壱の戦 ≪ 空っぽの男 ~ 副将戦

 




■ 狂犬グループの中層構成員

  京師きょうし わたる ── 続ける


□ 奇人

  巣南すなみ 重慶じゅうけい ── 構える





 ふっと細い息を吐き、


「奥貫先輩がかと思ったのですが、見当違いでしたか」


 ぴくりとも動かなくなった喪服の女から、見限るように背中を向ける百目鬼歌帆。その顔色は血の気を帯びて赤く、血の気が引いて青く、白く、黄色く、蜂の巣ハニカム構造を想起させる不気味な斑模様をしている。


「ミツバチ?」


 グロテスクな顔色に、逆に釘づけになりながら問うも、彼女は、


奥貫晶杯おくぬきあつき先輩は、かつて呉無明流くれむみょうりゅうに所属していたそうです」


 火傷の痛みを匂わせない調子で答える。


「呉無明流とは、今はなき九龍寨城を活動拠点としていたとある中国マフィアの秘伝の暗器あんき術を、ボスと妾の娘とされる武術家、呉静蕾ウージンレイがアレンジ、日本へと密輸した武術体系のことをいいます」


「ジウロンジャイチョン?」


「九龍寨城。平たく言えば九龍クーロン城」


 確か、どの国の主権も及ばず「東洋の魔窟」と称された香港の無法地帯。だが、スラムを極めたこの忌み地も1993年に解体されている。ちなみに、中野ブロードウェイの別称は「日本の九龍城」である。


「もとが狭隘きょうあいな九龍城の中でも遺憾なく発揮されるように考案された究極の暗器術ですので、そのヴァージョンアップ版と考えれば、殺傷能力はもはや想像を遥かに凌駕することでしょう」


 武者震いもやぶさかでない物物しいトーンで説明しながら、百目鬼は京師航の目の前を横切る。そして律儀にも電灯を落とすと、振り返ることなく廊下に出てしまった。慌てて、濃密な女の香りを追う。


「それで、蜜蜂って?」


「ええ。そんな、およそ20年の歴史を持つ超実戦殺法、呉無明流が、近年、恐るべき天才を輩出したと耳にしました」


「恐るべき天才?」


「あの呉老師をもってして後継者と意識させるほどの逸材。その者は女性であり、私とさほども変わらぬ年齢であり、そして胸もとには蜜蜂の刺青タトゥを持つのだとか」


「蜜蜂の刺青?」


「私の知る限り、当校に在籍する生徒で呉無明流の出身者は奥貫先輩のただひとり。ゆえに彼女が蜜蜂ではないかと踏んで楽しみにしていたのですが──」


「該当する力量ではなかった?」


 だいいち、はだけた胸にはなにも舞わず、ただ雪の谷間が広がるだけだった。


「達人、呉老師が認めるほどですからね」


 諦めたように語尾を軽くすると、彼女はすぐに左折。そして、再び慣れなくなった闇夜の中でもそうとわかるほどの、連戦の疲れも感じさせない確かな震脚しんきゃくで4階へのステップを踏んだ。


(蜜蜂ねぇ……)


 初耳である。輓近ばんきん、特に1年生の間から「ちょう」の噂話を聞くことはあるが、実力も定かでない、真偽不明の新興勢力という噂に過ぎない。殺法のサの字も係らない、ヒナ高ならではの風の噂。


(そもそも、ヒナ高は不良の巣窟であって天才の巣窟ではない)


 もちろん、天才に値する生徒はいる。



・ 古武術 ─ 鬼門陰陽流の百目鬼歌帆

・ 大柔術 ─ 巌桐流の桐渓更紗

・ 合気道 ─ 芦屋流の芦屋天之介あしやてんのすけ

・ 八極拳のミネ

・ レスリングの攝津文吾せっつぶんご

・ 喧嘩師のレツ

・ 理不尽な巣南重慶

・ 非常識なジン



 いずれもがその道のプロであり、プロを脅かすセミプロである。しかし、しょせんは彼ら止まり。他の生徒はといえば、天才の座からは程遠い、努力を怠ける与太ばかり。


(蜜蜂ってのは、たぶん別世界の住人だ)


 そうでなくては居たたまれなくなる。


(凡人に天地まで与えないでくれ)


 右往左往の平凡な青春である。仰いだり伏せたりするのはもうしんどい。


『空手家の皆手かいしゅって降伏の証だろ?』


 怨むほどに、しんどい。


「で、第4の関所はどちらでしょうか?」


 踊り場で、百目鬼の素っ気ない質問。


「あ、あぁ、次は、ええと……」


 虚を突かれた京師は慌てて記憶を探る。


 そうこうしている間に、目の前に6畳の階段フロアがあらわれる。三枝虹子の打倒された曰くつきのスペースである。


「次は、3年4組の教室、だね」


 廊下との丁字路を左折し、男子トイレと3組教室を素通りした先が、赤鯨せきげいのレツの教室である。聞けば、先日、狂犬と赤鯨の間に危急のニアミスがあったそうで、その当てつけの童心で3年4組の教室が戦場に選ばれたのだそう。


(童心の意味がわかんねぇ)


 などと水面下でボヤくうちに、百目鬼のほうがわずかにリード、ガイドよりも先に最上階の大地に立っ


「む」


 右足が最後のステップにおりる、その、直前のポーズのままで彼女が静止。


 足首に、蜘蛛の糸のようなものが触れている。簡単には視認できる細さではない、闇に溶けんとするわずかな外光のわずかな反射が報せてくれる細い糸である。それが階段の手摺から横に伸び、対面のはばきに刺さるU字ピンを経て垂直に上昇し、天井へと伸びている。そして仰いだ先に固定されているのは、糸の反射光とは較べものにならないほどに妖しい光を放っている小型ナイフ──あれは確か、


「スペツナズナイフですか」


 旧ソ連の特殊任務部隊が使用していたというナイフである。つばにあるレバーを押すことで内蔵スプリングが作動、刀身が射出される構造の飛び道具。消音装置サイレンサーの台頭によって実戦価値は薄れたが、今でも温故知新の軍事研究理念には欠かすことのできない文化遺産的な兵器である。


「アラミド繊維といい、富裕層の多い学校だこと」


 呆れる脚がトラップを跨いだ。すると次の瞬間、きるっ──なぜか糸の軋む音。それに合わせて身を屈める百目鬼。屈めると同時に、右上から左下に向かって一直線にナイフがけた。


 そんッ。


 その頭部、間一髪の上空を閃光が通過、小さな刀身が手摺の端部に突き刺さる。


 ところが、


「うかッ!」


 確実に回避したはずなのに、百目鬼が、初めて苦悶の声をあげていた。


 京師は見た。階段フロアを折り返した先、さらに屋上へと伸びる階段の奥から、縦に回転する蒼白い光が飛来、彼女の左の後背に勢いよく突き刺さったのである。


「あがぐ……!」


 患部を右手でかばい、大きく背中を反らしながら千鳥足で前進する百目鬼。すると、その背後から、


「ひゆーひひゆー」


 高台の手摺を踏切ロイター板にし、滞空もたっぷりと、隙間風の音色までもが飛来、無防備な背中に躊躇なく着地した。巨大な飛来物の下敷きとなって呆気なく百目鬼はプレス、うつぶせに倒されてプラスチックタイルの床に胸を強打。


 ごぽんッ──破裂したような音が校内に響き渡る。


 飛来してきた塊は前転の受け身を取り、すでに百目鬼と同じ大地に直立していた。巨大な背中をこちらに向け、彫刻のような後背筋をひけらかしている。また、プレスした際に抜いたのか、蒼白い光もすでに手にしている。そして、もう一方の手にも同様の輝きを。


 ほぼ全裸の、異様な風体の小男だった。


 ニッパーのついたポリエステル製の黒いロングガードルだけを穿き、あとは完全に裸である。それでいて、髪は上腕三頭筋に届きそうな黒のツインテール──理不尽と言うより他にない格好だが、こと戦闘ともなればこれが彼のし装備。とはいえ、普段着は普段着で、胸もとのあいたフロアレングスのドレス──レッドカーペットを歩くハリウッド女優のようなのだが。


 狂犬グループの最高幹部にして『奇人』とも呼ばれる、彼こそが巣南重慶である。


「か、か、かか……!」


 負傷した肩でなく、胸を押さえながら、慌てるスピードで百目鬼が立ちあがった。嘔吐するように上半身を折り畳んでおり、あの破裂音から察するに、どうやら呼吸が止まっている。


 仁王立ちで、しばらく彼女の悶絶を静観する奇人。しかし、すぐにペタペタと裸足で近寄ると、やにわに右の刀で上段斬り、左の刀で下段払い、右の刀で上段バックハンドブロウ──生命いのちを奪いにかかった。


 ところが、呼吸停止状態にも関わらず、百目鬼は左手で彼の腕を制し、右の底足ていそくで手首を制し、屈んで空を斬らせた──その連撃のすべてを紙一重で捌いたのである。


 そして素早く巣南の後方へと抜ける。充分な距離を置いてこちらを向く。何度も何度も胸を拳骨で殴り、呼吸器に喝を入れる。


 そんな百目鬼の苦闘を正面に見据えて、


「ひゆーゆゆゆー」


 巣南は、音になっていない口笛を吹く。


「んふーン」


 鼻にかかったバリトンさえも漏らした。


「ぜぇんぶ捌いちゃうのねン、歌帆タン」


 オネエ言葉もまた、彼の日常。


「でもン、いちばん最初のは油断よねン。ワイヤートラップが手動だって、どうして予測できなかったのかしらぁン?」


 バリトンのオネエ言葉──この不気味な組みあわせが兵器である。


「歌帆タンはまぎれもない獅子。でもン、まだまだ比喩の域は出ていないわよン?」


 兵器で嘲り、急に巣南は振り返った。


 たったそれだけの動作で戦慄の身震いをする京師。3段、下の座標でいまだに動けずにいる憐れな彼を、狂犬グループの実質的な統括者の威圧の瞳が鮮やかに見おろす。


 相変わらず、面立ちだけは男前である。日本人離れをして彫りの深い、なんとなし古代ローマ人をほうふつとする濃厚すぎる人相なのである。それから、切り株のような首、分厚い胸板、いびつな腹筋、太い腕に足腰──160㎝にも満たない背丈なのに小柄とは思わせない、圧倒的な重戦車の肉体。


 そんなムキムキの古代ローマ人が、


「ああんッ! 航ンッ! お疲れンッ!」


 にわかに頬を緩めるや否や、ムキムキを打ち震わせて怖気おぞけの走る労い。


 確か、同学年のはずである。


「まぁ、航ンの空手では歌帆タンと肩を並べるのはムリだわねン。とっても戦力外だけどン、でも、航ンの素直さだけはジンに買われてるのよン」


 だから堂堂とあがってらっしゃいン──手摺に寄りかかり、濃厚な顔に不気味なウィンクを弾かせた。


 要するに、使いやすい男だということ。造反する度量はなく、いつだって従順な、ただの人畜無害な歩兵であると。


(駒なら駒って、はっきり言えよ)


 でも口には出せない。出せず、京師は、暗黒の海に放られたような気分になった。


 孤独である。


 孤独が、歯噛みの拳を握らせる。


 直後、巣南の後方で咳が鳴った。嘔吐えづくような爆発的な咳である。見ると、少女の影が五体を丸くしている。何本もの透明な糸を口から滴らせて苦悶に揺れる、ブレザースカートの少女。


 こんな苦痛のために揺らがせるスカートではなかったはず──そう思った。


(歌帆さんは、孤独なんだろうか。埋めてくれる人はいるんだろうか。スカートを、スカートのままに揺らがせてくれるような人が、どこかにいるんだろうか)


 胸の奥が、ぢりっと焦げた。


(……いや、なにを思ってるんだ、俺は)


 苦笑いしてみるも、得体の知れないこの感覚を否定できない。この、まるで妬むような窮屈な感覚を。


(妬む? 誰を? 嫉妬? 俺が?)


「それ、は、ファルカタ、ですね」


 自問の京師を余所に、ようやく百目鬼は言葉を連ねた。長い長い深呼吸をすると、


「スペイン原産の曲刀。斬突に優れ、古代ローマで最も名を馳せた名器。カルタゴの武将、ハンニバルをカンネの会戦の勝利に導いたとされています。後にスキピオ・アフリカヌスに見初められ、以後、ローマ重装歩兵の公式剣として採用されました。さらに、ハンニバルとスキピオとの決戦、ザマの会戦のためとして北アフリカにまで活躍の場を広げたと言われています」


 呼吸器の調子を確かめるように、丹念に解説を続けた。


 曲刀──なるほど、鎌ほどではないが、刀身が弓形ゆみなりに湾曲している。日本刀とは異なり、峰が反っているのではなく、刃のほうが内側に湾曲しているのである。よく見れば、鍔から3分の2までは片刃、そこから刃先までは両刃。全長は約50㎝、短刀と形容するにはいささか長めである。


「そのファルカタは、フォルム、斬れ味、ともに、模造刀には、見えないのですが、もしや、ネット通販でしょうか?」


 再び、息も絶え絶えに、


「しかも、2丁も。だとすれば、もはや、世も末ですね」


 いまだに背中を丸めながらも、しかし、にやりと彼女は頬をしなわせてみせる。


 すると、頭部だけを振り返らせていた巣南が「ノン」と短く否定。


「武器庫を探せばなんだってあるのよン。ロシア製のロケットランチャーだってある時代。末じゃなくて、始まりなのよン」


 京師はその話をニュースで見たような記憶がある。確か暴力団関連の武器庫の話だったか。もしも巣南のその証言が件のニュースに類するのならば、ファルカタの出所はまず間違いなく『理魄祖合会りはくそごうかい』。


 怪獣、鞍馬潮くらまうしおを狂犬グループにスカウトしたのは彼なのだという。しかも力技で。あの怪力無双をいとも容易く屈伏させて引き入れた──特定抗争指定暴力団マフィアの息のかかる男を。


 もしや巣南もまた、理魄祖合会との間にリンクを持っているのだろうか。


「たぶんアンティーク感覚で密輸したんだろうけどン、こんな名器に埃を被せておくなんてもったいないじゃないのン?」


「名器」にアクセントを込めて言う。一見するとゲイのようだが、こう見えて彼は異性愛者なのだという……果たしてそこに愛があるのかどうかは定かではないが。


「武器が武器である目的はン──」


 そう続けて、完全に振り返る。その背中は、まさに大河に流されてすっかりと角の取れた御神岩。


「──あくまでも殺傷でしょン?」


 ツインテールを生やした謎の御神岩が、ペタペタと跫音を立てて百目鬼に近づく。近づくなり、右のファルカタを天に掲げ、ちゃんばらごっこのように、彼女の頚部けいぶを目掛けて遠慮なく振りおろした。


(あ!)


 振りおろしの直前、ファルカタが主人の手を離れた。彼の背後を落下、代わりに、無手むてとなったただの右腕が振りおろされ、空振りとなり、


「くぉッ!」


 なぜか百目鬼が悲鳴をあげた。と同時に巣南、お尻のあたりで手放したばかりの西洋刀を左手で背面キャッチ。さらにその手を休ませることなく、流れるまま、左下から右上に向かって斬りあげた。


 斬られたように見えた。しかしそれは目の錯覚、皮一枚のスウェーバックで回避したようだった。すぐに前傾姿勢に急転、百目鬼はガラ空きの左脇に右の拳を放つ。


 ヒットしなかった。右拳が当たる直前、倒れこむようにして巣南は、彼女の胴体を抱き締めたのである。そして抱えあげて、


「ぁああぁあ!」


 またもや苦痛に仰け反る百目鬼。よもやさば折りごときに悶絶する闘士とも思えず、京師はつぶさに目を凝らす。


 百目鬼の左肩、鎖骨のすぐ下のあたり、なにかが刺さっている。そしてその突端を口に咥え、巣南が捩じこんでいたのである。


 あれは、


(スペツナズナイフ!?)


 咄嗟とっさに京師、視線を目の前の手摺へと移した。そこには、先ほど第2のアラミド繊維によって射出、刺さったままにされているはずのナイフの刀身が……なかった。いつの間にか手摺から抜かれている。小さな裂傷の跡しか残されていない。


(寄りかかったあの時か)


 ウィンクしたあの時か。


 ならば百目鬼の悲鳴は、飛礫つぶてとして投擲とうてきされたナイフが突き刺さったためか。


『持たぬたいを知り、以て持たねば無意味』


(天才め!)


 罠、握りこみ、フェイク、ハグ──そのいずれもが予め計算されていたものだとわかる。じわじわとなぶり殺す計算で、そのすべてを寸分の狂いもなく成功させていることがわかる。ひとつとして失敗させてはならない緻密な図面が引かれてあり、図面にはまだ先があり、そして彼が、ひとつとして失敗させないであろうこともわかる。


 所作から、筋肉から、間合いの取り方から、巣南がすでに持たぬ体を知っていることが理解できるのである。


(天才め。天才め。天才め……!)


 努力する姿など見せず、完成品ばかりを見せつける。それは常に最適な、確実な、完璧な完成品である。凡人にとっての天才とはそういうものである。過程を見せず、結果だけで語らせるものなのである。


 その天才が、人質を取り、人を駒にし、凶器を振るい、しかし拳を使わない。人質を取らなくても、手駒にしなくても、凶器を振るわなくても勝利できるはずなのに、しかし彼はそれをしない。


 天才のくせに、拳も固めず。


(人質を取ってバカにしやがって)


(人を駒にしてバカにしやがって)


(拳も固めずにバカにしやがって)


(こんなヤツに、使われやがって)


(素直にコキ使われやがって)


(いとも簡単に終わらせやがって)


(歌帆さんを……)


「うぐぁああぁあ!」


(歌帆さんを傍観しやがってッ!)


「しぇああああッ!」


 ごッ。


 気合いの咆哮ほうこうとともに、京師の右拳に、懐かしい痛みが灯った。


 硬い巻藁まきわらを突いた時の痛みか。


 組手の胸を突いた時の痛みか。


 あるいは突かれた時の痛みか。


 幼き日日に喜んで宿した、あまりにも、あまりにも懐かしい痛み。


「ひゆーひゆゆゆー」


 知らないうちに、拳を突き出していた。その拳の先には、奇人の後頭部がある。ツインテールの精密な分け目。


(俺、い、いつの間に……?)


 京師は、ここでようやく、自分が、


「なぁにぃン?」


 巣南重慶の後頭部を正拳で突いたと知った。


「あたしがいつ」


 百目鬼を放し、バリトンが振り返る。


「そんなコトしろって指示したぁン?」


 上司の、奇人の、天才の、彫刻の顔がピキピキとヒビを入れながら歪んでいく。それはもはや人の顔ではない。悪魔の顔。サテュロスの顔。スケープゴートの顔。


 身体が細り、


(俺、なんで、なんで、なんで!?)


 心までもが細り、息が詰まった。


「きよぉしわたるぅン……」


 後悔よりも前に絶望が襲いかかり、


「わぁたぁるぅう、う、う、うン?」


 次に襲いかかるはずの悪魔が、なぜか、左の膝をついて沈んだ。


「ン? ン? ン?」


 冥府の瞳が、小刻みに揺れている。


 これは、脳震盪?


「けぁいッ!」


 女の、空気を破る咆哮が轟いた。同時に目の前の巨像が宙に浮く。左の腕を背後に回され、左の太ももを捕らえられ、時計のように、向かって右へと勢いよく側転。


 京師の針も、たちまちに動き出した。


 ごぁんッ。


 重たい振動をあげ、晩夏の酷暑に乾いたプラスチックタイルに左の側頭部が激突。ツインテールは流れ星となって消え、対のファルカタもまた星屑となって散った。


 すべてが、呆気なく終わった。


 現状が飲みこめず、右の拳を突き出したままで固まり続ける京師。


 すると、その拳を、


「なんと……」


 血塗れの少女が、両手にそっと包んだ。


「なんという早まった真似を」


 あの分厚かった声を、


「居場所を、放棄するなんて」


 細かに震わせながら。





   【 続 】




 

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