税務その六

 私は藤村蘭子。近藤税理士事務所に勤め始めて、三年が経った。


 私の受け持つ関与先で、一番手強かった有限会社高田板金。数字に五月蝿くて細かい高田信夫社長。呑気で大雑把で、間違いがあっても訂正するのを嫌がるわがままな奥さんの清美さん。只一つの希望は、二人の息子である幸秀ゆきひで君。まだ大学生だけど、社長の跡を継ぐために休みの日は父親と一緒に実地研修だ。彼を見ていると、私の方が年上のはずなのに、子供のような気がしてしまう。

 私が何とか続けられたのは、幸秀君のおかげだ。彼の純真さと素直さがなければ、投げ出していたろう。それくらい、彼には感謝している。

「脱税は犯罪です」

 私は口が酸っぱくなるほど社長と奥さんに説いて来た。奥さんは「暖簾に腕押し」だし、社長は、税務署を舐め切っていて、全く意に介さない。

「そのために税理士を雇っているんだろ?」

 社長は、税理士の事を「お遣い小僧」くらいにしか思っていないのだ。

「わかりました。では私はもうこれ以上貴社の顧問先として関与できません。後はご自分でお好きなようになさって下さい」

 私はとうとう堪忍袋の緒が切れ、そう言い捨てて会社の玄関を出て来てしまった。

「藤村さん」

 追いかけて来たのは、幸秀君だった。

「ごめんなさい、藤村さん。父と母は、僕が必ず説得します。来週連絡しますから」

 私はもう幸秀君の懇願ですら聞くつもりはなかったのだが、目を潤ませている彼を見て、

「わかりました。お電話、お待ちしていますね」

「ありがとうございます」

 幸秀君は本当に嬉しそうに言い、何度も私に頭を下げながら、会社に戻って行った。

「ふう」

 我ながら人が好いかも、と思い、私は一旦事務所に戻った。


「お帰りなさい、藤村さん」

 受付事務の宮野さんが出迎えてくれる。彼女も後輩の指導をする中堅の事務員さんだ。数ヵ月後に結婚を控え、公私共に充実している。年下の宮野さんに先を越されて、私はほんの少し彼女が羨ましかった。とは言え、結婚どころか、恋人もいないのだから、羨ましがっても仕方がない。

「大丈夫なの、宮野さん?」

「え? 何がですか?」

 宮野さんは少々天然なので、決して惚けているのではない。

「結婚の準備もあるんでしょう?」

「ああ、それですか。大丈夫ですよ」

 ニコッとして話す宮野さん。彼女は結婚しても仕事は続けるつもりらしい。私もそういう相手を見つけないと。「女は家にいろ」なんていう男とは、絶対に結婚できない。

「それより」

 宮野さんが悪戯っぽく笑い、

「彼が、藤村さんに紹介したい人がいるって言ってましたけど、どうします?」

「遠慮しとくわ。宮野さんの彼に恥を掻かせるだけでしょうから」

 私は笑いながら言い、机に鞄を置いた。

「そんな、会ってもいないのに……」

「相手が誰であろうと、今のところ私の答えは決まっているから、仕方がないのよ」

 私の顔をマジマジと見て、宮野さんは溜息を吐く。

「藤村さん、美人なんですから、引く手数多ですよ」

「ありがとう」

 そこへ宮野さんの後輩が奥から戻って来たので、私達は雑談を打ち切った。

「宮野さん、この書類なんですけど」

 後輩の子も凄くいい子で、宮野さんが入所した時とイメージが被る。宮野二世という感じすらする。

「所長はいらっしゃるの?」

 私は頃合いを見計らって宮野さんに尋ねた。宮野さんは後輩の子に指示をしてから、

「はい。いらっしゃいますよ」

「わかったわ」

 私は重い足取りで所長室へと向かった。


「そうか。とうとう、藤村さんも我慢できなくなったか」

 私は高田板金の件を近藤所長に報告した。所長は怒るでもなく、嘆くでもなく、そう言った。

「前任の桂さんも、個人から法人に切り替える時、随分とやり合ったみたいだけど、藤村さんも相当ぶつかっていたよね」

「はい。申し訳ありません」

 私は頭を下げた。すると所長は、

「ああ、いやいや、藤村さんを非難している訳じゃないよ。貴女や桂さんは、税理士事務所として正当な主張をしたのだから、それに関して私がどうこう言うつもりはない」

「はい」

 それでも気が咎める。私は、近藤所長の「収入源」を一つ断ってしまうかも知れないのだから。そしてそれは取りも直さず、私の給料の源泉を絞ってしまう事でもある。

「とにかく、後はその二代目に任せるしかない。藤村さんが見込んだほどの人物なのだから、うまくいく事を祈ろう」

「はい、所長」

 それでも私は不安だった。確かに幸秀君は、とてもあの二人から生まれたとは思えないほどいい子だし、それだけに社長も奥さんも彼に寄せる信頼は絶大だ。しかし、今回は今までとはレベルが違う。ましてや、仕掛けたのは私。それを素直に受け入れてくれる社長ではない。奥さんは幸秀君命だから、あっさり陥落するかも知れないけど、金銭絡みでは、あの社長はそう簡単には動かない。その上、

「税務署は金を巻き上げるところ」

と信じ込んでいるし、税金を払う奴はバカだと思っているようなのだ。無理が多過ぎる。

(一回、税務署に調査に来られて、酷い目に遭えばわかるのかな?)

 そうも思ったが、それでは何の解決にもならない。もしかすると、もっと税務署嫌い、税金嫌いになってしまうかも知れないのだ。

(やっぱり、幸秀君にすがるしかないのかな?)

 私は凄くもどかしかった。


 そして月曜の朝になった。

 私は、まさかこんなに早く返事は来ないだろうと思い、事務所に行った。

「おはようございます」

 受付の席には、宮野さんではなく後輩の子が座っていた。宮野さんは奥で別の後輩の研修らしい。

「藤村さん、高田板金様から、お電話がありました」

「え? 高田板金様から?」

 私はあまりに早い返事に、絶望しかけた。これは多分失敗したのだと思った。

「連絡が欲しいそうです」

「はい。電話、どなたからだった?」

 私は机の上に鞄を置きながら尋ねた。

「あ、すみません、訊いていないです」

「ダメじゃない、須藤さん。お名前は必ず確認しないと」

 私が言おうとした事を、奥から戻って来た宮野さんが言ってくれた。

「申し訳ありません」

 須藤と呼ばれてたその子は、酷く慌てた様子で頭を下げた。宮野さんて、もしかして「スパルタ」?

「私もよく、藤村さんに指摘されたの。だから、今度から気をつけてね」

「はい」

 宮野さんはそんなつもりはないのだろうが、それでは私が完全に「怖い人」になってしまいそう。ああ、それより、私、この子の名前も覚えていなかった。ごめんね、と心の中だけで詫びた。

「ふう」

 私は思わず深呼吸をして、高田板金に電話した。

「お電話ありがとうございます、高田板金です」

 そんな言葉で出られた事がなかったので、違う「高田板金」にかけてしまったと思ったほどだ。

「近藤税理士事務所の藤村です」

「ああ、藤村さん。幸秀です」

 電話に出たのは、幸秀君だった。声が弾んで聞こえた。

「藤村さん、もう一度ウチに来て下さい。父も母も、心を入れ替えるそうです」

 まるで悪人を懲らしめた後の「ご老公様一行」だ。幸秀君は、完全勝利をしたのだ。

「わかりました」

 私は訪問日を取り決め、電話を切った。

「良かったですね、藤村さん」

 宮野さんがそう言ってくれた。須藤さんは、只ニコッとして私を見ている。どうやら怖がられてしまったようだ。


 そして数ヵ月後、高田板金の決算は滞りなく終わり、私は今までの訂正箇所をその年度でまとめて修正した。これで税務署が調査に来ても大丈夫だ。

「どうですか、きちんと仕事をすると気持ちいいものでしょう、奥さん?」

 私は皮肉混じりに言ってみた。すると奥さんは苦笑いをして、

「そうね。本当に藤村さんのおかげよ。息子の見る目に狂いはなかったわね」

 べた褒めのその息子である幸秀君は、今日はどうしても出なければならない講義があり、大学だ。

「あの子ね、貴女の事が好きみたい」

「え?」

 ギクッとする。そんな雰囲気はあった。そうじゃないかとも思った。でも、確かめるわけにもいかないので、そのままだった。

「だからあそこまで必死だったのね。あんなに真剣に私達に話をする幸秀を見た事がないから」

「そうですか」

 私は何となくバツが悪い。幸秀君は本当にいい子だけど、恋愛の対象にはできないから。

「でも、私は反対。貴女には幸秀は渡せません」

 奥さんは笑いながら言った。どういうつもりなのかわからないけど、私も貴女の息子さんを恋人にしようとは思っていませんから。そう言いたかった。


 そして更に季節が進み、七月。

 宮野さんの結婚式に出席して、私は急に結婚願望が高まるのを感じた。

(相手もいないのに、結婚? バカだな、私って)

 そう思い、妄想を振り払う。

「藤村さん、H税務署から電話です」

 須藤さんが言った。私はハッと我に返り、

「何番?」

「2番です」

 ボタンを押し、電話に出る。

「お電話代わりました」

 担当者が名前を名乗った。でも、まだ結婚の妄想が振り切れていない私は、空返事をしていた。

「では、再来週の水木で調査という事でよろしいですか?」

 その言葉に、またハッとする。

「あ、はい」

 私の受け答えがおかしい事に気づいたのか、相手は繰り返した。

「高田板金さんの調査の日程ですが、再来週の水木でよろしいですか?」

「高田板金さんに確認して、もし都合が悪ければご連絡致します」

「わかりました。よろしくお願いします」

 とうとう私は、相手の名前を確認できないまま、電話を切ってしまった。先日、その事で須藤さんは宮野さんに叱られたのに。それも、私が宮野さんに指摘したという話まで出たのに。何をボンヤリしていたのだろう? 私は自分が情けなかった。

「ふう」

 また溜息を吐いてしまった。そして気を取り直し、高田板金に連絡する。

「えええ? 調査、ですか?」

 奥さんは電話の向こうで卒倒しそうな声で叫んだ。

「日程の方は大丈夫ですか?」

「ずっと大丈夫じゃないと言えませんか?」

 相変わらず惚けた奥さんだ。

「無理です」

 そんなバカげたやり取りをして、私は電話を切り、H税務署に連絡する。あ。しまった、相手の名前がわからない。

「……」

 チラッと見ると、須藤さんは他の電話に出ていた。

「あ、近藤税理士事務所です。先程、高田板金さんの調査の件でお電話いただいたのですが?」

「担当は私です。どうでしたか?」

 よかった、偶然にもさっきの人が出てくれた。

「高田板金さんも大丈夫です。再来週の水木でお願いします」

 私は要件をすませると、すぐに電話を切った。どうも調子が悪い。宮野さんの結婚と、高田板金の幸秀君の事が合わさって、頭が混乱している。調査があるのにこんな事ではダメだと思い、気合を入れた。

「よし!」

 須藤さんに聞かれているのを思い出し、赤面した。彼女は聞いていないフリをしてくれたが。


 私は高田板金にもう一度行き、三年分の帳簿類のチェックをした。決算の時、念入りに見直したので、間違いはない。もし見つかっても、何とかはねつけてしまおう。この会社は、これからの会社なんだ。わずか数ヶ月で、元の木阿弥なんて冗談じゃない。自宅の樋の工事はしっかり売上計上させている。調査官が得意になってそこを突いて来たら、返り討ちだ。私はいつになく強気になっていた。


 どうしてだろう?


 そして調査当日。社長の自宅の居間で、お茶を飲みながら調査官の到着を待つ。

 ドアフォンが鳴る。奥さんが立ち上がり、玄関に向かう。私も社長に目配せして、居間を出た。

「H税務署法人課税部門の尼寺と言います」

 確かにそう聞こえた。「あまでら」? まさか? えええ? あの、高校の時の同級生の? こんなところで会うなんて、ビックリだわ。私は呼吸を整え、玄関に行った。

「あ」

 相手も私に気づいたようだ。一瞬固まるのがわかった。私だって驚いてるんだから、彼はもっと驚いているだろう。私はここで呑まれてはまずいと思い、強気にいこうと決心した。

「ああ、やっぱり尼寺君ね。珍しい苗字だから、そうじゃないかと思ったんだ」

「あら、藤村さんのお知り合い?」

 奥さんが素早くそれに反応してくれた。更に社長が、

「なら安心だな。今日は何も出ないだろ?」

と援護射撃。尼寺君は、呆然としていた。

 勝った! そう思った。


 それでも不安だった私は、お昼休みを強引に一緒に過ごし、追い討ちをかけるように彼の帰宅時間を見計らって、H税務署の門の前で待ち伏せした。

「実は尼寺君にお願いがあるの」

 私は、尼寺君に高田板金の事を切々と話した。今後の展開次第では、また「脱税志向」の会社にもどってしまうと。だから、何か出ても目を瞑って欲しいと。

 しかし、尼寺君は思っていたよりずっと気骨だった。

「無理だよ、藤村さん。そんな話には応じられない」

 予想に反して、彼は私の申し出を拒絶した。本当は悔しいはずなのに、どこかでホッとしている私がいた。

(当たり前よね。そうよね)

 私はそう思い、自分の愚かさを反省した。


 そして調査二日目。

 尼寺君は、本当に真剣に調査をした。それは私にも伝わって来た。でも、私にもプライドがある。何も出て来るはずがない。少なくとも、この三年分は、「鉄壁の守り」のはずだから。

 結局尼寺君は何も見つけられず、肩を落として帰って行った。

「さすがだね、藤村さん!」

 尼寺君を送りだすと、社長が間髪入れずに大声でそう言った。聞こえますって、そんなすぐに叫んだら! 冷や汗が出る。

「ホント、凄いわ。やっぱり藤村さんに来てもらって良かった」

 奥さんまではしゃぐ。

「たまたまですよ。いつもこうとは限りません」

「またまた。ご謙遜だね、藤村さん」

 社長は一杯引っ掛けたかのように陽気だ。

「あの人、本当に藤村さんの同級生だから、手を抜いてくれたのかしらね」

 奥さんの言葉に、私はギョッとした。

「おい、それは藤村さんに失礼だぞ」

 社長が奥さんをたしなめた。奥さんは肩を竦めて、

「ああ、そうね」

と答えた。でも私は心臓がバクバクしているのを感じた。

 もしかして? 本当に彼は手を抜いたのだろうか? 私はとんでもない事を言ってしまったのではないだろうか? どうしよう? 事務所に帰るまで、私はその事ばかり考えていた。


 事務所に戻ると、叱責を覚悟して所長に報告した。所長はしばらく黙り込んでいたが、

「それはまずい事を言ってしまったね、藤村さん」

「申し訳ありません」

 私は制服の内ポケットに忍ばせた「退職願い」に手を伸ばす。

「いや、謝るなら、その同級生に謝らないと」

「!」

 私は本当に頭をガンと殴られたような気がした。取り返しがつかない事をしてしまった。尼寺君をとても苦しめてしまった。どうしたらいいのだろう?

「彼はとても傷ついたと思うよ。全く知らない税理士事務所の人間にそんな事を言われても何ともないだろうが、高校の同級生である藤村さんに言われたら、相当動揺したんじゃないかな?」

 所長の声は穏やかだったが、いつもと違って私を威圧するような迫力があった。

「はい」

 私は酷く打ちのめされた。尼寺君の気持ちを全然考えていなかった自分自身に嫌気が差した。

「藤村さんが詫びれば、彼はもっと傷ついてしまう。もし、次に会う事があっても、自分からその事を切り出してはいけないよ。彼が藤村さんを非難したら、詫びなさい。そうでない限り、触れてはいけないよ」

「はい」

 所長の言葉は、私の胸にズッシリとのしかかった。

「いい経験をしたね。これを糧に、更に上を目指しなさい」

「ありがとうございます、所長」

 近藤所長に出会えて良かった。心の底からそう思った。


 そして、尼寺君、本当にごめんなさい。

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