壱の戦 ≪ 空っぽの男 ~ 場外戦
■ 陽向ケ原高校の2年生徒
□ 大柔術 ─ 巌桐流
『油断したわい』
左手の小指を包帯でグルグル巻きにし、
『いや、油断する暇もなかった。気づいた時にはすでにポッキリと折られておった』
どこか懐かしそうな笑顔でもあった。久し振りの激痛を噛み締めている笑顔。
いったい誰に折られたのか?──勇敢な
『天才だよ』
含みを持たせて言った。
『いつの間にやら背後に立ち、小さな掌に小指を捕り、呼吸する間もなく第2関節の先を横倒しにする──これを一瞬のうちに完成させたのは、加勢君、そして京師君とも同学年の女の子だったのだよ』
『なぜ彼女はそんなことをしたと思う?』
やはり意地悪な問いに、誰もが動揺を広げるばかりで無言を貫く。そんな、痛痛しい静寂を見渡して五熊総學は、
『伝説の武人とやらを試してみたのだそうだ』
で、その後の物言いが痛快でな──と楽しそうに言うのである。
『闘争の邪魔にしかならない女子供に
腰に手を当て、茜色の天井を仰いで哄笑。
『まったく。言い得て妙だ。サラちゃんも素晴らしい武芸者に成長したものだよ』
『サラちゃん?』
『君たちの時代。闘争の時代だよ』
慈悲の瞳だった。
『しかし、すでに上には上がいるものでな。彼らの苦闘を学ばずして土俵にあがれば、呆気なく敗北するに違いあるまい。特に、同輩だからと腐る限りは永久に
空手を極めた伝説の男は、知己の柔術道場を訪問し、そこで思いがけずも当主の娘に急襲されたのである。命とも呼ぶべき指を、横倒しにされて。
あの日があるから、京師航にはわかる。五熊総學を査定した者こそ、この女であると。
『大柔術 ─ 巌桐流』の秘蔵っ子、桐渓更紗。
この若き天才が屋上にあらわれた理由、それは、狂犬グループを打ち砕いた百目鬼歌帆に
(じゃあ、なんのために?)
しかし、京師に推理させる間も置かず、エボニーロングヘアの女は百目鬼を目指して閃光のように駆けていた。
右手が耳の横に掲げられている。そして人差し指と親指の間には白銀の光。
(ナイフ?)
黄金色のプレートが上下に
保健室の前から投棄した、あのナイフ。
2本の指に挟まれる白銀の先端、それを桐渓は、屋上の大地を踏むや否や、なんの躊躇もなく、慣れた手首のスナップで
「くぁッ!」
かすれた悲鳴をあげ、瞳を大きく見開き、百目鬼の身体が「く」の字に湾曲。
桐渓は休まない。ただの牽制だと言わんばかりに一気に間合いを詰めると、中空に投げ出される分厚い左腕を捕獲。そして急激に軌道を変え、捕えた腕ごと百目鬼の肩の高さにまで飛翔した。
蠱惑的な黒髪の曲線が描くその軌跡は、飛びつきからの腕ひしぎ十字固め──股に腕を挟み、両脚も絡ませてグラウンドに持ちこみ、梃子の原理で肘を破壊するサブミッション──これを狙った跳躍である。判断力、敏捷性、技術、勇気と、すべてを刹那のうちに凝縮する高度な技。
しかし彼女は、京師の見知るソレとは異なるアクションを展開した。
ごッ──跳躍の流れのままに、百目鬼の後頭部を右膝で蹴ったのである。
蹴ったと同時、捕えていた左肘を彼女の頭上で折り畳む。肩越しに背中を
京師の時間が、逆行。
ぼごッ。
めちッ。
ふたつの絶望の音が鳴り響く。
「がおあッ!」
百目鬼の悲鳴も空気を揺さぶる。
桐渓はまだ休まない。左の手首を握ったまま、百目鬼の背後へと着地。そして、左膝を彼女の右の
さらに素早く覆い被さって下腹部に跨がった。典型的なマウントポジション。それから、左手で百目鬼の右肩を抑え、反対の右手を振りあげると、ありったけの力を込め、憔悴の顔面へと拳を落とした。正拳突きではない、掌の小指側の筋肉──「
それは、戦術として実に正しい。特に、体格や骨格に劣っている弱者が正拳突きをしようものならば、得てして自分の
自己を熟知する、桐渓の正しさ。
百目鬼は為す術もなく顔面を叩かれた。左腕を壊され、右腕を制され、上半身を拘束されたまま、何度も何度も顔面を叩かれた。熟練の
どこッ。
ぬきゃッ。
づがッ。
ぐぢッ。
弾、軋、裂、挫──マイナスの音階が重ねられる。それは9回にも及び、ようやく桐渓は拳を止めた。
百目鬼は、微動だにしなかった。
事切れているかのように見えた。
拳を振りあげたまま、前のめりになって彼女の瞳を観察する桐渓。しかしすぐに己が腰のあたりに右手を回すと、妖しく輝く物体を取り出した。
「あ!」
京師には見憶えのあるフォルム。屋上を目指す直前、激痛を忍んで抜き、捨て置いたはずのフォルム。それが──柄のないスペツナズナイフが、百目鬼の左肩に刺さった。
「うあぅがッ!」
無言のまま、慌てて火炎放射の朱を払う百目鬼。すぐに火は消えるも、今度はその右の手首が強奪された。
素早くニー・イン・ベリーへと移行し、彼女の動きを封じる桐渓。さらには、捕えた右腕に両脚を絡めて勢いよく後方に倒れた。これこそが腕ひしぎ十字固めである。
百目鬼の抗う間もなく、めち、ぴち──生生しい音が聞こえたような気がする。
般若の形相で耐え忍ぶ百目鬼。しかし硬直して伸ばされた中指までもが強奪。
ぱきゃッ──第2関節から先が、真横に。
五熊総學を思い出す。彼にも、ああして必然のような無慈悲を叩きつけたのか。
ぱっくりと口を開き、糸切り歯を剥いて彼女は悶絶。もはや抵抗も試されず、代わりに全身が細かく震え始める。
ナイフの牽制からここまでの所要時間、およそ30秒。そのスピード、圧力、無慈悲さは、まるで豊かな大河のようだった。京師の立ち入る隙がどこにあるはずもなく、ただ立ち尽くすのみの偉大なる流水。なぜならば、武道に憧れる少年にとって、達人の技に目を奪われることは抗いがたい本能なのである。
先天後天を問わず、本能とは、徳義にとって最凶の敵である。事実、遠くからは救急車のサイレンが聞こえているというのに、京師の耳は緊急の最善を閃く状態にない。
見蕩れる、天才の
廊下で擦れ違った時の、眠たそうな目、不貞腐れるように尖る唇──マイウェイな桐渓更紗ではない。闇夜の蒼と漁火の朱に照らし出されるものは、べったりと長髪の貼りつく汗ばんだ貌。幽鬼の貌。
一方の百目鬼は、朧気な魂だけとなっている。左腕は背後に曲げられ、右腕は中指とともに挫かれ、左肩にはスペツナズナイフ、右の脇腹にはサバイバルナイフ、顔面には泥土のような鼻血──満ちていた数十分前とは打って変わり、彼女の肉体は今、
もはや一刻の猶予もない。迅速な処置を受けなければ、彼女は、
(死)
しかし、京師の肉体は石のよう。
怖い。桐渓の
すると、
「弟、を」
口を開いたのは、瀕死の百目鬼だった。
「守る、た、め、です、か?」
「障壁を……芽を、摘ん、で」
それほどに、甲斐甲斐しく戦っている。
「愛、する、弟、の、未来を」
だが、彼女の戦いはそこまでだった。
「しゃべるな」
マズそうな桐渓の声。
「立ち合いの
低い呪怨を呟く。そして弾むように起きあがり、握り締める中指を強引に釣りあげた。たちまち、はぐぁ──蚊の鳴くような悲鳴を漏らし、已むなく身体を起こして
と、力なく開かれる右の眼球に、た──左手の中指の腹が押し当てられた。潰すまでには至らずとも、牽制には持ってこいの目潰しである。
刹那、瞼を固く閉じ、無言で顔を逸らす百目鬼。その隙を突いて、今度は、喉──鎖骨と鎖骨の中間にある「
「ごぇッ!」
右手の親指が低い弾道で突き刺さる。必然、嘔吐するように丸く開かれる百目鬼の口。しかし、
「歌……」
瞬時にして白目を剥く少女。完全に事切れた合図。
「……帆さ」
ごぼんッ。
人中を左膝で射貫かれ、死に体となって間もなく蟀谷を右膝で撃ち抜かれ、直後、なにかが抜けたように身体をひとつだけびくんと痙攣させ、その拍子に直立となり、そのまま、分厚い肉体がスローモーションの速度で背中から倒れていく。それは徐徐に加速、ついには、孤独なドミノのように、硬い大地へと、背中を、後頭部を打ちつけ、わずかにバウンドし、そうして、百目鬼はぱったりと静まった。
すべてが漏れ、ただの器に。
「……歌帆さんッ!?」
ようやく、ようやく京師は駆け出した。今さらと思うまでもなく、発作的だった。
ところが、
「も、もう終わりだッ、勝負ありだッ」
天才に対し、精一杯の審判を口にした瞬間のことだった。
「喋るなッ!」
呆気なく出鼻を挫かれ、呆気なく気勢を殺がれ、呆気なく心棒を折られた。
「勝敗は互いの
顎の高さで輝く猛獣の眼光から、猛烈な汗の匂い。本質的な雌の匂いと混ざり、眉間が痛むほどの太い香気。
しかし、それもすぐに散った。
「スポーツマンは引っこんでろッ!」
京師は宙を舞っていた。
教科書どおりの背負い投げ──とも判断できないまま、次の瞬間には、すでに目の前が夜空になっていた。
茫然と見あげる先に、
「これは立ち合いだ。
朱を宿した幽鬼が立っている。彼を見くだしている。蒼く、朱く、黒く、嘲笑っている。
「立ち合いとは暴力の応酬だ。ここに民主主義は存在せず、よってメッセージは生きない」
痛みはない。完全に手加減された。
「暴力はなにも解決しない? それは解決する気のある者に呼びかけなければ無意味だ。
でも、
「おい、日本人」
「どうやって許さないのかの知恵がなく、実行する勇気もなく、それでいてすぐに絶対に許さないなどと無力な感想文をツイートして溜飲をさげた気になるような平和ボケした
台詞が、
「テロに屈しないとする信念を公表するばかりで、テロを食い止める力をなにひとつとして持たない弱小民族、それが
耳から耳へと抜けていく。
「で、そんな
桐渓はそこで台詞を切ると、スイッチをオフにしたかのように表情を弛緩させた。
「まぁいい」
軽軽と豹変、いつもの怠惰な彼女に戻る。
「確かに立ち合いは終わりだ。だからテロリストは悪びれずに帰ります。起死回生のチャンスは手配しといたけど、まぁ、閉会式のほうは
くるりと背中を向け、頭上から消えた。
その、彼女の頭があった座標に孤独な赤い星が瞬いている。
儚くも、戦いを司る星、
──わしわしわしわ。
ようやく蝉時雨も戻ってきた。
戦いの夏である。命を燃やし、削り、つなげる夏である。
京師たちは否応なく戦いの世界に放り出されている。駆り出されている。戦争でなくとも、競争へ、
『君たちの時代。闘争の時代だよ』
だから、現実を知る師の、あれは慈悲。哀れみを踏まえた激励だったのである。
(痛い)
改めて、右手の薬指が痛んでいることを痛感する。まるで突き指に焼き
懐かしむほどなのに、よくもまぁ、
(簡単に終わらせ続けてきたものだ)
などと、
しかし、茫然自失の状態はこれ以上に長くは続かなかった。
わッ、わッ──ウィスパーの声が鼓膜をかすめた。驚いたような、怯えたような、切羽つまった瞬発的な声である。
ごろりと頭だけを左に転がし、声のしたほうを見る。それは、焚き火のほう。
色落ちした炎を背にし、紫ジャージの少年が腰を屈めている。右手で口を覆い、小さな目を剥いたまま、目の前の大地を愕然と見おろしている。恐怖している。
少年の視線の先をたどってみる。
少女が仰向けに横たわっていた。
白目を剥き、左右に寝返りを打ち、泡をつくっている。ぽわっとした泡が少女の口から次次に溢れ、すぐに割れていく。唾液もまたこぼれ、頬を伝っては大地を染めている。猥談の好きな者が言葉を捲し立てて口角を白くするのとは、あまりにも水量が異なる。
ごろごろと左右に寝返りを打つ。真夏の寝苦しさをほうふつさせる。二の足も折ったり伸ばしたりと忙しなく、しかし、意識的な運動とは一線を画していた。まさに夢の中──無意識の運動に他ならない。
まるで、狂った玩具。
「歌帆さんッ!?」
叫ぶや否や、京師は跳ね起きた。中腰になって百目鬼の異変を見据える。
ご。ご。ご──パグ犬の呼吸のような
失禁。
「か、歌帆、さん……?」
卒倒しそうな膝が自然と伸び、夢遊病の足取りで百目鬼に近寄っていた。ほとんど無意識だった。
おびただしい鼻血、濁った白目、濁った泡──あの日本刀の美しさに満ちていた顔貌は鳴りを潜め、古典のおどろおどろしさに満ちている。揺らぎそうにない、曲げられそうにない、歴然とした怪談の恐ろしさに満ちている。
「歌帆さん? 歌帆さん?」
恐る恐る呼びかけてみても彼女の異常事態は収まらない。むしろ勢いを増したようにも見え、だから京師は、
「歌帆さん!? 歌帆さん!?」
再び膝をつき、彼女の右肩を揺すってみた。が、彼の手を跳ね除けるほどの力で寝返りは打たれたまま。トップアスリート並みの体力を誇る彼女だが、この運動は、競技にも武道にもない、単なる
鼻血、白目、泡、寝返り、失禁、鼾──特に、鼾は危険な状態を示すと耳にしたことがある。
不自然なほどに背後へと捩れている左腕、折れて投げ出されている右腕、ナイフの突き刺さる左肩と右の脇腹、火傷と殴打の雨を浴びた顔面──それだけではない、ここに至る
(どうすれば、どうすれば……)
混乱し、錯乱し、もはやなにも閃かない京師の頭。ただ震える声を震えるままに、
「歌帆さんッ!? 歌帆さんッ!?」
ぶつけるだけが関の山。
(死ぬ? 死ぬ? 歌帆さん、死ぬの?)
その時、はたと閃いたように、ジャージの少年が勢いよく背中を向けた。にわかにスチールの手摺まで駆け、投身自殺でもするかのように、身を乗り出して校庭を見おろす。
「わあッ。わぁぁぁ! 助けてぇぇぇ! ここッ! ここぉぉぉッ!」
両の
ここで京師も初めて気づいた。
この音は、救急車。
起死回生のチャンス。
「はやくッ、はやくッ、はやくぅぅぅ!」
涙声で少年は叫ぶ。京師は完全に言葉を失っている。ただ左右に揺れる少年の掌をぼうと見ている。折れそうなほどに小さな掌である。それを誰よりも大きく広げ、まさに命懸けで振っている。
「あ……!」
ふと、自分の手に視線を落とし、京師は絶句した。愕然とした。戦慄した。
拳が、固められている。
ここで、この場面で、今さら、彼の手は拳となることを選んでいた。叩き、殴り、突き、殺傷するためだけのシンプルな拳となることを、ここにきて、今さら、この手が選択していたのである。
ぷつりと、サイレンの音が途絶えた。
無音。
しかし、焼けた薪の匂いはある。気怠い尿の匂いもある。血の匂いもある。そしてシナモンの香りもある。
『お願いしますね──ワタルさん』
我が鼓動の、こそばゆい香りもある。
(開けよ、俺の手)
めくるめく灼熱の晩夏、その天蓋に丸くなり、京師は無力と焦燥に
そう、
(歌帆さんにお願いされたんだ)
京師の空手は、
(だから、開け。開け。開けよ!)
空っぽの手。
【 了 】
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