壱の戦 ≪ 空っぽの男 ~ 中堅戦
■ 狂犬グループの中層構成員
□ 舞姫
白くて分厚い空手着は、その質量よりも遥かに強靭な防具であるはずだった。
なにせ、着ているだけで無敵になれた。皆に一目を置かれ、油断ならないことを脳裏に刷りこませられた。日本人であれば悠久なる空手の歴史を否応もなく想起するだろうし、仮にそうでなくとも、強さを潜在意識に描かせるには充分すぎるほどの
ただの思いこみだった。
『ホントに強ぇのかよオメェら』
同学年の
相手は3人、こちらは2人。
小学生かと問われ「だったら悪いか」と応じたのは加勢、河岸を変えてトークしようやと誘われて乗ったのも加勢である。鼻っ柱の強い少年、数的有利を卑劣に思う気高さもあり、パーカーに斜めキャップという典型的な悪童たちの嘲笑に、つい胸を
神の御前、初手の正拳突きを
Fist? or Twist?──格闘競技界で宿命のごとく疑問視されているこのタブーは、この夕べ、前者が瞬殺されるというひとつの結末を見た。
『オメェに
リーダー格の少年が京師に尋ねる。質問の意味がわからずにオロオロしていると、彼は、京師の手を指さして言った。
『空手家の
『え?』
見れば、自分の手は握られず、心を映すように弱弱しく開かれるばかり。試合ではいくらでも固めてこられた拳が、よもや本番で姿を眩ませるとは。
『ボクちゃんのその空手着はブラフかよ』
京師航、小学6年生の初秋である。
この日を境にして彼は空手を辞めた。プロレス技に沈んだほうは腐らずに空手を続け、見逃されたほうが腐って辞めた。
いや、終わらせたのである。
加勢との交友も終わらせた。会わす顔がないと理屈づけ、終わらせてしまった。
神聖な空手着を無敵の笠に着ておいて、いざ本番に立てばたちまちのうちに狼狽、あまつさえ無意識に拳を開き、その掴みやすいフォルムを活かすこともなくむしろ取りこぼし──そうやって京師は、鍛練の日日も、空手道の先生になる夢も、そして加勢との友情さえも終わらせたのである。
☆
この程度の裂傷は血小板に任せたほうが合理的──だそうで、再び保健室に寄ることもなく百目鬼歌帆は3階への階段を踏んだ。鼻血も、しばし指先でクリップするだけで簡単におさまったようである。
(見映えに
シナモンの香りに血液の匂いが混ざり、わずかに女の匂いを帯びている彼女を背後にし、京師はお気楽な詮索に努める。現実から
「まさかとも思えなくなってきましたが、第3の関所は、まさか……」
階段の踊り場で、ふと、百目鬼が危惧を口にする。京師が冷淡を装って、
「うん。そのマサカだよ」
そう答えると、彼女は珍しく「ち」と苛立ちの舌を打った。
次なる舞台は、彼女の
先日、五十嵐力弥の乱入が要因となり、彼女の積極的な提案で席替えが実施されたのだそう。出入口のすぐ傍だった
「職員室を戦場にすることといい、本当、いい加減にしてほしいものですね」
分厚い叱責。しかし、ただのガイドを自負している京師、
(それはウチの親分に言っとくれよ)
沈黙したまま、ついに3階を踏んだ。
さらに馴染みのない右折をし、馴染みのない2年2組の真横を素通りし──「2-1」──プレートを目におさめて足を止める。
この中に、謎の女、奥貫晶杯がいる。
『
読んで字のごとくの喧嘩術が
キャラクターとして出来過ぎなのである。
髪型も衣装も口調も嗜好も、もはや悪い冗談だと呆れるに相応しい女。つくりこみ過ぎなのであり、また、つくりこみ過ぎていることを自覚してもいる様子──つまり自作自演を本懐とし、常に不自然たらんと心がけているらしい奇妙奇天烈な女。
「
(歌帆さんに似ている)
片や、騙してナンボのくのいち。
片や、演じてナンボの舞台女優。
どちらも、無名であることこそが優秀の秘訣となるエキスパート。しかし、
(似ているけど、違う)
なにかが違う。
どこかが違う。
(で、なにが違う?)
エゲツないこと、自分を見せないこと、悟らせもしないこと──数多くの共通点があるくせに、決定的な相違点が隠れているようにも思える。
が、それがなんなのか、わからない。
(この立ち合いで、わかるんだろうか?)
ひとつ、京師は息を吐く。引き戸の前に歩み寄る。そしてゆっくりと左に開く。と同時に、一面に灯が点った。
「おわッ!」
思わず身体を震わせて1歩後退。
目と鼻の先、灯のスイッチに指をかけ、男が立っていたのである。しかも彼、
「と、冨永……」
案の定というか、全裸だった。
彼の名を冨永理人といい、自他ともに認める奥貫の性奴隷。平素こそ大隣憲次のように無口な男だが、いざご主人様を前にすれば理解不能な言語で
同学年だが彼とは会話したことがない。無口だし豹変するしで、フィットしない人間だということは喋らなくてもわかる。
文字どおりの仁王立ちのまま、宇宙人にチューンナップされたような達観した瞳をこちらに投げかけていた冨永だったが、
「入れ」
奥から聞こえた女の声に黙って背中を向けると、筋肉質なお尻を振り撒きながら泰然と引きさがった。
目配せも忙しく室内へと踏み入る。と、
「京師航よ。貴様はそこまでじゃ。そこに立ち止まって
きんと澄んだ女の声に命令され、京師は入室してすぐに足を止めた。
「今宵は特別に茶でも持て成してやろう。ガイドは一服しながら待っておれ」
黒衣の女がいた。整然と机の並ぶ教室の中央に、しゃんとした背筋で立っている。
喪服である。帯も黒で、鮮やかな紅色の蛾の模様がまばゆい。黒髪はアップ、つるりと撫でるように整髪され、後頭部を黄金の
まさに葬儀の姿である。しかし、帯を舞う紅色の蛾と、わずかに勾配をあげる赤縁の眼鏡が葬祭に対する
Vシネマの未亡人さながらなのである。
冨永こそお熱だが、
(こうも出来過ぎだと逆に色香がない)
畏怖したる幹部という要素を差し引いたとしても、胸の高鳴るポイントに欠ける。
(まだ彼女のほうが……)
そう思い巡らせている背後から、
「あいごめんなさい」
緊張感のない
蛍光灯の下、彼女の顔は予想以上に赤く染まっていた。額の
「本日は手短に終わらせたいのですが」
「そう言うな百目鬼よ。人質は無事じゃ。逃亡が赦されぬだけで、娯楽用具もあればスナック菓子や寝具までも用意してある」
高校3年の女子とは、いや、現代人とは思えない口調の、彼女が奥貫晶杯である。
「至れり尽くせり。今宵は存分に羽根を伸ばしておるぞえ。せっかちは毒じゃ」
摩訶不思議な声質である。低くもあり、高くもある、大正琴をほうふつさせる声。
ぢょろろろ。
見ると、窓辺で冨永が、全裸のままで急須の茶を立てている。
(なぜ全裸……)
今いち教室全体が緊張感に欠けている。というか、
(動揺がないのか歌帆さんには!?)
男の全裸を前にして、この威風である。特段に動揺は見られず、むしろ同性である京師のほうが目のやり場に困るほど。
喪服の女と全裸の男、そして血塗れの女が会する謎のお茶会。きっと東京ビッグサイトのアニフェスでもお目にかかれないだろう、オルタナティヴな光景。
(なんだコレ)
「なるほど」
わずかな沈黙を破り、百目鬼が柔らかく口を開いた。
「私の毒をお気遣いですか」
眉と瞼の間を広く空け、なんだか呆れているようにも見える。
「痛み入りたいところですが」
「不服か?」
奥貫はまだまっすぐに立っている。
「お主とは今しばらく話しあいとうてな。なにしろ、ようようこの土俵にまで赴いてくれたのじゃ。片想いが実ってさっそくのセックスではあまりにも品がなかろ?」
すると、百目鬼は胸もとに右手を当て、こう切り返したのである。
「この手入らずの
「手入らず」も「産子」も、確か性行為の未経験者を指すスラングだと憶えている。思わずぎょッとする京師。しかし彼女は、
「それに、順を追ってのセックスは野暮の極みであるという熟練者もおられます。実りし先の激烈なる確かめあいもまた人の品性を示唆する聖なる側面である──とも耳にいたします」
不敵に口角をあげ、
「品とは、互いの親和性を証言するための助詞に過ぎません。十人十色が交わる世においては、助詞は助詞。誰に一元化できるものでなく、互いの共通認識に止まって然るべき概念……であるからして」
牙をちらつかせる。
「我が品性に照らすは貪りあうセックス。ですが、奥貫先輩の品性はそれとは異なるご様子。さてはて、ならばどこに妥協点を見出だしましょうか?」
紅みを帯びた獣牙。
「ただし、私は今、シたくてシたくて辛抱ならない状態です。ほんのわずかな理性が
どこからがくのいちでどこからが百目鬼歌帆なのか測り兼ねる。狂言と本音との境界線がわからず、つまり未通なのかどうかさえも疑わしい。それとも、
(あの牙が本質なのだろうか?)
「……今宵のお主は弁が立つのぅ」
おもむろに腕を組み、奥貫もまた怪訝の角度で口を開く。
「1を認知して10も熟知したようじゃが、よもやあの時の足で面接を受けに行ったわけではあるまいな?」
それがなにを意味する台詞か、京師にはわからない。ただし、どうやらこの両者、初対面でないらしいことだけはわかった。
「いいえ。残念ながら」
と、そう言うや否や、右に目を向けて、
「持て成すならば持て成す。持て成さないならば持て成さない。はっきりなさいッ!」
いきなり、叱りつけたのである。
肩をすくませて見れば、お盆に湯呑みの茶碗をふたつ乗せて固まる全裸の冨永。
気が滅入るほど黒ずんでいる局部をモノともせず、百目鬼は続ける。
「茶で持て成すと言ったご主人様の意向を無視して、いったいなにをぼんやりと立ち尽くしているのですか!?」
それから、再び奥貫に視線を向け、彼女の奴隷を右の
「どうやら、彼はあなたが信じているほどには忠誠心に厚くないご様子。お茶酌みも、全裸も、しょせんは自分本位の自慰精神に従っているに過ぎないご様子」
嘲笑。
この瞬間、目を丸くする冨永。そして、旗色の悪そうな流し目でちらりと彼を見る奥貫の姿を、京師は同時に見た。
場が動く──そう感じた。
「命令のひとつも
「黙れッ!」
破裂した怒声が響き渡り、
「よさんか冨永!」
ご主人様の命令も虚しく、
「黙れ黙れ黙れ黙れッ!」
絶対的なこの奴隷、お盆ごと、いまだに湯気の立つ茶碗を百目鬼の頭上に放った。それと同時、にわかに駆け出す。
百目鬼は、回避しなかった。
しかと飛沫を目で追いながらも、彼女は微動だにせず、頭から、熱湯を受け入れた。
びしゃんッ。
「歌帆さんッ!?」
熱い……はずである。湯気はもうもうと立っていた。間違いなく熱いはずである。
こわん。お盆が床に弾ける。かしょん。湯呑み茶碗が床に砕ける。その手前、一糸まとわない冨永が拳を振りあげると同時、
(フランケン──)
固く挟まれたままの冨永の頭部はバック転に牽引され、引っこ抜かれるようにして前方宙返りを余儀なくさせられ、百目鬼がうつぶせに着地するのと同時に、
(──シュタイナー)
ごんッ。
『フランケンシュタイナー』
ブレーンバスターやD.D.T.と並び、少しでもプロレスを知っていれば否応なく目の当たりにする技のひとつ。
しかし、ここはプロレスの道場でなく、況してやマットの上でもない。CRの上にプラスチックタイルを貼っただけの、受け身でさえも
と、素早く寝返りを打って仰向けになる百目鬼。下半身を天空に振りあげ、返しの反動で雑技団のように起きあがる。
「そういえば奥貫先輩。確か、私のことを主賓だと仰有いましたね?」
湯気は、いまだに晴れない。
「主賓とは、重立った大切な来客のこと。決して失礼に当ててはならず、
ゆらぁり。殺された跫音を踏み出す。
「その主賓に茶を浴びせるとは、なんという失礼でしょう」
初めて奥貫がわずかな前傾姿勢を取る。イチャモンで来たか──薄い唇が苦笑いを象る。
「この世は十人十色です」
机と机を一直線に擦り抜けて百目鬼は、未亡人の前まで歩み寄ると、
「優しい客があるのならば赦さない客もありましょう。そして──」
素早く左手を抜刀し、喪服の右の
「暴力に及ぶ愚客も」
「しえッ!」
刹那に奥貫、左手を頭上に跳ねあげた。いつの間にか銀色の棒を握り締め、頭上でくるんと回転、その突端を、湯気の天辺を目掛けて振りおろす。
(
百目鬼、捕縛の左拳をちょこんと突いて襟を解放。ただそれだけの運動だが、棘を
ぱぁんッ。
「がッ!」
左の頬に、鮮烈なビンタ。
赤縁の眼鏡は呆気なく吹き飛び、対の峨嵋刺も手放させられ、バレエのように1回転する奥貫。さらに、百目鬼は休むことなく、しぱぁんッ、
「ぅヤッ!」
右の頬をビンタ。ハネられて踊る舞姫。その左の頬を遠慮なく迎える右の掌底。
ぱがぁんッ。
右に踊って迎撃され、左、右、左、右、左──容赦ないビンタの嵐。
ばかッ。
フルスイングである。
膝が抜ける奥貫。それでもなお百目鬼はビンタを止めず、渾身の掌を打ちおろす。乾いた音は響き、弾みでついに横たわるも、今度はアンダースローの追い討ち。滑るようにして吹き飛ばされる華奢な喪服。
どう考えても過剰暴力である。それでも百目鬼は大股で追いかけ、乱れた髪を握り締めて無理矢理に立ちあがらせる。きんッ。床に落ちた簪をわざわざ踏みつけて
「ヤ、ヤ、ヒャ、め、て……!」
もはや虫の息、腕もあげられないほどに消耗した舞姫の、その紫色に腫れあがった左の頬を目掛け、しゅぱぁッ──鬼のビンタ。
(いや、牙だ!)
悠然と、優雅に、自作自演を誇ってきた理不尽の舞姫が今、激しくも無様な
髪は海藻のように四散し、草履は消息を絶ち、帯は太ももまでズリ落ち、
「奥貫先輩」
前傾姿勢のまま、鬼の背中が口を開く。
「私の毒などどうでもよいのです」
疲労か、憤怒か、肩を大きく上下させ、
「人質である少年の心に毒が宿るという、ただひとつのところに考えを巡らさず、至れり尽くせりだのと偽善を口にするその自分本位な浅慮を私は
なおいっそうに襲いかかりそうな気迫を
「心を察してこそのSMであるのならば、奥貫先輩──あなたこそ赤児です!」
天雷の説教に京師は悟った。百目鬼と奥貫の決定的な違いを知り、だからこその奥貫の敗因を知り、そして、
(牙……か)
再び固められていく己が拳を知った。
【 続 】
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