税務その七

 私は藤村蘭子。近藤税理士事務所の職員だ。もう、上から数えた方が早いくらい、古株に区分けされる位置につけて来ている。

 それはいくつかの意味で、何となく寂しい。先輩職員の方々が税理士試験を受けて合格し、晴れて独立されたり、結婚を機に退職されたり、あるいは家庭の事情等で仕事をやめざるを得なかったり。どれも残される者には悲しい事だ。

 そんな時の流れで、私にも「部下」らしき女の子が二人ついている。錦織つばささんと、東山美奈さんだ。どちらも、この春、専門学校を卒業し、一通りの研修過程を終え、会計監査のスタッフとなった。今まで教わってばかりだった私にとって、この二人の存在はかなりキツかった。

 もちろん、錦織さんも東山さんも、専門知識はあるので、業務に支障があったりする訳ではない。二人共とても優秀で、私が入所した当時と比べても、ずっと物覚えもいいし、適応能力に長けていると思う。

 私がキツいと思うのは、二人を「任されている」という重圧だ。やりたい放題に近い事をして来た私にとって、錦織さんと東山さんの存在は、「手枷・足枷」に近かったのだ。何とか、この状態を脱出する方法はないかと、いろいろと考えていた。

 そんな時、近藤所長から呼ばれて、所長室に出向いた。

「藤村さん、忙しいところ、申し訳ないね」

「いえ、そんな事はありません」

 私はかしこまって応じた。いつもはそんな態度にはならないのだが、今日は所長の奥様がいらしているのだ。

「お久しぶりね、藤村さん。元気そうで何よりです」

「ありがとうございます」

 所長の奥様は、今でこそ事務所にはいらしていないが、嘗てはその厳しさと細かさで、何度も泣かされそうになった方なのだ。温厚が服を着て歩いているような所長と違い、奥様はとにかく「鬼軍曹」という渾名が似合うスパルタ先生だった。元々、着付け教室の先生で、茶道や華道、行儀作法などを一通り勉強されている筋金入りの「大和撫子」なのだ。飲兵衛の近藤所長と一体どこで知り合ったのか、とても不思議である。

 先輩で、すでに退職している桂ゆかりさんをして、

「怖くて、お会いすると、未だに足が震える」

と言わしめたのは、あまりにも衝撃的な話だ。

「今日は、お願いがあってね」

 所長が切り出す。

「はい?」

 私はキョトンとしてしまった。あっ、叱られる、と思ったが、さすがに奥様も第一線を退いたからか、何もおっしゃらない。

「私達の娘が、税理士事務所を開業する事になったんだ」

 お嬢さん? ああ、沙織さんね。確か桂さんより三つ年上で、現在三十……。おっと。それはどうでもいい情報だった。そうか、遂に暖簾分けなのね。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

 所長と奥様が異口同音に言った。奥様に「ありがとう」なんて言われたの、もしかして初めてかも。

「それで、沙織のサポート役に誰が一番適任か、妻と話したところ、藤村さんに白羽の矢が立ったという訳なんだ」

「光栄です」

 私は二人を見て会釈した。奥様が話し始める。

「藤村さんは、私が指導した方の中で、一番飲み込みが早く、一番仕事の効率が良かった方です。娘のサポートには、貴女以上の方はいません」

 奥様にベタ褒めされると、背中がムズ痒くなる。

「身に余るお言葉です。ありがとうございます」

 私は深々と頭を下げた。


 こうして私は、所長の愛娘である沙織さんの開業した「実相寺じっそうじ沙織さおり税理士事務所」に「出向」する事になり、錦織さんと東山さんの教育係は別の人になった。ドキッとする事とホッとする事が同時にあり、何とも複雑な心境だった。


 沙織先生の事務所は、近藤税理士事務所より私のアパートに近い。通勤には便利になったが、気は重い。何故なら沙織先生は、所長の奥様とは違った意味で筋金入りの「大和撫子」なのだ。但し、決して我が儘とか、そういう感じではない。むしろその方が「サポート」のし甲斐がある。

 沙織先生は、とにかくオットリとした方で、人の上に立てるタイプではない。

「どうしよう?」

 一緒に働いていた時は、いつもそんな事を呟いていた印象が強い。私の方こそ、「どうしよう?」と言いたい。

 それでも、近藤所長ご夫妻に育てていただいた恩もあるので、私なりに全力でサポートする事にした。

「おはようございます」

 事務所は真新しいフロアで、父上の事務所とは違って、いい香りが漂っている。沙織先生はお香好きなので、多分その関係の匂いだろう。

「お待ちしていました、藤村さん」

 ちょっと垂れ目の、でもとても愛嬌のある女性。それが沙織先生だ。どちらかと言うと、近藤所長に似ているのかな? 童顔なので年上にも見えないし、結婚しているようにも見えない。

「お世話になります、先生」

 私は深々と頭を下げて挨拶した。

「嫌だ、そんな、他人行儀な事言わないでよ、藤村さん。私は年上だけど、経験値では貴女の方が遥かに先輩なんだから」

 沙織先生はニコニコしながら私を机に誘導した。私は奥の席にいる女性と目が合ったので、会釈した。その女性も微笑んで会釈を返してくれた。沙織先生と同年代くらいだろうか?

「こちらが貴女の席ね」

 沙織先生が言った。

「え?」

 私はびっくりした。その席は、机の両側に引き出しがあり、椅子は肘掛け付きの革張り。どう見ても重役用。冷や汗が出そうだ。

「貴女を当事務所の所長代理としてお迎えします。よろしくね」

 沙織先生は、ニッコリ笑ってそんな重要な事をサラッと言った。私は溜息を吐きそうになったが、

「はい」

と答え、心の中で脱力した。これじゃ、「教育係」でしょ!

「それから」

 沙織先生はさっき会釈を交わした女性を見た。その女性はパソコンを操作中だ。

「あちらが、事務所の経理と総務全般を引き受けてくれる植草薫さんです」

 植草さんは沙織先生の声に反応して立ち上がり、近づいて来る。キビキビした印象を受けた。

「植草です。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 私は慌ててお辞儀を返した。


 沙織先生と植草さんと私。事務所の船出は、この三人で始まるようだ。

 中の仕事は全て植草さんが、そして、近藤所長から暖簾分けしてもらった顧問先は全て私が引き受ける事になる。全てと言っても、十五軒なので、それほど驚く軒数ではない。近藤所長の事務所の私の受け持ちは、取り敢えず錦織さんと東山さんが引き継ぐ事になるが、それでもしばらくは掛け持ちになるだろう。ゲッソリ痩せそう。


 数ヵ月後。

 私の心配は取越苦労に終わった。ホッとした。錦織さんと東山さんは急成長し、全部任せられるようになった。そして、私は正式に沙織先生の事務所に移動となり、名刺まで作ってもらった。

「実相寺沙織税理士事務所 所長代理 藤村蘭子」

 いかめし過ぎる。どんなベテランだと思われそうだ。嫌だけど、仕方ないか。沙織先生は悪い人ではないので、いろいろ言うと、落ち込んでしまうかも知れないし。実際よく落ち込んでいたし。

「その席が板について来たわね、藤村さん」

 沙織先生は、嬉しそうにそう言うが、私はまだ革張りの椅子は居心地が悪い。

「そうですか?」

 苦笑いをして応じる。


 そして更に半年が過ぎた頃。

「お電話ありがとうございます、実相寺税理士事務所でございます」

 植草さんは、とにかく電話に出るのが早い。私も自信があるのだが、彼女には敵わない。どうしてなんだろう? やっぱり訓練の賜物? 彼女はここに来る前、テレフォンレディをしていたらしいのだ。

「藤村さん、1番にH税務署からお電話です」

「はい」

 税務署? あ、そうか、すでに何軒か、法人の確定申告をしていたっけ。H税務署ね。彼、まだ頑張っているのかな?

「法人課税部門の尼寺と申します」

 え? 尼寺君? 奇遇ね。私がここにいるのを知ってるのかしら? そんな訳ないか。

「実相寺先生の顧問先である有限会社らーめん王さんの税務調査に再来週の火曜日と水曜日にお伺いしたいのですが」

 らーめん王? そこは、近藤所長のところで担当していて、半年だけこちらで受け持ったところだ。あの社長、一癖あるから、心配だなあ。

「わかりました。先方に都合を聞いて、折り返しご連絡致します」

「よろしくお願いします」

 私は受話器を戻し、ニヤッとしてしまった。

(尼寺君、私だって気づかなかったみたい)

 この前、彼を酷く傷つけてしまった手前、本当は別の人に調査に立ち会ってほしいのだが、それでは私が逃げている事になるので、これも何かの縁と考え、自分で行く事にする。

 らーめん王の社長に都合を確認したところ、仕込みの関係があるので、調査を定休日の火曜日一日だけにしてほしいと言われた。そんな我が儘が通るのかわからないが、取り敢えず承知し、尼寺君に掛け合ってみる事にした。

(どうしよう、名乗った方がいいかな?)

 電話をかける段になって、私は胸がドキドキして来た。やっぱり、伏せておいた方がいいだろうか?

「H税務署法人課税部門です」

 電話口に出たのは、女性だ。しかも若そう。私と同年代くらい? 尼寺君と付き合ってたりして。

 何でそんな事を思うのだろう?

「実相寺税理士事務所の藤村と言います。尼寺さんはお手すきですか?」

「尼寺は只今来客中です」

 私はつい、これ幸いと思い、伝言をお願いした。やっぱり、ちょっと怖い。もう一度、彼から電話がある事になるが、それは何とか乗り切れそうだ。

「どうされたんですか、藤村さん?」

 私の憂鬱そうな顔を見て、植草さんが声をかけて来た。

「あ、いえ、その、調査の立会いって、何回経験しても、気が重いなあって」

「ああ、そうなんですか」

 植草さんはそう言いながら、さり気なく紅茶を出してくれる。

「ありがとうございます」

 当事務所は、飲み物は基本的にセルフサービスなのだが、植草さんと私だけの時は、うっかりしているとお給仕されてしまう事がある。いつかは私が植草さんにコーヒーを出したいのだが、コーヒーメーカーと給湯室の前に陣取っている彼女を「出し抜く」のは無理だろう。

「どういたしまして」

 植草さんは、沙織先生と高校の時の同級生で、その時から途切れずにずっと仲がいいらしい。ボンヤリした沙織先生には、植草さんのようなキビキビした人が合うと思う。あれ? 私もそう思われて、選ばれたのかな?

 また電話が鳴った。今度も植草さんが出た。

「藤村さん、H税務署の尼寺さんからです」

「はい」

 あの女性は、私の名前まで伝えたのだろうか? ビクビクしながら受話器を取る。

「お電話代わりました」

「H税務署の尼寺です。お問い合わせの件ですが、了解しました。定休日の火曜のみの調査で差し支えありません」

「ありがとうございます」

 私は切り出そうか、どうしようか悩んだ。

「失礼します」

 尼寺君は、結局私に気づいていたのかどうかわからなかった。今更どうでもいい事だが、何となくすっきりしなかった。


 そして翌日、私は調査に備えるためにらーめん王に出向いた。一番客の入りが少ない三時頃を狙って行ったが、それでも幾人かのお客がいた。さすが、人気店だ。

「藤村さん、帰りに食べて行ってね」

 陽気な奥さんが言った。

「ありがとうございます」

 私は忙しそうな社長に会釈し、二階の休憩室に上がる。

「ごめんなさいね、狭いところで」

 奥さんは散らかった雑誌を隅に放り投げ、座布団をパンパンと叩いて、テーブルの前に敷く。

「みんなここにはもう上がって来ないから、大丈夫よ」

「はい」

 私は奥さんが階段を降り始めたのを確認して、段ボール箱の中の書類を取り出した。

 この店は、帳簿類は問題ない。心配なのは、社長と奥さんの性格。何か隠している気がするのだけれど、そう思えるだけで、何も証拠はない。この際、尼寺君に洗いざらい調べてもらって、全部吐き出してもらおう。そう思ったほどだ。


 すっかり客足がなくなった頃、私の業務も終了した。帳簿類は完璧。恐らく何も出ない。

「さ、召し上がれ」

「ありがとうございます」

 奥さんは、餃子とラーメンを出してくれた。どちらも看板商品だ。

「おい、少しは気を使えってんだよ」

 何故か社長が奥さんをたしなめる。

「何よ?」

 奥さんはムッとしたようだ。すると社長は、

「藤村さんはお前と違って、これからデートかも知れないんだぞ? 餃子なんか食って行ったら、彼氏に嫌われるだろ?」

 余計なお世話です、社長。でもそうは言えない。苦笑いするのが精一杯だ。

「あ、そうかあ。ごめんね、藤村さん」

 奥さんは慌てて餃子を下げた。別ににおいなんて構わないんだけど、そんなに食べられないので丁度良かった。

「ご馳走様でした」

 私はラーメンを食べ終え、両手を合わせて言った。

「お粗末さまでした」

 奥さんはニコニコしながら、どんぶりを下げる。

「大丈夫だよね、藤村さん?」

 社長が出し抜けに尋ねて来た。私は社長を真っ直ぐ見て、

「大丈夫です。帳簿類は、全く問題ありませんでしたから」

 私の皮肉が通じたのか、社長はギクッとした。やっぱり何か隠してる。でも、ここまで来たら、調査当日に懸けるしかない。それ以上何も追求せず、私は店を出た。


 そして遂に調査当日。らーめん王に行く。何となく、気が重い。今日は直行なので、沙織先生と顔を合わせていないのが何よりだ。昨日も帰りがけに、

「今のところウチの調査は、五戦五勝だから明日も続くように祈ってるわ」

などと、とても無責任な事を言われてしまった。悪気がない分、本当に困る。

(調査は勝ち負けじゃないのに)

 そう思うが、心のどこかで、

(尼寺君には負けたくない)

などという思い上がりがある。私はそれを振り払い、らーめん王の裏口のドアを開いた。

「おはようございます」

 定休日なので、社長と奥さんしかいない。社長は相変わらず、眉間に皺を寄せてスープと格闘している。

「藤村さん、ここは汚いから、お店の方へどうぞ」

 奥さんがそう言うと、

「こら、汚いとは何だ!?」

と社長が振り返って文句を言う。いつもの光景だが、何となくぎこちなく見えるのは気のせいだろうか?

「失礼します」

 私は社長に会釈して厨房を抜けて店に出た。

「どうぞ」

 奥さんがお茶を淹れてくれる。

「あ、ありがとうございます」

 私は一口飲み、何となく店内を見渡した。こうしてゆっくりとこの店の中を見るのは、もしかすると初めてかも知れない。

「あ、あの、何か?」

 唐突に奥さんが訊いて来る。

「え? いえ、別に」

「そ、そうですか」

 奥さんは苦笑いをして厨房に消えた。何だろう、今の妙な反応は?

「H税務署法人課税部門の尼寺と言います」

 来た。尼寺君だ。間違いなく、彼だ。どうしよう、ドキドキして来た。

「お待ちしてました。どうぞ」

 奥さんの愛想のいい声が聞こえる。

「あんた、税務署の方が見えたわよ」

 奥さんが社長に声をかけた。

「もっと大きな会社を調べりゃいいだろう? 何でウチみたいな小さいとこを虐めるんだよ!?」

 社長が早速尼寺君に喧嘩腰に言う。そんな事を言うと、「ウチは不正をしているから、来ないでよ」と言っているようなものなのに。仕方ないな。私は意を決して立ち上がった。

「社長、そういう事は言わない方がいいですよ」

 私は、どうしても後ろめたくなってしまう自分を叱咤するために、強気で行く事を決断した。

「尼寺君、久しぶりね。まだ調査官しているの?」

 あ、しまった。これはちょっと酷過ぎる言い方だ。案の定尼寺君は鯉みたいに口をパクパクしている。相当驚いているようだ。

「あ、あ、ど、ど……」

 呂律が回っていない。気の毒に。でも、私にも立場があるから、同情はしない。

「どうして私がいるのかって訊きたいのね?」

「あ、ああ……」

 尼寺君は、まだ状況判断ができていないような顔をしている。ここは一気に畳み掛けるべきだ。

「近藤先生のお嬢さんが税理士になられたのよ。それで、一時的に応援という形で、私がサポートしているの」

「……」

 ここまで驚かれると逆に気分が悪いが、どうやら尼寺君は、電話でやり取りしたのが私だとは気づいていないらしい。

「何だ、藤村さんの知り合い? じゃあ、大丈夫だね」

 社長が嬉しそうに私を見る。しめしめと思っているのだろう。

「私の知り合いだという事は関係ありませんよ、社長」

 私はニコッとして社長を押さえにかかる。こんな事でつけ上がられても困るからだ。そして返す刀で尼寺君にも先制のジャブ。

「でも、何も出ないのは確かでしょうね」

「……」

 ああ、また皮肉がきつ過ぎる。本当に嫌な女になりそう。


 やがて尼寺君は社長の身上調査を始めた。

「では、社長さんにお尋ねしますね」

 尼寺君がそう切り出すと、社長はニヤッとして、

「まあ、形式だけなんでしょ? もう調査は終わったようなものですよね、山寺さん」

「尼寺です」

 ムッとしてる。昔から名前を間違えられると怒っていたな。変わらないね、尼寺君。

 私は、尼寺君の一挙手一投足を見落とすまいと、ジッと彼を観察した。気があるって思われたら困るな。尼寺君は、私がずっと目を離さずに見ているので、困った顔をしている気がした。

 もちろん、それだけではない。帳簿類は、まさに「水も漏らさぬ」精度なのだ。そこだけは絶賛したいくらいだ。だから彼も深刻な顔にもなる。でも不安は消えない。

(?)

 奥さんが私と尼寺君を見比べて、ニヤニヤしている。何? 凄く嫌な予感がするんだけど。

 掛け時計を見上げると、もうすぐお昼。いつもならここですませるのだが、今日はどうしても外に出たい。だから思い切って冒険に出た。

「お昼はどうする、尼寺君?」

「えっ?」

 ちょっと。どうしてそんなにビクッとするのよ? 失礼よ。

「山寺さんも煮え切らない男ねえ。藤村さんが誘ってるのに、ぼんやりしちゃってさあ」

 奥さんがトンデモ発言だ。別にそんなつもりはないんだけど。でもいいや、便乗しちゃう。

「そうよ、尼寺君。私に恥を掻かせないで」

 尼寺君は、完全に固まってしまった。どうしてそんなに私の事を怖がるだろう?

「さ、行きましょうか」

 私は尼寺君を強引に外に連れ出した。

「どこで食事する?」

 私はうまく店を抜け出せたのが嬉しくて、ニコニコしてしまった。尼寺君はそれを不信に思ったみたいだ。訝しそうな目で、私を見ている。この辺は、どこに美味しいお店があるんだっけ? 私はグルメナビを見ようと思い、携帯を探した。ない。店の中に忘れたようだ。戻るのは怖いけど、仕方ない。

「あ、いけない、携帯忘れた。ちょっと待っててね」

 私は慣れないウィンクをして尼寺君に詫び、店に戻った。

「すみませ……」

 私が裏口から戻ると社長が仰天して、

「うわっ!」

と叫んだ。私はムッとしてしまった。

「どうしたんですか?」

「い、いえ、別に」

 奥さんが慌てて言い繕う。私は不思議に思ったが、携帯を見つけると、

「すみませんでした」

とお辞儀をして、厨房を出た。


 グルメナビで探したが、あまりいい店が見つからない。どのナビで探しても、地域一番店がらーめん王なのは皮肉だった。仕方がないので、すぐそばにあったパスタの店に入った。

「税務署には、若い女の子もいるんでしょ? どうなのよ、尼寺君」

 先日、税務署に電話した時に出た女の子の事を思い出し、尼寺君に尋ねてみる。

「相手にしてもらえないよ」

「フーン、そうなんだ」

 何とも侘しい返事だ。尼寺君て、高校の頃から女子とは縁がなかったような気がするけど。

「じゃ、私が立候補しちゃおうかな、尼寺君の彼女に」

「!」

 尼寺君はギョッとした顔で私を見た。私はほんの冗談のつもりで言ったのに、そんなに嫌な顔をしなくてもいいのに。私って、嫌われてるのかな?

「何、私じゃ不満そうね?」

「いや、そんな事は……」

 尼寺君は、必死な顔で言い訳をする。そうですか、そんなに私の事は嫌なんですか。何か悔しくなって来た。こうなったら、もう少し踏み込んでみようか。

「じゃ、考えといて。私、待ってるから」

 ここまで言えば、何かしらのリアクションがあると思ったのに、彼は何も言ってくれない。

「戻ろうか」

「う、うん」

 悲しい気分だ。私は別にモテた事はないけど、ここまで嫌がられた事もない。


 店に戻ると、

「どうだった?」

と奥さんが興味津々の顔で訊いて来た。私は苦笑いをして、

「振られちゃいました」

「まあ!」

 奥さんは睨みつけるように尼寺君を見た。

「ち、違いますよ」

 尼寺君は慌てて否定したが、奥さんは取り合わない。

「こんな男、やめといた方がいいよ、藤村さん」

「そうですね」

 私は寂しく笑って応じた。尼寺君は何も言わずに席に着く。

「山寺さん、女の子にはもうちょっと優しくした方がモテるぞ」

 社長が小声でアドバイスしているのが聞こえる。

「はあ……」

 尼寺君は溜息とも返事ともつかないような声を出した。

「?」

 私は自分の椅子に座る時、尼寺君が不思議そうな目で店内を見渡しているのに気づいた。

(何を探しているんだろう?)

 何故か奥さんがソワソワしている。尼寺君はそれには気づかず、また帳簿を見始めた。

 どちらにしても、何も気づかないでいてくれた方がありがたい。

「従業員さんのまかないはどうなっていますか?」

 尼寺君が不意に思い立ったように尋ねる。

「給料に加算してあります。もちろん、その分は売上に計上してありますよ」

 そんなところに手抜かりはない。正攻法では何も出ないよ、尼寺君。そしてまた店内を見回す。何を探しているのか、全くわからない。それが逆に不安になる。

(あっ!)

 私は尼寺君が探しているものに気づいた。店の神棚だ。そこにあった招き猫がない。お昼休みに出る時は、確かにあった。隠したのか? もしそうなら、それは多分……。

「招き猫がなくなっていますね」

 尼寺君が誰にともなく言うと、奥さんがガタンと立ち上がった。

「奥さん、招き猫はどこにありますか?」

 気づかれたか。私は尼寺君から目を逸らせた。

「招き猫なんてありませんよ。何言ってるんですか、山寺さん」

 奥さんは見え透いた嘘を吐いた。私はハッとして奥さんを見る。確定だ。これは絶対何かある。私は悔しくて尼寺君を見られない。

「そうですか。僕の見間違いだったんですかね?」

 尼寺君は椅子を持ち、神棚に近づいた。社長が慌てて立ち塞がる。

「ダメです、社長! 妨害行為になりますよ」

 私は立ち上がって嗜めた。社長はビクッとして脇に退いた。尼寺君は椅子の上に立ち、神棚の上を見た。

「招き猫の大きさくらいに、ほこりが着いていないところがあります。ついさっきどけられたようです。何があったか、教えて下さい」

「そ、それは……」

 社長と奥さんはすっかり動揺してしまい、私を見る。

「招き猫がありました。ごらんになりますか?」

 私は疑惑が確信に変わったので、二人の代わりに言った。

「はい。是非」

 尼寺君は椅子から降りて答えた。


 問題の招き猫の中から五百円硬貨が二十万円分出て来た。従業員の給料明細は二重に作られていて、額が操作されていた。一日千円徴収していたが、私達には五百円徴収した形の明細を見せていたのだ。酷い話だ。

「重加算税に関しては、上司と相談してお返事いたします」

 尼寺君の温情だろう。普通は、そんな事をしなくても重加算税は当然の処置だ。

 最初は言い繕おうとしていた社長夫妻も、最後は観念して素直に認めたせいもあるかも知れない。取り敢えず、その事だけは良かった。

「申し訳ない、藤村さん」

 あの利かん坊のような社長が頭を下げた。これには驚いた。

「これからは、隠し事はなしですよ」

「はい」

 二人は小さくなって返事をした。


 私はどうしても尼寺君にお礼が言いたくて、同級生をいろいろ当たり、彼の携帯電話の番号を聞き出し、かけた。

「はい」

 良かった、出てくれた。

「尼寺君?」

 私は嬉しくて泣きそうになっていた。

「ありがとう」

「え?」

 それでは訳がわからないだろう。自分で自分に呆れてしまう。

「どういう事?」

 当然の疑問だ。私は言い訳に聞こえるのを覚悟して言った。

「あの社長、ウチを舐めていたのよ。若い女の税理士だから。全く聞く耳持たないと言うか。困っていたの」

「そう」

 冷たい。彼は私の話を信じていないようだ。それはそうだろう。多分、あの招き猫の件も、私が主犯だと思っているのだろう。

「以前は小銭なんて全部抜いていたらしいわ。でも、それだと現金の残高が不自然になるからと説得して、ようやく帳簿面だけはまともになったの。招き猫のお金も、さっき気づいたのよ」

「ふーん」

 全然信用されていない。仕方がないけど、辛い。

「ねえ、尼寺君、その言い方、私に対する仕返し?」

 私は思い切って尋ねた。

「そう聞こえるのは、藤村さんに心当たりがあるからじゃないかな」

 尚もつれない尼寺君の言葉。

「そうね。貴方にはもっと酷い事したかもね」

「そうさ。僕を動揺させようとして、あんな嘘を吐いて」

 どの事だろう? そんな風に思ってしまうほど、私は彼に酷いことを言った気がしてしまう。でも、さすがに堪える。そんな風に言われると、涙が出そうだ。

「酷い。尼寺君、あれ、嘘だと思っていたの?」

 感情が高ぶって、そう言ってしまった。

「いや、その、あの……」

 尼寺君の声のトーンが変わった。動揺したの? 私はこぼれる涙を拭いながら、

「うっそー。その通りよ。貴方を動揺させようと思って嘘を吐いたわ。ごめんなさい」

と強がってみせた。

「またどこかの会社で会いましょう。次は負けないわよ」

「ああ」

 携帯を切る。涙が止まらない。どうしてだろう? どうしてこんなに悲しいのだろう?


 わからなかった。

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