壱の戦 ≪ 空っぽの男 ~ 場外戦

 




■ 陽向ケ原高校の2年生徒

  京師きょうし わたる ── 続ける


□ 大柔術 ─ 巌桐流

  桐渓きりたに 更紗さらさ ── 現る





『油断したわい』


 左手の小指を包帯でグルグル巻きにし、五熊総學いつくまそうかくは清清しそうに笑った。


『いや、油断する暇もなかった。気づいた時にはすでにポッキリと折られておった』


 どこか懐かしそうな笑顔でもあった。久し振りの激痛を噛み締めている笑顔。


 いったい誰に折られたのか?──勇敢な加勢功太かせこうたが尋ねると、好好爺は一転、意地悪なまなざしで京師たちを見渡し、


『天才だよ』


 含みを持たせて言った。


『いつの間にやら背後に立ち、小さな掌に小指を捕り、呼吸する間もなく第2関節の先を横倒しにする──これを一瞬のうちに完成させたのは、加勢君、そして京師君とも同学年の女の子だったのだよ』


 滔滔とうとうと解説する達人に、互いの顔色を探って動揺を確認しあう男の子たち。彼の解説が真実ならば、伝説の武人を急襲した女の子は、年端もいかない小学6年生ということになるのである。


『なぜ彼女はそんなことをしたと思う?』


 やはり意地悪な問いに、誰もが動揺を広げるばかりで無言を貫く。そんな、痛痛しい静寂を見渡して五熊総學は、


『伝説の武人とやらを試してみたのだそうだ』


 で、その後の物言いが痛快でな──と楽しそうに言うのである。


『闘争の邪魔にしかならない女子供に懐中ふところを許すとは、もう武道家として終わったと思ったほうがいいですよ?──だとよ』


 腰に手を当て、茜色の天井を仰いで哄笑。


『まったく。言い得て妙だ。サラちゃんも素晴らしい武芸者に成長したものだよ』


『サラちゃん?』


 怖怖おずおずと問う加勢。すると、伝説の武人は再び京師たちを見渡した。その瞳は、


『君たちの時代。闘争の時代だよ』


 慈悲の瞳だった。


『しかし、すでに上には上がいるものでな。彼らの苦闘を学ばずして土俵にあがれば、呆気なく敗北するに違いあるまい。特に、同輩だからと腐る限りは永久にごく


 空手を極めた伝説の男は、知己の柔術道場を訪問し、そこで思いがけずも当主の娘に急襲されたのである。命とも呼ぶべき指を、横倒しにされて。


 あの日があるから、京師航にはわかる。五熊総學を査定した者こそ、この女であると。


『大柔術 ─ 巌桐流』の秘蔵っ子、桐渓更紗。


 この若き天才が屋上にあらわれた理由、それは、狂犬グループを打ち砕いた百目鬼歌帆に柏手かしわでをくれてやるためではない。よもや、彼女がそんな和やかな属性であるはずがないのである。


(じゃあ、なんのために?)


 しかし、京師に推理させる間も置かず、エボニーロングヘアの女は百目鬼を目指して閃光のように駆けていた。


 右手が耳の横に掲げられている。そして人差し指と親指の間には白銀の光。


(ナイフ?)


 黄金色のプレートが上下にあしらわれる木目調の、その柄よりもわずかに短いシルバーの刃──BUCK社が誇るサバイバルナイフ『フォールディングハンターFG』。


 保健室の前から投棄した、あのナイフ。


 2本の指に挟まれる白銀の先端、それを桐渓は、屋上の大地を踏むや否や、なんの躊躇もなく、慣れた手首のスナップで投擲とうてきした。わずかな下り勾配の直線を描き、凶刃は瞬く間もなく百目鬼の右の脇腹へ。


「くぁッ!」


 かすれた悲鳴をあげ、瞳を大きく見開き、百目鬼の身体が「く」の字に湾曲。


 桐渓は休まない。ただの牽制だと言わんばかりに一気に間合いを詰めると、中空に投げ出される分厚い左腕を捕獲。そして急激に軌道を変え、捕えた腕ごと百目鬼の肩の高さにまで飛翔した。


 蠱惑的な黒髪の曲線が描くその軌跡は、飛びつきからの腕ひしぎ十字固め──股に腕を挟み、両脚も絡ませてグラウンドに持ちこみ、梃子の原理で肘を破壊するサブミッション──これを狙った跳躍である。判断力、敏捷性、技術、勇気と、すべてを刹那のうちに凝縮する高度な技。


 しかし彼女は、京師の見知るソレとは異なるアクションを展開した。


 ごッ──跳躍の流れのままに、百目鬼の後頭部を右膝で蹴ったのである。


 蹴ったと同時、捕えていた左肘を彼女の頭上で折り畳む。肩越しに背中を掻痒そうようするような無理のある体勢にすると、桐渓は、蹴ったばかりの右脚を振り子にして一気呵成の体重移動、ぐるんッ、反時計回りに半回転した。まさに、秒針の挙動でもって百目鬼の翼をもぎった。


 京師の時間が、逆行。


 ぼごッ。

 めちッ。


 ふたつの絶望の音が鳴り響く。


「がおあッ!」


 百目鬼の悲鳴も空気を揺さぶる。


 桐渓はまだ休まない。左の手首を握ったまま、百目鬼の背後へと着地。そして、左膝を彼女の右の膝裏ひかがみに押しつけながら前方に蹴り出した。同時に、握った左手は後方、斜め下へと引き落とす。前後に体勢を崩して尻餅をつかせたのである。


 さらに素早く覆い被さって下腹部に跨がった。典型的なマウントポジション。それから、左手で百目鬼の右肩を抑え、反対の右手を振りあげると、ありったけの力を込め、憔悴の顔面へと拳を落とした。正拳突きではない、掌の小指側の筋肉──「小指丘しょうしきゅう」と呼ばれる肉厚な筋肉部位を固め、まるで悔しがって地面を叩くような仕種で打ち落としたのである。


 それは、戦術として実に正しい。特に、体格や骨格に劣っている弱者が正拳突きをしようものならば、得てして自分の手首リストのほうを破壊してしまうものである。


 自己を熟知する、桐渓の正しさ。


 百目鬼は為す術もなく顔面を叩かれた。左腕を壊され、右腕を制され、上半身を拘束されたまま、何度も何度も顔面を叩かれた。熟練のたいが備わっていてこそ機能するマウントポジションだが、初めて間近にした京師には、子供同士の喧嘩にしか見えなかった。


 どこッ。

 ぬきゃッ。

 づがッ。

 ぐぢッ。


 弾、軋、裂、挫──マイナスの音階が重ねられる。それは9回にも及び、ようやく桐渓は拳を止めた。


 百目鬼は、微動だにしなかった。


 事切れているかのように見えた。


 拳を振りあげたまま、前のめりになって彼女の瞳を観察する桐渓。しかしすぐに己が腰のあたりに右手を回すと、妖しく輝く物体を取り出した。


「あ!」


 京師には見憶えのあるフォルム。屋上を目指す直前、激痛を忍んで抜き、捨て置いたはずのフォルム。それが──柄のないスペツナズナイフが、百目鬼の左肩に刺さった。


「うあぅがッ!」


 巣南重慶すなみじゅうけいに刺されたのと同じ患部を刺され、猛獣の雄叫びをあげて彼女は覚醒、何度も腰を浮かせて暴れる。しかし、完成されたマウントポジションを雪崩れさせるには及ばない。それどころか、桐渓は自身のローファーを悠然と探ると、隠されてあったライターを手にして着火。と同時に、ばうッ──口に含んでいた透明な液体を眼下の顔面に噴射。溶接のまばゆさがぜる。


 無言のまま、慌てて火炎放射の朱を払う百目鬼。すぐに火は消えるも、今度はその右の手首が強奪された。


 素早くニー・イン・ベリーへと移行し、彼女の動きを封じる桐渓。さらには、捕えた右腕に両脚を絡めて勢いよく後方に倒れた。これこそが腕ひしぎ十字固めである。


 百目鬼の抗う間もなく、めち、ぴち──生生しい音が聞こえたような気がする。漁火いさりびの爆ぜる音かもわからないが、そうでなければ間違いなく糸の断ち切れる音である。


 般若の形相で耐え忍ぶ百目鬼。しかし硬直して伸ばされた中指までもが強奪。


 ぱきゃッ──第2関節から先が、真横に。


 五熊総學を思い出す。彼にも、ああして必然のような無慈悲を叩きつけたのか。


 ぱっくりと口を開き、糸切り歯を剥いて彼女は悶絶。もはや抵抗も試されず、代わりに全身が細かく震え始める。


 ナイフの牽制からここまでの所要時間、およそ30秒。そのスピード、圧力、無慈悲さは、まるで豊かな大河のようだった。京師の立ち入る隙がどこにあるはずもなく、ただ立ち尽くすのみの偉大なる流水。なぜならば、武道に憧れる少年にとって、達人の技に目を奪われることは抗いがたい本能なのである。


 先天後天を問わず、本能とは、徳義にとって最凶の敵である。事実、遠くからは救急車のサイレンが聞こえているというのに、京師の耳は緊急の最善を閃く状態にない。携帯電話スマホを操る発想も湧かないのである。


 見蕩れる、天才のかお


 廊下で擦れ違った時の、眠たそうな目、不貞腐れるように尖る唇──マイウェイな桐渓更紗ではない。闇夜の蒼と漁火の朱に照らし出されるものは、べったりと長髪の貼りつく汗ばんだ貌。幽鬼の貌。


 一方の百目鬼は、朧気な魂だけとなっている。左腕は背後に曲げられ、右腕は中指とともに挫かれ、左肩にはスペツナズナイフ、右の脇腹にはサバイバルナイフ、顔面には泥土のような鼻血──満ちていた数十分前とは打って変わり、彼女の肉体は今、生命いのちを漏水させるばかりの穴だらけの器でしかない。


 もはや一刻の猶予もない。迅速な処置を受けなければ、彼女は、


(死)


 しかし、京師の肉体は石のよう。


 怖い。桐渓の手搏しゅはくの間合いに身体を投げ入れるのがたまらなく怖い。


 すると、


「弟、を」


 口を開いたのは、瀕死の百目鬼だった。


「守る、た、め、です、か?」


 しゃがれ、絡み、霞み、囈言うわごとのようだった。


「障壁を……芽を、摘ん、で」


 それほどに、甲斐甲斐しく戦っている。


「愛、する、弟、の、未来を」


 だが、彼女の戦いはそこまでだった。


「しゃべるな」


 マズそうな桐渓の声。


「立ち合いの最中さなかにアニメキャラみたいにベラベラと喋るな。水を差すな。意志をひけらかすな。表現するな」


 低い呪怨を呟く。そして弾むように起きあがり、握り締める中指を強引に釣りあげた。たちまち、はぐぁ──蚊の鳴くような悲鳴を漏らし、已むなく身体を起こしてうずくまる百目鬼。


 と、力なく開かれる右の眼球に、た──左手の中指の腹が押し当てられた。潰すまでには至らずとも、牽制には持ってこいの目潰しである。


 刹那、瞼を固く閉じ、無言で顔を逸らす百目鬼。その隙を突いて、今度は、喉──鎖骨と鎖骨の中間にある「頚窩点けいかてん」と呼ばれる窪みへと、


「ごぇッ!」


 右手の親指が低い弾道で突き刺さる。必然、嘔吐するように丸く開かれる百目鬼の口。しかし、咳嗽がいそうを絞り出す猶予も与えられず、さらにその口を、人中じんちゅうを、ごぢゃッ──左膝が重たく貫いた。


「歌……」


 瞬時にして白目を剥く少女。完全に事切れた合図。


「……帆さ」


 ごぼんッ。


 あぶくような音とともに、左の蟀谷こめかみを右膝が追い討ち。非情にして美しい、刹那の2連蹴りだった。


 人中を左膝で射貫かれ、死に体となって間もなく蟀谷を右膝で撃ち抜かれ、直後、なにかが抜けたように身体をひとつだけびくんと痙攣させ、その拍子に直立となり、そのまま、分厚い肉体がスローモーションの速度で背中から倒れていく。それは徐徐に加速、ついには、孤独なドミノのように、硬い大地へと、背中を、後頭部を打ちつけ、わずかにバウンドし、そうして、百目鬼はぱったりと静まった。


 すべてが漏れ、ただの器に。


「……歌帆さんッ!?」


 ようやく、ようやく京師は駆け出した。今さらと思うまでもなく、発作的だった。


 ところが、


「も、もう終わりだッ、勝負ありだッ」


 天才に対し、精一杯の審判を口にした瞬間のことだった。


「喋るなッ!」


 いかづちのガナり声をあげて桐渓が振り向く。そして京師を目掛けて迷いなく駆け出すと、戦慄の急ブレーキをかける間もなく、正面衝突するかのように彼の胸座むなぐらを掴んだ。


 呆気なく出鼻を挫かれ、呆気なく気勢を殺がれ、呆気なく心棒を折られた。


「勝敗は互いの生命いのちで決まる。これが立ち合いにおけるただひとつの基準だ」


 顎の高さで輝く猛獣の眼光から、猛烈な汗の匂い。本質的な雌の匂いと混ざり、眉間が痛むほどの太い香気。


 しかし、それもすぐに散った。


「スポーツマンは引っこんでろッ!」


 京師は宙を舞っていた。


 教科書どおりの背負い投げ──とも判断できないまま、次の瞬間には、すでに目の前が夜空になっていた。


 茫然と見あげる先に、


「これは立ち合いだ。試合リハーサルではない。手遊てすさびではない」


 朱を宿した幽鬼が立っている。彼を見くだしている。蒼く、朱く、黒く、嘲笑っている。


「立ち合いとは暴力の応酬だ。ここに民主主義は存在せず、よってメッセージは生きない」


 痛みはない。完全に手加減された。


「暴力はなにも解決しない? それは解決する気のある者に呼びかけなければ無意味だ。最初はなから解決する気のない、生産する気のない、むしろ破壊して終わらせることが目的のあたしにとって、ダカラ暴力はいけないとするメッセージは眠たい矛盾でしかない」


 でも、身動みじろぎできない。


「おい、


 たいが殺されてる。


「どうやって許さないのかの知恵がなく、実行する勇気もなく、それでいてすぐに絶対に許さないなどと無力な感想文をツイートして溜飲をさげた気になるような平和ボケした日本人おまえに、いったいなにができるというんだ? 先手の戦争術を知らず、後手の防衛術しか知らないような弱小警察ごときに守られている日本人おまえが、いったいどんなペンで剣と戦っているつもりなんだ?」


 台詞が、


「テロに屈しないとする信念を公表するばかりで、テロを食い止める力をなにひとつとして持たない弱小民族、それが日本人おまえだ」


 耳から耳へと抜けていく。


「で、そんな目出度めでた日本人おまえが、今、なにを止めたつもりだ?」


 桐渓はそこで台詞を切ると、スイッチをオフにしたかのように表情を弛緩させた。


「まぁいい」


 軽軽と豹変、いつもの怠惰な彼女に戻る。


「確かに立ち合いは終わりだ。だからテロリストは悪びれずに帰ります。起死回生のチャンスは手配しといたけど、まぁ、閉会式のほうは不惜身命ふしゃくしんみょうのスポーツマンシップに則ってせいぜい頑張れ」


 くるりと背中を向け、頭上から消えた。


 その、彼女の頭があった座標に孤独な赤い星が瞬いている。


 儚くも、戦いを司る星、火星マルス


 ──わしわしわしわ。


 ようやく蝉時雨も戻ってきた。


 戦いの夏である。命を燃やし、削り、つなげる夏である。


 京師たちは否応なく戦いの世界に放り出されている。駆り出されている。戦争でなくとも、競争へ、訌争こうそうへ、闘争へと参加させられ、命を燃やし、傷ついてもなお明日へとつなげていかなくてはならない。


『君たちの時代。闘争の時代だよ』


 だから、現実を知る師の、あれは慈悲。哀れみを踏まえた激励だったのである。


(痛い)


 改めて、右手の薬指が痛んでいることを痛感する。まるで突き指に焼きごてしたような、火傷に似た痛み。でも、温かくて懐かしい痛み。


 懐かしむほどなのに、よくもまぁ、


(簡単に終わらせ続けてきたものだ)


 などと、朝靄あさもやのように考えていた。


 しかし、茫然自失の状態はこれ以上に長くは続かなかった。


 わッ、わッ──ウィスパーの声が鼓膜をかすめた。驚いたような、怯えたような、切羽つまった瞬発的な声である。


 ごろりと頭だけを左に転がし、声のしたほうを見る。それは、焚き火のほう。


 色落ちした炎を背にし、紫ジャージの少年が腰を屈めている。右手で口を覆い、小さな目を剥いたまま、目の前の大地を愕然と見おろしている。恐怖している。


 少年の視線の先をたどってみる。


 少女が仰向けに横たわっていた。


 白目を剥き、左右に寝返りを打ち、泡をつくっている。ぽわっとした泡が少女の口から次次に溢れ、すぐに割れていく。唾液もまたこぼれ、頬を伝っては大地を染めている。猥談の好きな者が言葉を捲し立てて口角を白くするのとは、あまりにも水量が異なる。


 ごろごろと左右に寝返りを打つ。真夏の寝苦しさをほうふつさせる。二の足も折ったり伸ばしたりと忙しなく、しかし、意識的な運動とは一線を画していた。まさに夢の中──無意識の運動に他ならない。


 まるで、狂った玩具。


「歌帆さんッ!?」


 叫ぶや否や、京師は跳ね起きた。中腰になって百目鬼の異変を見据える。


 ご。ご。ご──パグ犬の呼吸のようないびきの音も聞こえる。間違いなく彼女の咽喉のどから聞こえてくる異音である。さらに、気怠そうに伸縮を繰り返す両脚の中央、ブレザースカートの内側から、液体が漏れ、屋上を黒く浸蝕しているのも見られた。


 失禁。


「か、歌帆、さん……?」


 卒倒しそうな膝が自然と伸び、夢遊病の足取りで百目鬼に近寄っていた。ほとんど無意識だった。


 おびただしい鼻血、濁った白目、濁った泡──あの日本刀の美しさに満ちていた顔貌は鳴りを潜め、古典のおどろおどろしさに満ちている。揺らぎそうにない、曲げられそうにない、歴然とした怪談の恐ろしさに満ちている。


「歌帆さん? 歌帆さん?」


 恐る恐る呼びかけてみても彼女の異常事態は収まらない。むしろ勢いを増したようにも見え、だから京師は、


「歌帆さん!? 歌帆さん!?」


 再び膝をつき、彼女の右肩を揺すってみた。が、彼の手を跳ね除けるほどの力で寝返りは打たれたまま。トップアスリート並みの体力を誇る彼女だが、この運動は、競技にも武道にもない、単なる弾機ばねの力。


 鼻血、白目、泡、寝返り、失禁、鼾──特に、鼾は危険な状態を示すと耳にしたことがある。


 不自然なほどに背後へと捩れている左腕、折れて投げ出されている右腕、ナイフの突き刺さる左肩と右の脇腹、火傷と殴打の雨を浴びた顔面──それだけではない、ここに至る道程みちのりにおいても、百目鬼はありとあらゆる負の怪我を負っている。危険な状態にならないほうが可笑しいぐらいなのである。


(どうすれば、どうすれば……)


 混乱し、錯乱し、もはやなにも閃かない京師の頭。ただ震える声を震えるままに、


「歌帆さんッ!? 歌帆さんッ!?」


 ぶつけるだけが関の山。


(死ぬ? 死ぬ? 歌帆さん、死ぬの?)


 その時、はたと閃いたように、ジャージの少年が勢いよく背中を向けた。にわかにスチールの手摺まで駆け、投身自殺でもするかのように、身を乗り出して校庭を見おろす。


「わあッ。わぁぁぁ! 助けてぇぇぇ! ここッ! ここぉぉぉッ!」


 両の皆手かいしゅを大きく左右に振り、少年が、校庭に向かって叫び始めたのである。


 ここで京師も初めて気づいた。つんざくようなサイレンの轟音が校庭で鳴り響いていることを。


 この音は、救急車。


 起死回生のチャンス。


「はやくッ、はやくッ、はやくぅぅぅ!」


 涙声で少年は叫ぶ。京師は完全に言葉を失っている。ただ左右に揺れる少年の掌をぼうと見ている。折れそうなほどに小さな掌である。それを誰よりも大きく広げ、まさに命懸けで振っている。


「あ……!」


 ふと、自分の手に視線を落とし、京師は絶句した。愕然とした。戦慄した。


 拳が、固められている。


 ここで、この場面で、今さら、彼の手は拳となることを選んでいた。叩き、殴り、突き、殺傷するためだけのシンプルな拳となることを、ここにきて、今さら、この手が選択していたのである。


 ぷつりと、サイレンの音が途絶えた。


 無音。


 しかし、焼けた薪の匂いはある。気怠い尿の匂いもある。血の匂いもある。そしてシナモンの香りもある。


『お願いしますね──ワタルさん』


 我が鼓動の、こそばゆい香りもある。


(開けよ、俺の手)


 めくるめく灼熱の晩夏、その天蓋に丸くなり、京師は無力と焦燥にあえいでいる。無力を怨むほど、焦燥にほだされるほどにますます拳は固められ、握力に圧縮され、もう間もなくこの手は無くなってしまうだろう。


 そう、


(歌帆さんにお願いされたんだ)


 京師の空手は、


(だから、開け。開け。開けよ!)


 空っぽの手。





   【 了 】




 

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