税務その三
私は藤村蘭子。近藤力税理士事務所に籍を置く新人の会計人だ。
先日、関与先企業の調査でとても貴重で悲しい体験をし、この仕事の奥深さを改めて知った。
その数日後、近藤所長に伴われてその会社を訪問し、懸案事項は無事解決。本当にホッとした。
しかし、ホッとしたのも束の間だった。
「藤村さん、H税務署から1番に電話ですよ」
受付事務の宮野さんが言った。彼女はこの事務所で只一人の私の後輩である。
「はい」
私はすぐに電話に出た。
「お待たせ致しました、藤村です」
「私、H税務署法人課税部門の早浪です。そちらで関与されている箕輪工業さんの調査にお伺いしたいのですが?」
早浪さん? うわ、あの時の鋭い調査官だ。嫌な汗が出そう。
「わかりました。日程はいつですか?」
「再来週のいずれかの日で二日間お願いしたいのですが」
早浪さんは澱みなく話す。
「では先方に都合を確認して、早浪さんにご連絡致します」
「わかりました。お待ちしています」
私は受話器を一旦置き、フウと溜息を吐いてから、箕輪工業に連絡する。
「箕輪工業様ですか? 近藤税理士事務所の藤村です。社長か奥様はお手すきですか?」
社長は不在で、奥さんがいた。私は用件を手短に伝えた。
「藤村さん、どうしてウチに調査に来るの? 何かあるの?」
非常に心配性な奥さんなので、そんな質問が出る。
「いえ、何かあるとかではないです。任意調査ですから、周期があるんです。前回の調査から、五年ほど経過していますから、頃合いだと判断したのでしょう」
「そうなの? 嫌だわ、調査なんて。この間も、ごっそり取られたんだから」
箕輪工業は、その調査で全然役に立たなかった税理士事務所を見限って、ウチに依頼して来たという関与先だ。そのため、私は余計気が気ではなかった。もし、今回の調査で何か見つかったりしたら、関与を断られるかも知れない。もちろん、近藤所長は、
「お客様がウチの顧問を断るのは、君達のせいではないから、あまり気にしないように」
と言ってくれてはいる。でもそうは言っても、断られるのは嫌なものだ。こちらで断りたい関与先はあるけれど。
「それがないようにウチで顧問させていただいているのですから、ご心配なさらないで下さい」
私はお愛想ではなく、本気でそう思って言った。私が伺うようになってまだ数ヶ月だが、その前の担当者は、私が尊敬する桂ゆかりさんだ。不手際があるはずがない。
「わかった、藤村さんを信用するわ。それで、いつ来るの?」
「再来週で二日間と言っていました。いつがご都合よろしいですか?」
しばらく沈黙。奥さんは手帳を見ているらしく、紙を捲る音が聞こえる。
「再来週は、特に予定はないわね。いつでもいいけど、嫌な事は早く片付けたいから、月曜と火曜がいいかな」
「わかりました。税務署に連絡します。また後程ご連絡致しますので」
「はい。よろしくね」
「失礼します」
私はゆっくりと受話器を置き、ガックリと項垂れた。
(参ったなあ。よりによって、箕輪工業の調査とは……)
経理内容には不安はない。でも、社長があまりにも大雑把な人で、奥さんがその反動のように細かい人だから、どうなる事か、予測不能なのだ。
(何もないよね)
桂さんの引継ぎ書を見直してみても、特に問題はない。あるとすれば、あの社長。どうしても気になってしまう。事務員さんの噂話だと、愛人がいたのだとか。失礼ながら、それほど男前ではないし、もう還暦間近のはずだけど。
(奥さんが知らないところで、社長が何かしていると、こちらでも把握しようがない)
あまりに不安だったので、ちょうど出先から戻った桂さんに声をかけた。
「ああ、そう。そこがね」
桂さんはほんの少しだけ不安そうな顔をした。
「何かあるんですか?」
私はますます不安になる。桂さんは苦笑いをして、
「社長の噂は聞いている?」
「ええ」
「それなら話すわね」
桂さんは言いにくそうだったが、調査立会いの参考にと話してくれた。
「あの社長、以前、愛人にマンションを借りて、その家賃を会社の経費で落としていたの」
「ええ?」
何て人だ。発覚したら、税金だけではすまない大惨事だ。
「最初は事務員さんが奥さんに内緒で振込みをしていたようなのだけど、奥さんに知られたのね」
それはそうだ。経理全般を取り仕切っている奥さんにそんな隠し事が通る訳がない。
「それで、その事務員さんはクビになって、社長は小遣い制になったわ」
「はあ」
私は驚愕した。それだけでクビ? まあ、奥さんにしてみれば、その事務員さんは浮気の片棒を担いだ訳だから、そのくらいは仕方ないのかな?
「それでも社長はその愛人と関係が切れなくて、今度は請求書を二重切りして、差額を愛人の生活費に当てていたの」
うはあ。呆れるな。何だかあの会社に行くのが怖くなって来た。
「当然、そんな子供騙しが奥さんに通るはずもなくて、とうとう社長は離婚届を突きつけられたの」
「り、離婚届!?」
私は思わず叫んだ。桂さんは苦笑いをして、
「もちろん奥さんの脅しよ。社長は真っ青になって土下座したらしいわ。あの会社は奥さんでもっているようなものだから」
「そうですね」
私も思わず苦笑いする。
「それ以降、社長は愛人を作らず、真面目に働いているはず、なんだけど」
桂さんの言い方は、含みを持たせるものだった。
「あの」
私はその先を促すように桂さんを見た。桂さんは私の顔を見て、
「そこから先は、藤村さんの領分よ。私が知っているのはそこまで」
「あ、はい」
私はドキンとした。確かに愛人はいないようだ。でも、あの社長は……。不安だ。
「ただ、あの社長が、果たしていつまで大人しくしていられるかなのよ。私が心配なのは、そこだけ」
「私もです」
また溜息が出る。
「とにかく、こちらとしては、社長のプライベートまで管理する必要もないし、そこまで頼まれているわけでもないのだから、それほど気にしなくていいと思うけど」
桂さんは優しい笑顔で言ってくれた。
「でも、会社のお金を流用している可能性があるから、それだけはよく調べてね」
「はい」
私は桂さんのアドバイスで精神的にかなり楽になった。
桂さんはまた外出した。私は税務署に電話。
「調査の予定ですが、月曜と火曜でお願いします」
「わかりました。では再来週の月火にお会いしましょう」
「よろしくお願いします」
私は受話器を置き、棚から箕輪工業の資料を取り出す。帳簿上はまさに完璧だ。さすが奥さん。そして桂さん。
(でも不安)
私の中の不安の渦は、まだ収まらない。社長と直接、奥さんを交えずに話をしたい。でもなあ。
(あの奥さん、もの凄いヤキモチ焼きなのよね)
私と社長が二人で会ったなんて知ったら、愛人だと思われそうだ。
(事務所に来てもらおう。それしかない)
私は箕輪工業に連絡した。
「日程は奥さんのご提案通りになりました」
「良かった。税務署は意地悪だから、ダメって言われると思ってたわ」
この奥さん、本当に税務署が嫌いなんだな。
「それで、社長はお帰りですか?」
「まだよ。何か用?」
「ちょっとお話があるのですが」
「私じゃダメ?」
それを言われると非常に困る。「ダメです」とは絶対言えないし。
「いえ、そういう訳ではないのですが。直接社長にお尋ねしたい事がありまして」
「あら、そうなの。また、女?」
奥さん、鋭い。
「いえ、そうではありません。現場の事です」
誤魔化せたかな? 電話の向こうの奥さんの表情が知りたい。
「ふーん。わかりました、戻ったら電話させるね。藤村さん、何時までいるの?」
「七時頃まではいます」
「まあ、随分頑張るのね」
「仕事が遅いので」
私は嘘を吐いた。本当は早く帰れるのだが、何としても社長と直接話したかったのだ。
そして午後六時四十五分。もう事務所には誰もいない。所長は出張で留守なので、完全に私一人だ。
「まだかなあ」
私は時計を睨んで、ペンをクルクル指で回した。
ベルが鳴った。
「お電話ありがとうございます、近藤税理士事務所です」
「おお、蘭子ちゃん、ホントにいたのか。ビックリしたなあ。おっと、箕輪です」
社長だ。良かった、電話が来て。来なければどうしようかと思った。
「女房がさ、もう帰ったって言い張るんだけど、それでも電話しないとまずいだろうってかけたんだよ」
「ありがとうございます」
「で、用件は?」
社長は軽く訊いて来たが、私は気が気ではない。
「一度、事務所においで願えませんか?」
「どうして?」
この人、惚けているのか、天然なのかわからない。
「社長と二人でお話したいんです」
誤解されそうだが、この人にはこういう直接的な言い方でないと伝わらないと思った。
「ふーん、わかったよ。明日でもいいかな?」
「はい。何時頃がいいですか?」
社長は一瞬沈黙し、
「十一時頃かな。それくらいに行くよ」
「あの、それでですね……」
私が慌てて付け足そうとすると、
「わかってるよ。俺一人で行くから。それじゃ」
私はホッとして、
「はい。遅くに申し訳ありません」
「とんでもない。こちらこそ、蘭子ちゃんのような若い女の子を待たせて、申し訳なかったね」
私は吹き出しそうになって電話を切った。
(取り敢えず、これで不安は解消できそうね)
私はバッグを掴み,消灯すると、事務所を出た。
そして翌日。
私は雑用を片付けて、自分の席で箕輪社長が来るのを待った。
「
社長がこっそり覗くような仕草で入口のドアを半分開いた。
「あ、いらっしゃいませ。どうぞ、おかけ下さい」
私はすぐに立ち上がり、ソファを勧める。宮野さんがそれに応じて給湯室に向かった。
「いやあ、何かな、話って? 怒られるの?」
社長はニコニコしながら言う。そう言えば、桂さんはいつも社長に厳しかったらしく、そのせいで私は社長に凄く歓迎された。余程桂さんが怖かったのだろう。でも「蘭子ちゃん」と呼ぶのはやめて欲しい。只でさえ誤解されそうな性格なのだから。
「違いますよ。税務署の調査の事です」
宮野さんが絶妙なタイミングでお茶を出す。お互い一口お茶を飲む。
「ああ、そっちか。それは全部女房と蘭子ちゃんに任せてあるからさ」
社長は笑いながら応じた。この人はもう!
「そうではありません。ここでは何ですから、奥の会議室でお話しましょう」
「はいはい」
社長は宮野さんに会釈して、私の後に続いた。
「どうぞ」
私は会議室のドアを閉じ、社長に椅子を勧める。
「なるほど、極秘な話か」
社長はまだニコニコしている。私は社長の向かいに座り、
「何か隠している事はありませんか?」
と単刀直入に尋ねた。社長はそれでも笑顔のままで、
「いや、別にないよ」
「本当ですか? 調査を甘く見ない方がいいですよ。税務署はプロ集団なのですから」
「何だよ、怖いな。どういう事だ?」
さすがに驚いたのか、社長はようやく真顔になった。
「以前も奥さんに隠し事をして、それが全部出て来てしまって、税理士を替えたのですよね?」
私は遠回しに言うのをやめ、ストレートに言った。社長はタバコを取り出し、
「そういう事か。女房に頼まれたの?」
「頼まれたのなら、こちらに来ていただいたりしません」
私は素早く灰皿を出した。
「そうかあ。なるほどお。心配してくれてる訳ね?」
「率直に言えば、そういう事です」
やっと理解してもらえた。社長はタバコに火を点けながら、
「何もないよ。女房に探られて困る事なんてね」
「そうですか」
私は詰めが甘かった。確かに社長は嘘を吐いてはいなかったが、隠し事はしていたのだ。私達税理士事務所の人間に対しては。
そして時は流れて調査当日。
所長か桂さんに同席して欲しかったのだが、どちらも都合がつかず、私一人での立会いとなった。
週末に三年分の帳簿類のチェックはした。そちらは何も心配は要らない。完璧に近いはずだ。
「……」
思わず見てしまう、お気楽な社長の顔。本当にこの人は、何も隠し事がないのだろうか?
やがて税務署の早浪さんが来社した。この人には前回痛い目に遭っているので、本当に怖い。
午前中は型通りの身上調査。社長と奥さんは別段緊張する様子もなく、私に救いを求める事もなく、受け答えした。
お昼になり、早浪さんが外へ出た。
「藤村さん、どう、大丈夫そう?」
奥さんがすぐに尋ねて来た。社長はタバコを燻らせていて、何も訊く気はないようだ。
「帳簿類は問題ありません」
「そうね」
奥さんと私は、同時に社長を見てしまった。
「何だよ、二人して。俺が何か悪い事でもしたみたいに」
「悪い事しかしてないでしょ、あんたは」
奥さんの強烈な皮肉に、社長は頭を掻き、
「それを言われると何も言えないんだけどさあ。まあ、なるようになるさ。心配するなって」
この神経の太さは、本当に分けて欲しいと思う。
そして午後。早浪さんが帳簿類をチェックする。固唾を呑んで見守る奥さんと私。社長は爪を磨いている。ああ、頭痛がしそう。
「素晴らしいですね。まさしくお手本のような帳簿です」
早浪さんが笑顔で言った。私は思わず奥さんと顔を見合わせて微笑む。
「ですが、一つ、漏れがありますね」
「え?」
漏れ? 私はまた奥さんと顔を見合わせる。社長はそれでも気にしていない。
「前年度に、従業員さんが作業中に怪我をされましたよね?」
「はい。それが何か?」
訝しそうに尋ね返す奥さん。私にも何の事かわからない。ところがその言葉を聞き、突然社長がソワソワし始めた。何? 何かあるの?
「会社名義で、その従業員さんの生命保険に加入されていますよね?」
「いえ、生命保険は各自に任せておりますが」
奥さんはますます不思議そうな顔をする。私はハッとした。
(まさか!?)
思わず社長を睨んでしまう。社長も私の視線を感じたのか、俯いてしまった。
「ここにその契約書の写しがあります。代表印と、社長の署名で契約されていますよ」
奥さんが真っ赤な顔で社長を睨んだ。今にも掴みかかりそうだ。社長はソッポを向いてしまった。
「この保険料の支払と受け取った保険金が、帳簿に記載されていません」
早浪さん、だから怖い。この人はこの前も隠し玉を持っていた。
「差額はそれほど大きな金額ではありませんが、箕輪工業さんは前期は黒字で、税金を納めていただいておりますので、納税額が変わってしまいますね」
「……」
爆発寸前の奥さんは、社長を睨んだままだ。私も本当にやるせなかった。
「社長、保険というものは全て足跡が残るのです。奥さんに内緒のお金を作るつもりだったのでしょうが、無理なんですよ、システム上」
早浪さんは、哀れむような顔で言い添えた。
「調査は本日だけにします。修正等の話は、近藤先生にご連絡しますので」
そして早浪さんは帰った。私はしばらく何も考えられないくらいショックだった。
「藤村さん」
奥さんが声をかけて来た。
「ごめんなさいね、ウチのボンクラがとんでもない事をして」
「いえ、その……」
奥さんは社長を睨みつけ、
「後はこのボンクラと話します。今日はお疲れ様でした」
「は、はい」
奥さんは一刻も早く社長を締め上げたいのだろう。私は言われるがままに箕輪工業を出た。
「そんな事があったの」
事務所に戻ると、ちょうど桂さんがいたので、
「呆れたわね、社長には」
「ええ」
私は本当に落ち込んだ。人を信じて裏切られるのがこれほど身に堪えるものだとは思わなかった。
そして、それに追い討ちをかけるような事が待っていた。
翌日、事務所に着くと、宮野さんが、
「藤村さん、箕輪工業さんからお電話です」
と深刻な表情で告げた。何だろう? 宮野さんが落ち込んでいるようだ。
「お電話代わりました、藤村です」
電話の相手は社長だった。
「ああ、藤村さん? 昨日はがっかりしたよ」
「え?」
がっかり? それはこっちのセリフでしょ?
「もう少し役に立つ税理士だと思ったけどね。全然ダメじゃないか。あんな事言われて、何も言い返せないでさ」
「……」
この人は何を言っているのだろう? 私は訳がわからなかった。
「もう、契約は解除します。あんたを信じた俺がバカだったよ」
「え、あの……」
私は何か言わなくてはいけないと思ったが、畳み掛けるような社長の暴言に口が硬直してしまった。
「もう連絡しなくていいから。ああ、所長にも言っといて。がっかりしたってね」
ガシャーン。鼓膜が破れそうなくらい大きな音がして、通話が切れた。
「藤村さん?」
宮野さんが落ち込んで見えたのは、社長のせいだろう。関係者である私が、これほど衝撃を受けるのだから、事情を知らずに社長に怒鳴られれば、相当身に堪えるはずだ。
「ああ、大丈夫。それより、宮野さんも何か言われたの?」
「はい。藤村さんがまだ出勤していないって言ったら、『嘘吐いてるんじゃないだろうな? 本当にいないのか?』って言われました」
宮野さんは思い出してしまったのか、涙ぐんでいる。
「ごめんね、宮野さん、私のせいで嫌な思いさせて」
「いえ、いいんです。大丈夫ですから」
宮野さんは作り笑いをして、自分の席に戻った。
打ちのめされた。あんな言われ方をされると、もうどうしていいかわからない。
何が悪かったのだろう? 反省してみようにも、何も反省材料が思い浮かばない。
やがて所長が来た。私は所長に経緯を説明し、謝った。
「とんだ災難だったね、二人共」
近藤所長は、私と宮野さんを慰めてくれた。
「箕輪社長には私が直接会いに行って話をするよ。契約解除は仕方ないが、このままで終わりにする訳にはいかないからね」
「申し訳ありませんでした」
私はもう一度所長に頭を下げた。
「まあ、そう簡単に割り切れないだろうが、事故に遭ったと思って切り替えて、藤村さん」
「はい」
所長はそう言ってくれたが、私は簡単に切り替えられそうになかった。
私の中の別の私が囁く。
「貴女は関与先に優し過ぎる。そして税務署に無力過ぎる。もっと爪を研ぎなさいよ。もっと攻撃的になりなさいよ」
私は考え方を変える事にした。生き方を変える事にした。
関与先は、傲慢なもの。税務署は敵。
そう考えなければ、足元を掬われる。今回の件も、私の甘さが原因。
私は強くなる。関与先を守るため、自分自身を守るため。
私は生まれ変わる。私は誰にも負けない!
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