税理士事務所員藤村蘭子の会計日記

神村律子

税務その一

 私は藤村蘭子。近藤こんどうちから税理士事務所に入所して一年目の新人だ。

 ようやく先輩について回る研修期間が終わり、一人で顧問先の法人に行く時が来た。自信がない。私一人で会社の経営者や奥さんを指導できるのだろうか? その不安で一杯だった。

「みんなそうだよ。最初から全部できる人なんていない。一歩ずつ進めばいい」

 近藤所長は、その白くなった髪を掻きながら、そう言ってくれた。

「はい」

 私は笑顔で応じたが、内心は緊張しまくりだった。


 今回訪問するのは、個人事業主から法人成りした内装業の会社。個人事業の時に先輩の桂ゆかりさんと何度か訪問しているので、社長と奥さんがどんな人なのかはよく知っている。でも、それは桂さんがいた時の二人の顔だったと思い知ったのが、その日だった。

「おはようございます」

 最初の記帳指導なので、午前中からの予定にしていた。事務所に入ると、奥さんがパソコンに向かっていた。

「あら、早いわね、蘭子ちゃん。ウチのは仕事で出ちゃったわよ」

 奥さんは私に目も向けず、そう言い放った。

「え? でも今日は初日なので、必ずいらして下さいってお伝えしましたよね?」

「急な仕事が入ったんだから、仕方ないじゃない。それとも、帳面をつける方がペンキ塗るより優先する事なの?」

 奥さんはキッと私を睨んで尋ねて来る。私はドキッとしたが、

「いえ、そういう事ではありません」

「じゃあどういう事?」

 桂さんと来ていた時は、凄く優しい人に見えたのに……。私は見下されているという事か。

「それよりさ、どうして顧問料をアップまでして会社にしたのに、桂さんじゃなくて蘭子ちゃんなのよ? ウチってさ、先生のところに軽く見られてるって事かしら?」

 私を目の前にして、そこまで言うのか、と悲しくなった。確かに税理士事務所は、顧客の一軒単価を上げるために法人化を勧める場合もある。しかし、この会社を法人化したのはそういう理由からではない。社長の長男が後継者として仕事を手伝っているため、法人化した方が税法上有利だったからなのだ。その事を桂さんときっちり説明したはずである。そして私が引き継ぐ事も、桂さんと来た時は喜んでいたのに。落ち込みそうだ。

「いえ、決してそのような事は……」

 私はそれでも何とか説明しようと口を開いた。

「蘭子ちゃんがここに一人で来ているって事が、何よりの証拠じゃないの!」

 奥さんは立ち上がって私に詰め寄った。そういう事は、桂さんと来た時に言って欲しかった。


 結局奥さんは完全に怒ってしまい、私は一度引き返すしかなくなってしまった。

 重い足取りで、事務所があるビルに戻った。

「あら、藤村さん」

 間の悪い事に桂さんが出かけるところだった。ロビーでバッタリ会ってしまった。

「どうしたの、今日は神村塗装工業さんの記帳指導の日よね?」

「え、ええ……」

「何かあったの?」

 桂さんが水を向けてくれたので、私は事情を話した。

「そう。ちょっと話そうか」

「はい」

 私達はビルの隣にある喫茶店に入った。

 桂さんは既婚者で、まさに「クールビューティ」という言葉が似合う女性。私が入所した時からいろいろと面倒を見てもらっていて、目標の人だ。

「藤村さん、税理士事務所の一番の役目って何だと思う?」

 桂さんはその知的な眼差しで私を見る。一気に緊張感が高まってしまう。

「関与先企業の財務の健全化です」

 震える声で答えた。

「それもあるけどね」

 いけない。間違えたようだ。桂さんは小さく溜息を吐いた。

「私が悪いのね。忙しさにかまけて、貴女に大事な事を伝えていなかったわ」

「え?」

 桂さんは苦笑いをしてから、

「税理士事務所の一番の役目は、関与先企業の税に対する不安を解消してあげる事なのよ」

「あ……」

 私の頭の中に、そんな言葉は全く存在していなかった。

 正しい記帳、正しい申告、正しい納税。そればかりを考えていた。

「それだけを考えてお客様とお話しすれば、全てという訳にはいかないけど、大半の問題は解決できるはずよ」

「はい……」

 今日、奥さんの言い方にカチンと来てしまった私を思い出し、反省する。そして、社長がいない事を相手の事情も聞かずに、私の都合だけで非難めいた言い方で指摘してしまった事を反省する。奥さんが怒り出すのも無理はないのだ。納税者はわからない事だらけで不安なのだ。それなのに、ちょっと知識があるからと思って、私は無意識のうちに神村さんを見下していたのかも知れない。

「謝りに行きます」

 私は立ち上がった。桂さんは微笑んで、

「そうね。それがいいわ」

と言ってくれた。


 桂さんはそのまま関与先に出かけた。私は所長に報告をするため、一度事務所に戻った。

「おう、藤村さん、戻ったか」

 何故か所長が出迎えてくれた。

「あの、どうされたのですか?」

 普段は奥の所長室で関与先企業の資料に目を通している事が多いのに。

「さっき、神村塗装さんから電話があったんだ」

「え?」

 私はギクッとした。奥さんが怒りの余り、私の事を所長に言いつけたのだろうか?

「ま、取り敢えず座って、藤村さん」

「はい」

 事務所の入口のドアのすぐ脇にあるソファに腰を下ろす。

「奥さんが謝って来たんだよ」

「え?」

 意外な展開だ。所長は微笑んで、

「先生の所の女の子にいろいろ嫌味を言ってしまって申し訳なかった、とね」

「そ、そうですか」

 私はホッとした。

「社長が、藤村さんとの話は全部お前が聞いておけって言い置いて、さっさと出かけたらしいんだ。それでムカムカしていたところに、藤村さんが現れたんだってさ」

「ああ」

 何となく納得できた。

「もう一度来て下さいと言ってたよ。是非藤村さんにお世話になりたいってさ」

 私は嬉しくて泣きそうだった。

 それが、「やっていけるかな」から「やっていける」に変わった瞬間だった。


 後で神村塗装の奥さんに言われたのだが、私がもう一度訪問する前に桂さんからお詫びの電話があったそうだ。

「あの桂さんが太鼓判を押すんだからね」

 桂さんのおかげで、その後は何も滞りなく業務は進んでいる。元々奥さんは賢い人だから、新しいシステムにも順応し、すぐに会社の利益や毎月の推移がわかるのを喜んでいた。表計算ソフトや、文書作成ソフトもそつなくこなしている。本当に良かった。

「そうそう、藤村さん、一つ訊いていい?」

 奥さんが妙に嬉しそうに言う。

「何ですか?」

「彼氏いるの?」

「今は募集中です」 

 私は彼がいる時もそう答える事にしていた。

「じゃ、ウチの息子、どう?」

「え?」

 うわあ。一番困る質問。桂さんに訊いても教えてもらえないし……。

「私なんか、釣り合わないですよ、もっといい人がいますから」

「そう? そうかなあ」

 奥さんはなかなか諦めてくれない。どうしよう? いるって言った方が良かったかな?

「一回さ、お見合いってほど大袈裟なものじゃなくて、軽く食事でもさ」

「……」

 ダメだ。このままだと、最悪の場合結婚させられるかも……。

「ご、ごめんなさい、奥さん、ホントは付き合ってる人がいるので、その……」

「そう」

 凄く残念そうだ。嬉しいけど、個人的な事は勘弁して欲しい。

「でさ」

「え?」

 興味津々の目をしている。何だろう?

「彼氏、名前何て言うの?」

 奥さんはニコニコして核心に迫って来た。まずい。疑われている……。

「あ、尼寺あまでらつとむです」

 つい、印象が強い変わった苗字の同級生の名を出してしまった。

「ふーん」

 奥さんは疑いながらも、具体的な名前を私が瞬時に言ったので、それ以上その話をする事はなかった。


 この一件があったので、久しぶりに尼寺君に会った時、恥ずかしくて、つい意地悪しちゃった。


 ごめんね、尼寺君。

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