税務その四
私は藤村蘭子。近藤税理士事務所に勤務して二年目の会計人だ。
一年目はいろいろあった。挫けそうになったり、人間不信に陥ったりもした。でも立ち止まってはいられない。先輩職員である桂ゆかりさんが、ご主人の仕事の関係で渡米することになり、桂さんの関与先を残っている職員で手分けして担当する事になったのだ。
その中でも、桂さんほどの方が、毎回手こずっていた性悪な関与先企業がある。それが私に振り分けられた。以前の私だったら尻込みして、所長に、
「無理です」
と言ったかも知れない。でも今は違う。むしろそんな関与先は大歓迎だ。矯正し甲斐があるのだ。私は関与先企業の皆さんに、
「ミス会計」
と呼ばれ、恐れられるほどになっていた。望むところである。
その関与先の名称は、「
「大丈夫、藤村さん?」
桂さんが心配してくれた。でも私は、
「大丈夫です。むしろ、やる気が湧きます」
と笑顔で応じた。桂さんも微笑んで、
「そう。なら、お願いね」
「はい」
私は何としても勅使河原工業を「優良企業」にしようと思った。
そして訪問日当日。
私は勅使河原工業のドアの前に立っていた。ドアフォンを押すと、
「どうぞ、開いております」
と奥さんの声が聞こえた。
「失礼します」
私はドアを開き、正面の机に陣取っている奥さんに頭を下げた。
「お世話になっております、近藤税理士事務所の藤村です」
「お待ちしておりました。時間に正確ですね」
オットリとした話し方の奥さんは、見た目は品のいい人だ。ただ、性格は超が付くほどの呑気。言い方を変えれば、ズボラである。年は三十代後半。中学生の男の子と、小学生の女の子がいる。
「お電話でお願いしてありました、現金出納帳の記帳はおすみですか?」
奥さんは私にソファを右手で示しながら、給湯室に歩いて行く。
「それがその、下の子が熱を出してしまって、それから上の子の授業参観があったものですから……」
私はソファに腰を降ろしながら、小さく溜息を吐く。この人は、桂さんが訪問していた時から、こういう言い訳をずっとして来た人なのだ。結局最後は出納帳を下書きし、奥さんに清書させた。それが決算時の「恒例行事」だった。現金出納帳は私達税理士事務所の者が書いてはいけないのである。
私は何とかその「行事」に終止符を打ちたいと思い、事前に奥さんにお願いしておいた。しかし、彼女は案の定していなかった。最初からするつもりがなかったのだ。
「わかりました。ではまた参ります。いつがご都合がよろしいですか?」
私は座ったばかりのソファから立ち上がり、鞄から手帳を出した。
「え、あの、お帰りなんですか?」
奥さんは慌てて私に駆け寄る。私はそんな奥さんの慌てぶりを無視して、
「私は来週ならいつでも空いておりますので、来週の水曜日は如何ですか?」
「え、あの、今日は何も見ていただけないんですか?」
呑気な奥さんがとても慌てている。でも私は受け付けない。
「水曜日はご都合悪いですか?」
奥さんは今にも泣き出しそうな顔で私を見ている。何とか思い止まってもらおうといろいろ考えているようだ。
「お願いします、帰らないで下さい。そんな事をされたら、社長に叱られます」
今度は泣き落としか。でもこれも奥さんの常套手段なのだ。桂さんも最初は騙されたそうだから。
「では、お願いした出納帳の記帳ができていない事は、社長は叱らないのですか?」
私はどうにも我慢ができなくなってそう言った。
「そ、それは……」
奥さんは俯いてしまい、答えてくれない。
「私は約束を守って下さらない方のために時間を割く事はできません。約束が守られたら、また来ます」
「待って下さい、藤村さん」
奥さんが私の左手を掴んだ。相当焦っているようだ。結構力が強い。
「水曜日にまた来ますので」
私は奥さんを見て、跳ねつけるように言った。奥さんは私の左手から手を放した。
「申し訳ありません。お約束が果たせなかった事はお詫びします。でも私共も、顧問料をお支払しているのですから、お仕事はしていただきたいのですが」
とうとう「顧問料」を持ち出した。我が事務所は、月々口座振替で顧問料をいただいている。奥さんはその事を楯に主張しているのだ。
「当事務所は、帳面の代書屋ではありません。奥さんは出納帳を随分と軽く見ておられるようですが、帳面をしっかりつけられない企業は、決して長続きしませんよ」
金を払っているのだから仕事をしろという関与先には、ガツンと言う。それが私の信条だ。
「それは……」
奥さんは遂に万策尽きたのか、ソファに座ってしまった。
「私は自分が楽をしようと思ってこんな事を言っているのではありません。勅使河原工業さんのためなのですよ。記帳しないで適当に経理をしていたら、会社は大変な事になるかも知れないのです」
私は項垂れている奥さんの向かいに座った。
「人間で言えば、経営は脳です。営業は手足です。そして経理は循環器です。どれが欠けても、会社は立ち行かなくなるのです。もう少し、経理という仕事に真剣に取り組んでもらえませんか、奥さん?」
「はい……」
項垂れたまま、奥さんは答えた。本当にわかってもらえたのだろうか? まだ不安だ。
「一つ提案があります。これをご覧下さい」
私は切り札を出した。それは、コンピュータ会計のパンフレットだった。
「今は、手で記帳をする企業は減っています。コンピュータで管理すれば、面倒な計算も必要なくなりますし、計算ミスで現金の有り高と帳簿の金額が合わないという事がなくなります」
「はい」
奥さんはようやく顔を上げた。楽ができそうだと思わせれば、必ず反応する。私はこの機会を待っていたのだ。
「このソフトを導入すれば、現金出納長も預金出納帳も印刷できるだけでなく、請求業務も在庫管理も全てできます。計算機を片手に頭を悩ませていた事から解放されるのですよ」
私は笑顔で説明した。奥さんが食いついて来ているのがわかる。
「滞りがちだった売掛金の回収も、コンピュータで管理すれば、どの取引先にいくら残高が残っているのか、一目瞭然になります。会社全体の動きが速くなるのです」
奥さんには「記帳の必要がない」という部分が一番魅力のようだ。目がキラキラしている気がする。
「この資料は差し上げます。社長が帰宅されましたら、ご相談下さい」
私は再びソファから立ち上がった。
「あの、今日は?」
奥さんも慌てて立ち上がる。
「また初めからやり直しますか?」
私は呆れて言った。奥さんはビクッとした顔で、
「あ、いえ、そんなつもりは……。わかりました、では来週の水曜日、お待ちしております」
と頭を下げた。私は心の中でガッツポーズをし、
「はい。今度こそ、きちんと記帳して下さいね」
「え? コンピュータでできるのではないのですか?」
奥さんの呑気さは、私の想像を絶していた。
私は事務所に帰った。いたのは受付事務の宮野さんだけで、あとの人達は全員直帰のようだ。
「お疲れ様です。どうでした、勅使河原さんは?」
宮野さんも、桂さんがぼやいていたのを聞いているから、気になったようだ。
「何とも言えないわね。取り敢えず、コンピュータの導入を勧めて来たの」
「ああ、そうなんですか。それなら、うまく行きそうですね」
宮野さんは、私にコーヒーを出しながら言った。
「ありがと」
私は熱いコーヒーを一口飲んだ。
しばらく宮野さんと話していると、直帰のはずの近藤所長が帰って来た。
「お疲れ様です」
私達は声を揃えて言った。所長はニコッとして、
「おお、若い子に言われると、嬉しいもんだねえ」
「ああ、奥さんに言いつけちゃいますよ」
私が言うと、所長は笑って、
「じゃ、口止め料として、夕ご飯をご馳走しようかな」
「え、そんなつもりでは……」
私は宮野さんと顔を見合わせて言った。すると所長は、
「たまにはいいだろ。あれ、これってセクハラ? それともパワハラ?」
「どっちでもないですよ」
私と宮野さんは、近藤所長のご好意に甘えて、夕食をご馳走になった。
「なるほど。それは大活躍だったね、藤村さん」
私は食事がすむと、勅使河原工業でのやり取りを所長に報告した。
「確かにあの奥さんが相手だと、一年が十五ヶ月はないと無理だからなあ」
勅使河原工業は、近藤税理士事務所開業当時からの関与先なので、所長も奥さんとは面識がある。だから良く知っているのだ。
「いや、大金星だよ、藤村さん。天晴れだ」
「ありがとうございます」
所長はお酒が入ったので、少々テンションが高い。
「でも、これからだよ、正念場は」
「はい。奥さんも、パソコンは初めてのようですから」
私も自分で勧めた以上投げ出す訳にはいかない。とにかく、あの奥さんをうまく「操縦」して、コンピュータを覚えてもらわないとね。
戦いは始まったばかりだ。
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