『灰色』(2007年01月10日)

矢口晃

第1話

 男はひどく酒に酔っていた。それは雲の多い春の暖かな晩だった。白いトレンチコートに身を包み、黒っぽい帽子を目深に被った様子は、どうやらその表情を左右にいる他の人々に悟られたくないらしい。男は立ち飲み屋の高いカウンターに右ひじをついて、始終俯きながら一人でもう何十分もの間酒の杯を傾けているのだった。決してうまそうに飲んでいるのではない。何かを忘れたいために、ただ酔うために飲んでいる、そんな風情である。

 七、八杯目のバーボンの水割りを半ばまで飲み終わると、男は徐に外套の隠しに右手を差し入れた。と、その時男の手の平に何かが触れたらしい。男はちょっと驚いたような顔つきをして、その後すぐに何事もなかったかのように、隠しの中から無造作に畳まれた紙幣を取り出した。バーテンダーにその紙幣の何枚かを渡すと、釣銭も受け取らないまま男は店の出口へ歩き始めた。男は酔っているのに違いないが、足取りは存外しっかりしていた。男はカウンターから七歩ばかりの距離にある出入り口に達すると、白い鐘のついているドアを外へ押し開けた。

 するとさっきまで曇りがちだった空からは、すでに蕭々と雨が降り始め、地面を濡らしているのだった。男は傘を持っていなかった。ためらうかと思われたが、しかし男は一瞬の躊躇もなく雨の降りしきる街路へ進み出たのだった。彼の後ろで再び閉まった店のドアがバタンと乾いた音を立てると、男は急に歩くのをやめ、静かに顔を、雨の降る上空へ向け出した。男の顔はたちまちに雨に濡れた。しかし男はそれをむしろ喜びでもするかのように、目を閉じたまま、いつまでも落ちてくる雨粒に打たれていた。道行く人々は、もちろん傘で心持視界を遮りながら、彼の方をなるべく見ないようにして足早に通り過ぎて行くのに違いなかった。男はそれでもしばらくは無心のまま、天然の水滴に心まで洗おうとしているらしかった。

 男はこの時、再び外套の隠しへ右の手を入れると、先ほど店の中で手に触れたものを取り出した。男の手の中に掴まれていたものは、一個の灰色の林檎だった。男はその林檎をしばらくの間はじっと見つめていたが、やがて思い切ったようにその丸い林檎に白い歯を当てた。男の齧ったところから、林檎の白い実が見えた。男は口の中で無心に林檎を咀嚼しながら、もう一度雨の降る上空へ顔を上げた。その時には男の両目からはもう二筋の涙が流れ始めているらしかった。

 男はこの日、たった一人の妹を失っていた。妹は二十一歳であった。生まれつき体の弱かった彼の妹は、幼少のころから何かといっては入院したり退院したりを繰り返していた。男にはそんな妹が気がかりでならなかった。男は妹を気遣いながら、彼女が入院をしている時にはいつでもその病床に彼女の必要なものを運んでやるのを常としていた。ある時は妹の着替えをもって行った。またある時には妹の毎月楽しみに待っている雑誌を持って行った。世話を焼けば焼くほど、男にとって妹はかけがえのない存在になって行ったのに違いなかった。また妹も兄の愛情に応えて、病床ではいつも気丈に笑顔を絶やさず、すぐに元気を回復してその期待に沿って見せるのだった。

 もちろん両親の一人娘を労わる気持ちも、彼らの息子が妹を思う気持ちに少しも比べるところはなかった。だからこそ両親は娘の治療費用を稼ぐための仕事に余計精を出した。入院中は週に一回の見舞いを怠ったことはなかったが、それ以外の世話は、彼らの息子に任せきっているのだった。

 しかしその妹を肺炎のためにとうとう失ったのは、この日の昼過ぎのことである。男は妹の容態が急変したという知らせを病院から受けると、取りもあえずまっすぐに病院に駆けつけた。病室に横たわる妹は顔面を蒼白にして、途切れそうな息を懸命に続けているのだった。それは今にも消えそうな命を、兄のために必死で持ちこたえようとしているようにも見えた。男は無我夢中で妹の手を握り締めた。しかし彼女には、それに応える力はすでに残されていないようだった。妹はうっすらと開いた目の奥から虚ろな瞳を兄に向けると、それでようやく安心したように、両親の駆けつけるのも待たずに力尽きてしまった。

 男の悲しみはここに記すべくもない。やりきれない気持ちを少しでも晴らすために、夕方近くから一人、深い酒に溺れていたのだった。酔わないではとてもいられなかった。泥酔してすこしでもこの悲しさを忘れたいと思っていた。しかし、もちろんいくら飲んでも寂しさはそれによっていよいよ濃くなるばかりなのに違いなかった。男は泣きじゃくりたい気持ちをどうにか押し隠しながら、いつしか飲み続けることさえ空虚に感じ出し、勘定をして店を出ようとしたのだった。そして隠しに入っている金を取ろうとした男の手に触れたもの、それは彼が妹の見舞いに行く時に必ず携えて行く、彼の妹が大好きだった大きな丸い林檎だった。男はこの林檎が自分の手に触れた時、眼前に妹の笑顔が蘇ったのを発見したのかもしれなかった。一瞬はっと息を飲んだような表情を見せると、何事もなかったように勘定を済ませ、いち早く外へ飛び出し、街路を濡らす雨の中に美しい涙を流していたのだった。


 私はこの一編のモノクロの映画を最後まで見終わると、脇の空席に置いてあった外套と帽子とを手早く身につけた。そしてこれから入ろうとする人と、外へ出ようとする人とで混雑する館内のロビーを擦り抜け、ガラス張りのドアを押して映画館の外へ出た。

 来る時には晴れていた春の空は、この時すっかり灰色の雲に覆われていた。

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『灰色』(2007年01月10日) 矢口晃 @yaguti

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