税務その八

 私は藤村蘭子。近藤税理士事務所から、実相寺沙織税理士事務所に移動になってもうすぐ一年。

 高校の同級生で、運命の巡り合わせなのか、時々関与先企業の調査で顔を合わせる尼寺務君に泣かされて数週間。

 元はと言えば、私が「意地悪」をしたのだから、彼に嫌味を言われても仕方がない。でも、辛かった。

「もしかして、藤村先輩って、その調査官さんが好きなんですか?」

 後輩の錦織つばささんがとんでもない事を言い出す。

「何言ってるのよ、錦織さん。そんな訳ないでしょう?」

 今は近藤税理士事務所と実相寺税理士事務所の合同勉強会の休憩時間。他所の税理士の先生をお呼びして、講演をしていただいたところだ。広い会議室が狭く感じるのは、近藤税理士事務所に更に新規の事務員が入所したからだけではない。只今事務所を改装中で、いろいろなものが会議室に納められているのだ。どうしてそんな日に講演をお願いしたのかというと、スケジュールの都合。もう今日以外は抑えられる日がなかったのだ。

「でも、そんなに気になるって事は、そうとしか思えないですよお」

 錦織さんは嬉しそうに言う。私はもうそれ以上その話をふくらますつもりはなかったので、

「ほら、第二部が始まるわよ」

と話を逸らせた。錦織さんは残念そうに口を尖らせ、正面を向く。

(何言い出すのよ、錦織さん)

 そんな風に思いながらも、完全否定できない私がいた。尼寺君を好き? でも、そんな事は絶対ない。


 私はしばらくぶりに受付事務の宮野さん(今は斉藤さんなのだけど、仕事の時は宮野姓で通すらしい)と話した。

「藤村さんて、彼氏いないんでしたっけ?」

 宮野さんにまで言われてしまった。

「藤村さんのような美人があぶれてるなんて、世の男性達はどこを見てるんでしょうね?」

 宮野さんなりのフォローなのだろうが、私には悲しいだけだった。

 それはね、裏を返すと「性格が悪い」と言われている気がしてしまうものよ、宮野さん。

 でも心優しい宮野さんにそんな事は決して言えない。

「ホントですよね」

 宮野さんの後輩である須藤さんが話に入って来た。もうこれ以上、「彼氏がいない」類いの話は打ち止めにしたい。

「ああ、そろそろ行かないと。明日調査があるのよ」

 急ぐ必要もないのに、私は慌しく鞄に書類を詰め込むと、

「じゃあまたね」

と挨拶もそこそこに事務所を出た。二人が呆気に取られているのは、振り返らなくてもわかる。


 調査があるというのは嘘。完全に逃亡のための口実だ。しかし、調査以上に頭が痛い懸案がある。

 有限会社後藤田設計事務所。主にビル建設の設計に携わっている会社だ。社長は仕事一筋、奥さんは生真面目。経営陣にはまるで問題がない。経理も奥さんが担当していて、時々凡ミスがあるけど、大問題には発展しない。

 懸案というのは、営業の真田さんの事だ。真田さんは、後藤田設計に勤務して十年以上のベテラン営業。但し、酒と女の二つの癖が悪く、どうやら会社のお金を使い込んでいるらしいのだ。以前会計監査に訪れた時、奥さんに相談された。そして先日は、社長と奥さんの二人が沙織先生に相談に来たのだ。

「どうしよう?」

 沙織先生の十八番おはこのセリフが飛び出す。沙織先生は父親である近藤所長に泣きついた。

「それくらい、自分で何とかしなさい」

 いつもなら娘に甘い近藤所長も、今回ばかりは厳しかった。

「真田さんの罪を裁くのは我々の仕事ではない。我々がするべき事は、どうしたら真田さんが使い込みをできなくなるかという事だ。その一点に絞って、藤村さんと策を検討しなさい」

 近藤所長、結局私に丸投げですか? 怨みますよ、本当に。

 私は事務所に戻った。

「お帰りなさい、藤村さん」

 総務の植草薫さんが微笑んで言った。

「只今帰りました」

 私は微笑み返して答える。そして鞄を自分の机に置き、

「その後、後藤田さんから連絡ありましたか?」

「いえ、あの後はありません。それより、所長はどうされたんですか?」

 植草さんは少し憤然としている。私はバツが悪かったが、

「多分、家族団らん……」

 全部聞き終わらないうちに、植草さんは自分の電話の短縮ボタンを押していた。多分、沙織先生のだ。

「出ないわ」

 植草さんのイライラが怖い。沙織先生は都合が悪くなると、事務所に戻らない「特性」があるのだ。子供みたいだ。

「全く……」

 植草さんは呆れ気味に受話器を戻した。

「自分は逃げ回っていればそれですむのでしょうけど、こちらはそうはいきませんから」

 植草さんは、独り言とも何ともわからない言葉を発し、

「コーヒー飲みます?」

と立ち上がる。

「ああ、たまには私が淹れますよ、植草さん」

 こんな機会は滅多にない。私はすぐさま給湯室に走った。

「申し訳ありません、藤村さん」

 植草さんが給湯室を覗き込んで言う。私は彼女にニコッとして、

「いつも淹れてもらってますから、気にしないで下さい」

と応じた。


 コーヒータイムの間、私は植草さんの愚痴を聞いていた。沙織先生の「逃亡」は、学生時代からだったそうだ。今更改善しようにも、無理なのだろう。

「私もつくづくお人好しだと思いますよ」

 植草さんは、そう言いながらも嬉しそうなのだから、沙織先生と彼女の関係は不可解だ。

「お先に失礼します」

 植草さんは、本当は沙織先生が戻るのを待つつもりだったが、帰ることにしたようだった。

 そして、植草さんが帰るのをどこかで待っていたのかというタイミングで、沙織先生がご帰還。

「お疲れ様です」

 私は半ば呆れ顔で言った。沙織先生はそれがわかっているらしく、

「植草さん、何か言ってた?」

「はい。もう絶交するって言ってました」

「ええええ!?」

 沙織先生をビックリさせるために、植草さんから頼まれた「爆弾」を私は躊躇せずに投下した。

「あわわわ……」

 沙織先生はあまりにも焦っているため、携帯のボタンを押す手が震えてしまい、間違い電話を連発している。

「ああああ」

 ようやく植草さんに繋がったようだ。しかし、植草さんは電話に出ない。

「酷いわ、薫。そこまで怒らなくても……」

 処置なしだ。酷いのは貴女ですよ、先生。

「どうしよう、藤村さん?」

 沙織先生は涙声で私にすがって来た。

「私にはどうする事もできないですよ、先生」

 私はさもやるせないようなフリをして答えた。

「酷いわ、藤村さんまで」

 とうとう沙織先生は泣き出してしまった。もう、こっちこそ「どうしよう」だわ。

「あ!」

 その時、沙織先生の携帯が鳴った。どうやら植草さんからのようだ。

「ねえ、薫、今どこ?」

 沙織先生は、そう言いながら事務所を出て行ってしまった。

「あーあ」

 私はもううんざりして、立ち上がった。

「帰ろう」

 もうこれ以上「実相寺劇場」に付き合う必要もない。鞄を持つと、事務所を出て、玄関の鍵を閉めた。


 植草さんが沙織先生を待っていたのは、事務所の経費の内容を訊きたかったからだ。詳しい事はわからないが、沙織先生は「使途不明金」をたくさん使っている。このままでは当事務所の決算にも差し支えるので、植草さんがとうとう怒り出した、という事らしい。

 後藤田設計事務所の相談に乗っている場合ではないかも知れない。


 翌日、私は一人で後藤田設計に出向いた。

「どうすればいいですかね、藤村さん」

 社長は不在。奥さんだけが待っていた。

「真田さんを解雇するという選択肢はないのですか?」

「ウチみたいな小さい会社には、早々営業は来てくれませんよ」

 奥さんは暗い顔で答える。私はそれに頷き、

「では、真田さんに現金を触らせない方法はとれませんか?」

「それも無理です。できるだけ小切手か振込みでお願いしているのですが、先方さんが現金を希望されるのまで変更するのは難しいです」

 奥さんはますます暗い顔になる。

「それ、取引先さんが言ったのですか?」

「いえ、真田さんがそう言われたって……」

 そういう事か。社長も奥さんも人が好過ぎる。

「それ、取引先さんに確かめる必要がありますね」

「え?」

 奥さんはキョトンとした。

「真田さんが誤魔化しているのは、そういうところじゃないですか?」

「あ!」

 奥さんも何かに思い当たったようだ。

「そう言えば、以前、『後藤田さんとこも資金繰りが大変なのねえ』って、変な事を言われました」

 後藤田設計は資金繰りには困っていない。真田さんが何かおかしな事を吹き込んでいるのかも知れない。

「これは私の推測ですが、真田さんは取引先さんに約束より早めに集金に行っているのだと思います。それで、『会社が大変なんだ』とか嘘を吐いたのではないでしょうか?」

 私は真田さんに考えを改めてもらうためにも、この辺で社長に話をしてもらう必要がある事を強調した。

「わかりました。社長と相談してみます」

 取り敢えずは、ここから先は相手の出方を見るしかない。私は奥さんを元気づけて、後藤田設計を出た。


「あら?」

 珍しい人から電話だ。従弟いとこの夏彦君。私と同じく、税理士事務所に勤務している。だから時々私に相談して来たり、愚痴を言ったりしている。

(また何かあったのかな?)

 私は不安に思いながら、携帯に出た。

「どうしたの、ここのところ、順調だったみたいなのに」

 すると夏彦君は、本日初めての「一人で調査立会い」だったらしい。私も緊張した記憶がある。

「で、うまくいった?」

 どうやら、社長の奥さんが領収証を破っていたのを調査官に気づかれ、修正申告になってしまったようだ。

「それは仕方ないわね。関与先が誤魔化そうとしているのを見つけるのは、至難の技よ」

 私は夏彦君を励ました。

「で、その調査官さんは、何て名前の人?」

 鋭そうな人だから、参考までに訊いてみる。すると、意外な名前を聞かされた。

 尼寺。ウソ、尼寺君? H税務署だから、まず間違いない。ああ、何て事。従弟が尼寺君に……。

 それはどうでもいい。夏彦君も、勉強になったと言っていたのだから、私が何か口を挟むことではないのだ。

 私は、知らないうちに尼寺君の携帯にかけていた。どうするつもりよ、蘭子?

 出ない。私の番号は知っているはず。だから出ないのかな? また悲しくなって来る。

「もしもし」

 良かった、出てくれた。

「ああ、久しぶりね、尼寺君。元気そうね。ご活躍、聞いているわ」

 いけない。どうしていざ喋りだすとこんなに高飛車になってしまうのだろう?

「ありがとう、藤村さん。で、ご用件は?」

 尼寺君の声が素っ気ない。まあ、仕方ないかとクスッと笑ってしまった。

「何よ、畏まって。そんなに私の事が怖いの?」

 そういう事を言ってしまうから、余計怖がられるのに。バカだな、私って。

「そ、そんな事はないよ。そう聞こえたのなら、謝ります」

「それよ、それ。その言い回しが、そういう印象を与えるのよ、尼寺君」

 ああ、追い討ちをかける事を言ってしまう。声のトーンを変えて、用件を切り出した。

「尼寺君も忙しいだろうから、手短に言うわね」

「うん」

 畏まった姿の尼寺君が目に浮かぶ。

「今日、尼寺君が調査に行った法人の担当者、私の従弟なの」

「ええ!?」

 尼寺君は、相当驚いたようだ。私はつい面白くなって、

「随分と、可愛がってくれたみたいね、彼を? この仕返しは必ずさせてもらうから、覚悟していてね」

「いや、その、別に、そんな……」

 すっかり狼狽うろたえている尼寺君。ああ、またやってしまった。慌てて笑って誤魔化す。

「ごめん、ビックリした? 脅かすつもりはなかったんだけど、尼寺君があまりナイスリアクションだったから……」

 更に笑って、尼寺君に「冗談だった事」を強調する。そして、

「彼にはいい勉強になったらしいわ。貴方に感謝してたわよ」

とフォローをした。

「そ、そう」

 尼寺君もホッとしたみたいだ。本当に私って怖がられている。悲しいな。

「今度飲みにでも行かない?」

 思い切って言ってみた。

「え?」

「何よ、私とは飲みに行けないの?」

 素っ頓狂な声の尼寺君に少しだけイラついた。そして、ダメ押し。

「私、もう貴方の税務署の管轄の関与先を担当していないから、大丈夫よ。心配ないわ」

「あ、そう」

 どうやら了承してくれたらしい。

「また連絡するね」

 私はドキドキしながら、携帯を切った。

(やっぱり、好きなのかな、彼の事?)

 私自身、尼寺君の事をどう思っているのか、わからなかった。

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