壱の戦 ≪ 空っぽの男 ~ 大将戦
■ 陽向ケ原高校の2年生徒
□ 狂犬
「……イバショ?」
楓のように大きな掌。しかし予想外に柔らかく、熱い。アンドロイドのように思っていたのだが、ちゃんと生きているとわかる。怖いぐらいに息をしている。
「居、場所って?」
京師航のほうは、ロボットのように正拳突きの構えを崩せない。理性を超越した己の造反運動に、頭のブレーカーが落ちて肉体をコントロールできない。
惚けたような彼に対して、百目鬼歌帆、
「狂犬グループは、あなたの存在に価値を持たせる社会なのでは?」
眉間に深い皺を刻み、苦しそうに問う。足もとに横たわる
「造反有理と言いますが、しかしあなたの社会は、造反の拳足に特赦を与えてくれる場所なのでしょうか?」
すぐに京師を見つめて低吟。
「仮にそうでないとするのならば、無事の亡命と末の安泰が約束されましょうか?」
くッと楓に握力が宿る。本気でないとはわかるが、薬指の根もとが鈍重に痛んだ。良くて捻挫か、悪くて骨折か。
「狂犬グループがあなたの望む場所なのかどうか、私は知りません。ですが、たとえ惰性による所属であったとしても、今ある社会に属し続けることが結果的に幸福をもたらす場合もあるのです。なにも革新に走ることがすべての道理ではなく、況して新天地が常に楽園であるとも限らない。惰性こそが最善策となり得る場合もある」
そう続け、彼女はきっぱりと、
「居場所とは、そういうものです」
しかし乞うように結んだ。
「実社会とは、そういうものです」
虫の声も届かない静寂の廊下に、アルトサックスが優しく
「居場所、か」
仄かな
「居場所なんて、あるもんか」
え?──百目鬼が小さく聞き返した。しかし京師の耳には届かず、やはり同じようにボソボソと、
「ひとつひとつを簡単に終わらせながらここまで生きてきたんだ。勝手な都合で、大切なものをことごとく終わらせながら、今日まで生きてきたんだ」
彼女を透かした向こうを見つめながら呟く。
「終わらせて、転転として、でも時間はずっと止まってて」
「馴染めない道を歩いてきたんだ。いつも及び腰で、立ち向かうこともせず、延延と逃げ続けてきたんだ。終わらせ続けてきたんだ」
後悔の
「こんな俺に、居場所なんてあるもんか」
それが今、少し動いたような気がする。
「遅すぎたぐらいだ」
いつの間にか、彼女の黒目を見ている。
「後悔しかない人生だけど、今度はもう後悔してない。もうしない」
キラキラとしていて、少し惑っている。
「幸福じゃなくてもいい。ここから先が、俺の、生まれて初めての居場所になるのかも知れないんだから」
そのまっすぐなまなざしに、心も体もが、再びエンジンを取り戻し始めたよう。
「箱に眠る靴は永遠に安全でいられる。だけど、玄関を飛び出さない靴は永遠に靴ではいられない──今、思い知ったよ」
⇒ 同日 ── 22:XX
東京都豊島区南池袋
陽向ケ原高校の4階にて
階段フロアから4階廊下には出ず、折り返してさらに階段をあがることとなる。
「そういえば」
並んで歩く百目鬼がしきりに顔を撫でている。どうやら火傷のせいで
「私、あなたの名前を知りまてん」
歩調は重く、呼吸も浅い。
「教えてくだたい」
滑舌までもが悪い。打撲、出血、火傷、呼吸停止にも陥った。これらの負の連鎖が今、急速に彼女の肉体を蝕み始めている。
「そういえば名乗ってなかったっけ」
病院に連れて行くべきだと思いながらも、
「俺は……京師航」
その労りは彼女の武道精神を傷つけるだけのように思え、だから質問に答えた。
「キョウシ、ワタル、さん」
幾度か復唱する百目鬼。そして京師の瞳を毅然と見つめる。
「この借りは、いずれ必ず」
貸しのつもりでやったわけではないが、彼は反論のロジックを諦めた。
隅っこに古びた消火器だけの置かれる踊り場を旋回し、足を止め、先を仰ぐ。
屋上への扉が、ぽっかりと開いている。
巣南と互角に渡りあい、彼に幹部という補佐官になることを決意させた男が待っている。今までの人生に1度の敗北もない、無敵の牙を誇る
『狂犬のジン』
ネームバリューの固唾を飲む。
すると、その右隣から、
「もう帰ってもよろしいんですよ?」
強引に生気を羽織ったかのように、滑舌にも鞭を打ち、元気に追い越していく百目鬼。
「あなたはもう狂犬グループの一員ではないのですから」
左の肩胛骨のあたりがまっ黒に染まっている。肺は外れた様子だが、しかし深深とファルカタが突き刺さったのである、
(見届けよう)
深く息を吐くと、京師は背中を追った。追いたいと思った。追いたいと感じた。
使い古された階段を踏む。開け放たれた出入口の向こう、赤みを帯びた外光が射しこみ、少しずつ導線を明らかにしている。まさにお化け屋敷の出口を思わせる希望の光だが、得てして、観客を凍りつかせる戦慄のアトラクションが最後の最後に待機しているものである。
その最後のステップを踏み、1畳もない足休めのスペースに立つ。左には朽ちた木製の開き戸が1枚。物置らしく、完全に封をされている。しかして扉は開かれず、神出鬼没の幽鬼があらわれることもなく、百目鬼からわずかに遅れて京師は、ついに上がり
蝶番ごと扉が破壊され、すっかりと見る影もない出入口の向こう側に広がっていた世界は、夜の海、漁の風景をほうふつとする、朱と蒼の融けあう屋上。
8×60mほどの巨大な長方形は、黒錆の浮かぶ鉄柵に包囲され、しかしそれ以外の目立つ設備を許容していない。関東随一の不良高校がゆえにか清掃業者からも嫌われている様子で、
悪因悪果の枢軸とも言える屋上、その、階段フロアを出て10mの先。
朱い
パチパチと音の
野宿ほどのシンプルな焚き火の傍らで、ブレザー姿の男子高校生とジャージ姿の男子中学生が向かいあっていた。前者が
中学生のほうが事件の鍵を握る人質。高校生のほうは、その鍵を拉致した事件の首謀者。そんな相反する立場の両者が、小さな盤を挟んでモノクロの石を闘わせている。また、ふたりの周囲には、ジェンガ、UNO、将棋、花札、人生ゲームのセットまでもが散らばっている。
「
かすれた声で首謀者が愚痴った。
ガテン系がするように頭を白いタオルで覆っているが、それ以外は普通のブレザー。奥貫や巣南の上司とは思えない、奇を
「こいつクソ強ぇ」
さらにボヤくや否や、
眠たそうに座った瞼。薄い唇は
いつも上から目線で、淡白で、非情で、非道で、いっさいも心を読ませない、永久凍土に吹く気紛れな微風。
鬼束甚八。
「あんたも全戦全敗なんだって?」
彼の余裕の愚痴に、対面の中学生も面をあげて振り返った。制服の一環と思しい紫のジャージは淡い光沢を帯び、不器用な家族の手で、しかし丹念に洗濯されているものだとわかる。つまり、本来ならばもう食卓を囲っていなくてはならず、彼は彼で心の読めない疲弊状態となっている。
「合理性に偏る兵法は気に入りませんが」
焚き火の輪郭を帯びて、仁王が答える。
「確かに、彼は強いです」
そう認め、ゆるりと歩を踏み出すと、
「しかしながら、いまだ義務教育の盤上にあります。彼の秀でる才能もまた義務の腕に委ねられて然るべし。親のあらば安らかに帰ることこそが彼の夜なのですよ?」
少年の背後に立つ。
目に明らかな彼女の容体を見て、驚愕の表情をこさえるも、少年はすぐに項垂れてしまった。まるで
「どうせ戯れなのでしょう?」
百目鬼の肉体、あちらこちらに浮かぶ裂傷、刺傷、擦過傷、打撲、捻挫、火傷。
「人質を取らなくとも、あなたほどの者であればたどり着かれた場所なのでは?」
一騎当千、守られる側の女ではないが、
「
守りたいと感じるのはなぜだろう?
「彼の今夜に深く詫びなさい」
人質の痩せた左肩に手を置く。
「さ。立ちましょう?」
静かに、優しく労うと、少年も微かに顎を頷かせ、応じた。
狂犬はまだ動かない。
よろよろと立ちあがる華奢な背中に手を添え、そのまま京師へと導く。
「お願いしますね──」
紅色に滲む、糸切り歯。
「──ワタルさん」
とく。
胸が鐘を打った。
揺らぐ京師の視野に、しかし、のろりと立ちあがる狂犬の姿が。
「要救助者、確保……か」
仄かなシナモンもまた振り返る。
「よかったじゃねぇか。無事に人質も取り戻せて。これ以上にない大団円だ」
まるで他人事のように言い、劫火の男はカチカチと歯を打ち鳴らした。
あの歯は、危険である。
歯の硬さ、歯茎の厚さ、
『なぜプロレスラーが敵の攻撃をわざわざ受けるのか、わかるかしらン?』
巣南の言葉を思い出す。
『我が身に苦痛を受けるという覚悟がタフネスの質を決めるのよン。避けたはずなのに攻撃を受けちゃえば、意表を突かれたわけだから痛いわよねン? でも、受けてやると覚悟した上で受ける攻撃は、それは望むところの攻撃だから痛くはない。深刻なダメージからは程遠いわよねぇン?』
狂犬の、強引で無計画にも見える戦術について部下が質問してのことだった。
『逆転劇のカタルシスこそがプロレスを支えるエンタメ・イズム。攻撃を回避したがる弱虫ごときには絶対にタフネスは得られないんだから、だからこそ彼らは、敵の必殺技を避けず、逃げず、虎視眈眈と覚悟の瞳で逆転の機会をうかがうのよン』
確かに、鬼束も絶対に攻撃を避けない。出血など恐れず、散歩でもするかのように距離を詰めると、突きを、蹴りを、凶器を全身に浴びながら噛みつく。噛みついたが最後、絶対に放さず、パーツが切断されてようやく距離が置かれる。
ならば、期待される戦法はヒットアンドアウェー。もはやコレしかあるまい。
(もしも万が一に噛まれたとするならば、せめて衣類の上からが理想か)
瞬発的に力強く衣類を引いてやれば、相手の歯を根こそぎ引き抜くことも可能。歯は、上下からの力には強いのだが、前後からの力には弱くできている。すなわちコレがバイティングのウィークポイント。
(でも、その程度のことはきっと想定内。そうならないように噛みついてくるはず)
なにしろ無敗の男である。
固唾を飲んで見守る京師に、ちらりと狂犬が視線を向けた。万死に値するはずの裏切り者に対し、しかし、にいっと妖艶な微笑みをくれただけでなにも咎めず、
「さて。喧嘩でもしてお家に帰ろうや」
すぐに百目鬼を見る。天に腕を伸ばして
ごく──微笑のままで首を鳴らす。
ぱき──手ぶらで両の指を鳴らす。
ぼぐ──背を反らして胸を鳴らす。
(待ってる?)
なにかが発生するのを待っている、そのための時間稼ぎをしている──そんな気がしないでもない。
8mの距離を置き、相変わらずに百目鬼は仁王立ちの静観。
いまだになにも起きず、しかし間もなくなにかが起こる。純然たる立ち合いなのかどうかは予想しようもないが、おおよそ大将戦に相応しい闘争の幕があがる。
と、右の顎関節をマッサージしながら、気怠そうに鬼束が問うた。
「なぁ。百目鬼は、栗は好きか?」
「クリ?」
京師のほうがぼそっとこぼす。そして、彼の後を継ぎ、
「いえ。木の実はたいがい嫌いです」
百目鬼が素直に答えた直後だった。
ぼんッ。
爆発音とともに焚き火が爆ぜた。
いつの間に火中に爆発物を投じたのかと推理している余裕はなかった。強烈な音と猛烈な熱風に、
紙吹雪のような細かな火の粉がまばゆく舞う。炭化した薪は四散、夜にあってなおも白いとわからせる煙が塊となって立ちのぼる。わずかに遅れ、むんと威張るような焦げた悪臭が鼻に流れつき、そんな中で鬼束は、
「……え?」
なぜか、百目鬼の足もとに倒れていた。
こちらに頭を向けて伏臥し、ぴくりとも動かない。
(なにが、起きた!?)
唖然。茫然。
(確か……)
そう、確か、焚き火の爆発音を煙幕にして鬼束が駆け出すのを見た。一気に間合いを詰め、2mの距離から跳躍、両腕を翼のように広げ、鋭利な犬歯を剥き、百目鬼に抱きついて頸動脈を切断しようとするかのように見えた。
しかし、彼女を抱き締めるほんの手前、漲溢る顔の狂犬は、急にぽかんとした表情になった。五体もまた憑き物が落ちたように弛緩し、墜落。優しく左に
百目鬼はやや前傾姿勢。しかし腕も脚も動かさず、反らしも迎えもせず、墜落してきた狂犬から静かに避けただけ。その他の攻撃的な所作は、京師の目にはひとつとして確認できなかった。
呆気ない、幕切れ。
(幕切れ?)
わからない。でも、京師には幕が切れたようにしか思えない。意識の糸を根もとから断ち切られ、親しんだ屋上の大地に今、狂犬がしっくりと横たわっている。
「なにを、したの?」
子供のように尋ねる。すると、
「音を、ぶつけました」
疲れた瞼で百目鬼が答えた。その声は芯を失い、カスカスに
「音?」
「音の、塊にして」
ごほッ。喉を
「ただ大きな声を出しただけです。相手の意識を強奪するほどの、大きな声を」
でも、そんな声は聞こえなかった。
京師の混乱を、嗄れた声が察する。
「音波の塊にし、彼だけにぶつけました。彼だけに受信させるような、ある特殊な呼吸法と発声法を使って」
「ということは、鬼門……?」
百目鬼は、首を縦に振った。
「鬼門陰陽流に秘められる奥義のひとつ、この名を、歌帆といいます」
「フナウタ……」
「ナチスのユンカースJu87のような偶然の兵器も含め、V1飛行爆弾、イスラエル陸軍のスクリーム、日本の調査捕鯨船団がシーシェパードに使ったとされるLRAD──これらの音響兵器は、もはや戦場における選択肢に過ぎません。そしてそれを、己の声のみで為し遂げた技こそが、
苦しそうに眉間に皺を寄せる。
「私は未熟ですが、鬼門陰陽流の開祖である
ここで、ついに彼女は右の膝をついた。
「歌帆さん!?」
京師は慌てて駆け寄る。広い背中に手を触れると、肺のあるあたりから、ひう──か細い音が震動となって
「消耗の激しい、使用者にとっても危険な技なのです。ゆえに、奥義なのです」
苦笑するも、すぐに彼女は立ちあがる。
「問題はありません。歌帆の特性上、彼はしばらく立ちあがれません。あとは、家に帰るだけです」
ブレスだらけのハスキーな声で断じた。しかし、顔を振り返らせると、
「あぁ。まずは消火が先でしょうか」
いまだに衰え知らずの焚き火を
幕はおりた。しかし、朱く爆ぜている。
「……踊り場に消火器があったっけな」
京師が火消し役を買って出た。眠っていて然るべき今のヒナ高に、この漁火はもうなんの意味もない。幕がおりれば、照明もまた落ちるべきである。
肩で息をする少女と肩を落とす少年を残し、駆け足で階段フロアへの出入口をくぐる。消火器はこの下、踊り場の隅に置かれてあったはず。
1段。
2段。
3段──と、降りた直後だった。
ぎぃ。
背後に、軋む音を聞いた。
同時に、視界が闇になる。
物置の扉が、開いている。
「……え?」
漆黒の扉が、開いている。
それから、厳かに閉じた。
同時に、明るくなる視界。
小柄な女が、立っている。
見慣れたブレザー着に、長い髪、どこかで見たことのあるナイフを右の手に携え、まっ黒な女のシルエットが、立っている。
ふと、その横顔の輪郭が京師を睨んだ。しかし、間を置かずに背中を向ける。そして、屋上を目指し、百目鬼を目掛けて、
(なんで)
影が、光のように駆け出した。
あれは、
(彼女が?)
あれは、桐渓更紗……だった気がする。
【 続 】
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