞬時にして全てを悟ったようだ。

「そういう事でしたか。やっと合点がいきました。あの嫁でも、そこまでするとは思いませんでした」

 ショックを受けているらしく、声が震えているのがわかる。私も心苦しい。

「これでようやく決心がつきました。会社にはもう一切口出し致しません。そうしないと、あのバカ嫁に会社を潰されてしまうでしょうから」

 和子さんの言葉は穏やかだったが、厳しいものだった。


 そして翌日、今度は社長の晋太郎さんから電話があった。

「本当に申し訳ありません」

 電話の向こうで深々と頭を下げる晋太郎さんが目に浮かぶ。

「いえ、お気になさらずに」

 私は社交辞令としてでなく、心の底からそう思って言った。

「図々しいお願いなのですが、改めて顧問契約をお願いできないでしょうか? 母も妻も、それを望んでおりますので」

 ここで断わったら、今度こそ私達は悪役だ。

「わかりました。日を改めて、お伺いさせていただきます」

「ありがとうございます」

 晋太郎さんは本当に嬉しそうだった。


 フッと気づくと、私は居酒屋にいる。目の前には尼寺君。いけない、また酔い潰れていた。最近、知らないうちにアパートに帰っていて、ドキッとする事が多い。まだ二十代なのに、こんな飲み方をしていたら、身体を壊してしまうし、錦織さんにまた妙な事を言われてしまう。

「良かった、今日は自分で帰れそうだね」

 ホッとした顔の尼寺君。

「ごめん、尼寺君。いつもタクシー呼んでもらって。それも、お金まで……」

 穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。

「仕方ないよ。藤村さん、寝たら起きないんだもん」

 ニコニコしている尼寺君を見ていて、ふと良からぬ事を思ってしまう。

「私が寝ている間に変な事してないわよね?」

「えっ!?」

 尼寺君があまり驚くので、本当に何かされたのかと誤解しそうになった。

「そ、そんな事する度胸、僕にある訳ないじゃないか……」

 その後もゴニョゴニョ呟いていたが、何を言っているのかわからなかった。

「私ってさ、何もする気が起きないような、魅力のない女なのかな?」

 独り言か質問か、わからないような声で言う。

「えっ? 今何か言った?」

 店員と話していた尼寺君には聞こえていなかった。

「ううん、何でもない」

 気分が乗って来た私は、

「カラオケでも行こうか、尼寺君」

「えっ? 僕、もうお金あまり持っていないよ」

 ビクッとして身を退く尼寺君。私はニッとして、

「大丈夫。お姉さんに任せなさい」

と胸を張った。確かに生まれ月では私の方がお姉さんかも知れないけど。酔いとは怖いものだ。


 そして私は、また知らないうちにアパートで寝ていた。

 またやってしまった。

 取り敢えず、ごめん、尼寺君。

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