税務その二

 私は藤村蘭子。税理士事務所の職員だ。そして、入所してもうすぐ一年。


 今日はとてもドキドキしている。私の担当する建設会社の税務調査の日なのだ。調査立会いは初めてではないが、今日は私が一人で立ち会うのだ。思った以上に緊張している。今までは、近藤所長や先輩の桂さんがいたので、そんな事はなかったのに。自分でも情けなくなるくらい、精神的に弱い事を思い知らされた。

 調査を受けるのは、梶部かじぶ建設株式会社。法人成りして二十年以上の、ウチの事務所でも一番古い部類に入る顧客だ。社長は還暦目前の人で、二代目の長男が専務になって、事業の大半を動かしている。奥さんもすでにお嫁さんに帳簿類の引継ぎをし始めていて、そろそろ代替わりをするつもりのようだ。

(こんな長いお付き合いの会社の調査を私一人で立会いなんて、荷が重過ぎるわ) 

 私は重圧で胃に穴が開きそうだった。

「藤村さん、緊張しているのかね?」

 社長が余裕の笑みで尋ねる。私は引きつった顔で、

「ええ、まあ。一人で立ち会うのは、初めてなので」

「そうかあ。私は、税務署の調査なんて何度も受けてるから、全然だな」

 社長は豪快に笑って言った。確かに梶部建設は、今までに五回ほど調査に入られている。そのうち三回は申告是認、要するに何も出なかったのだが、二回は修正申告をしている。

(その二回の修正申告が、前回と前々回なのよね……)

 その事も胃が痛くなる原因の一つだ。どちらも、専務が事業に口出しするようになってからなのだ。社長は、売上を誤魔化したり、経費を水増ししたりとかは決してしない人だが、専務は税金を極力払いたくない人なのだ。時々脱税紛いの相談をされて、困った事がある。

(今回も何かあるのかな?)

 調査の連絡が税務署から入ってから、私は三年分の帳簿類を点検した。元々は先輩の桂さんが担当していた会社なので、何も心配はいらないのだが、多くの人の目が通った方が良い、という所長の方針で、必ず総点検をするのだ。何となく桂さんに申し訳なかったが、仕方がない。

「気にしないで、どんどん私のミスを見つけてね」

 桂さんにそんな事を言われたが、見つけられる訳がない。そう思った。

「見えたみたいですよ」

 表にいたお嫁さんの咲子さんが戻って来て言った。奥さんが立ち上がる。専務も奥から出て来た。

「失礼します」

 長身のスーツ姿の男性が現れた。私はすぐに名刺を用意し、近づいた。

「H税務署法人課税部門の早浪と申します」

 早浪さんが身分証を開いて言った。

「社長の梶部です」

「近藤税理士事務所の藤村です」

 早浪さんは社長と私の名刺をマジマジと見て、

「よろしくお願いします」

と応えた。

「どうぞおかけ下さい」

 奥さんがソファを指し示した。

「ありがとうございます」

 早浪さんは咲子さんと専務に気づき、

「息子さんですか?」

「はい。専務の義一です。どうぞよろしく」

「こちらが奥様?」

「はい、咲子です、よろしくお願いします」

 早浪さんは専務からも名刺を受け取り、ようやくソファに座った。その向かいに社長と専務が座り、私は脇の一人がけのソファに座った。奥さんと咲子さんは、事務机の椅子に腰を降ろす。

「こちらには何度かお邪魔しているようですね」

 早浪さんはにこやかな顔で切り出した。

「そうですね。今のところ、三勝二敗ですか」

 専務が余計な事を言う。早浪さんはそれには触れず、

「まずは、お二人にお尋ねしたいのですが」

と、社長と専務の身上調査を始めた。これは型通りなので、私も緊張を解いた。

(この人、今まで会った事がない。どこかから移動して来たのだろうか?)

 税務署は、他の官庁と同じく職員の移動がある。通例三年毎くらいだが、必ず三年という訳でもない。

 午前中は雑談も混じった身上調査で終了し、早浪さんはお昼に出た。

「大丈夫そうだね」

 社長が言った。専務は私をチラッと見て、

「藤村さんがついているから心配ないさ、社長」

と皮肉とも取れる事を言う。何か嫌い、この人。

「そうだな。蘭子ちゃんは我が社の守り神だからな」

 社長まで悪乗りしてそんな事を言い出す。

「やめて下さい、守り神だなんて」

「あはは、セクハラかな、今のは?」

 社長はおどけて奥さんを見た。

「そうですよ、全く。藤村さんは優しいから訴えられないのよ」

 奥さんがたしなめる。私は苦笑いをするしかない。

「どうぞ」

 咲子さんが店屋物のおそばを持って来た。

「ありがとうございます」

 昼食を兼ねた作戦会議だ。

「早浪さんは初めて見る人です。どんなタイプなのかわかりませんが、とにかく訊かれた事以上は話さないで下さい。迷ったら私を見て下さいね」

 私は社長に話すフリをして、実は専務に言っていた。この人、本当に一言多いから。

「わかったよ、蘭子ちゃん」

 社長はニコニコして応じているが、専務はムスッとしている。何か言いたそうだ。


 そして午後。遂に帳簿類の調査が始まった。心臓の鼓動が早くなる。実質私が関与したのは数ヶ月だが、三年分を見直したので、やはり全般的に責任を感じてしまう。

 早浪さんは黙々と帳簿を確認し、時々メモを取るだけで、こちらには何も尋ねて来ない。何か怖い。とても不気味だ。何を考えているのか、読めない。

 時間はどんどん経過したが、早浪さんは何も言わない。とうとう三年分を見終わったようだ。

{もしかして、取越苦労?)

 私は一瞬そう思った。しかし、甘かったのだ。

「これで全部ですか?」

 早浪さんは社長を見て尋ねた。え? どういう事?

「全部ですが。何かご不審な点でもありますか?」

 社長も訝しそうに早浪さんを見た。私も彼を注視した。あれ?

(専務がソワソワしてる……。まさか!?)

 私の嫌な予感が的中してしまった。

「それでは、この工事の原価計算は、どこにありますか?」

 早浪さんは何かの明細書のコピーをテーブルの上に出した。原価計算とは、売上に対する材料費や外注費、諸経費を集計したものだ。工事が年度内に終わらない場合、たな卸しと同様の扱いで、資産計上する。要するに経費から除外するのだ。

「む?」

 社長は老眼鏡を出してそれを見た。専務は何故か見ようとしない。

「前年度の下請けさんの請求書の写しです。この工事が、梶部建設さんの原価計算表のどこにも載っていないのですよ」

 社長が専務を睨んだ。専務は汗まみれになっている。咲子さんは夫が仕出かした事に蒼ざめている。

「どういう事だ、義一!?」

 社長の怒声が飛んだ。早浪さんはそれを制するように、

「社長、専務を追及するのは後にして下さい。まずはこちらです」

「……」

 社長は怒りを堪え切れていないが、早浪さんの言葉で仕方なく引き下がった。

「下請けさんに先日調査に入ったのです。この請求書だけ、別に仕分けされていたので、いろいろお尋ねしましたら、妙な事がわかりました。それで、本日こちらに来たのです」

 早浪さんが何も尋ねなかったのは、もうすでにわかっていたからなのだ。売上が計上されていない事を確かめるために帳簿を見ていただけなのだ。

「これは計上漏れではなく、明らかに所得の隠匿ですよ」

 早浪さんの言葉は穏やかだが、言っている事は相当厳しい事だ。

「ここまできちんと経理をされていて、原価計算もお見事なのに、何故こんな事をされたのか、理解に苦しみます」

 早浪さんは専務を見ている。しかし、専務は早浪さんを見られない。

「場合によっては、専務の所得税も修正して頂く事になりますね」

 売上金は完全に除外されているという事か? つまり、原価を支払った残りは、専務が個人的に消費したという事だ。これでは社長も奥さんも気づきようがない。

「……」

 専務は震えていた。彼は早浪さんが怖いのではない。隣の父親の怒りが肌を通して伝わって来ているのだ。私にさえ、社長の怒りは感じられるのだから。


 早浪さんは、社長と奥さんをなだめ、くれぐれも専務を追い詰めないように助言し、その上で他は全く問題のない事を言い添えると、帰って行った。社長はその言葉に従ったのか、私が同席しているからなのかわからないが、専務には何も尋ねなかった。

「お前はしばらく休養していろ」

 それだけ言うと、社長は専務を事務所から追い出した。咲子さんは蒼ざめたままで夫の後を追った。

「すまなかったね、藤村さん」

 社長に苗字で呼ばれるのは久しぶりだ。それくらい社長は打ちのめされていたのだ。

「バカ息子がつまらん欲を出したせいで、近藤先生にまでご迷惑をかけることになった。先生には私が直接お詫びに行くと伝えて下さい」

「そ、そんな、社長、そこまでされなくても大丈夫ですよ。近藤には私から報告しますから」

「そうかい?」

 社長はそう言って苦笑いした。

「申し訳なかった、藤村さん。この通りだ。許して下さい」

 社長が土下座をしたので、私は仰天した。

「や、やめて下さい、社長。私は別に何も……」

 慌てて私も床に膝を着き、社長を見た。

「悔しくてねえ。あのバカが、どうしてこんなみみっちい男になっちまったのか……」

 涙ぐんでいる社長の目を見て、私も辛くなった。

(私にも責任がある。出面帳でづらちょうをもっとよく見ていれば、気づけたはずなのに)

 出面帳とは工事毎の従業員の出勤簿のようなものだ。私は出面帳を見たが、専務がそこまで別にしていたのか、出面にも例の工事は載っていなかった。もしかして、従業員の給与も除外してあるのか? 呆れてしまった。確かに専務に後を継がせるのは考えた方がいいと思った。


 私は社長と奥さんを慰め、元気づけ、事務所に戻り、報告した。

「そうか。それはまた、貴重な体験をしたね」

 近藤所長は複雑な表情でそう言った。

「はい。社長の気持ちが痛いほどわかって、本当に辛かったです」

「そうか」

 所長は頷きながら、

「一度私が一緒に行こうか、藤村さん」

「は、はい。ありがとうございます」

 このままでは、梶部建設は内部から崩壊してしまう。それを止められるのは、近藤所長しかいない。あの会社は優良企業なのだ。何としても、専務の考えを正さなければならない。でなければ、社長が気の毒過ぎる。


 今回の件で、私は改めて自分の職務の重大さに気づいた。もっと精進しなければ。そう心に誓った。

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