弐の戦 ≪ 寒い女 ㊦

 




■ 陽向ケ原高校2年1組の生徒

  次原つぎはら 伊織いおり ── 続ける





 地下劇団『EUPHORIAユーフォリア』。


 太公望歩帆たいこうぼうほほは、その主宰である。


 団員20名程度の小劇団だが、横浜市内の名だたる大企業が谷町スポンサーとなっており、尊崇するコアファンも多く抱える。口コミ情報として「ある種の宗教である」とまで評されるほどの人気ぶりで、特に、主宰者であり看板女優でもあるこの少女のことを「カリスマ」と呼ぶ声は多い。


『EUPHORIA』には、さらにもうひとつ、特筆すべき特徴があった。それは、劇団員の過去に必ずがあるということ。


 逮捕歴を始め、自殺未遂歴、被DV歴、自己破産歴、依存症歴──少女時代に堕胎を経験した者もいる。そして、本来であれば隠匿されて然るべき傷を、むしろ公表することで劇団全体のセールスポイントへと昇華させ、延いては活動の糧としていたのである。


 普通に考えれば、敬遠されても可笑しくないセールスポイント。しかし、つまり尊崇されるに相応しい特異なカリスマ性を太公望歩帆が有しているということか。


『入団は不成立か』


 もしや、次原伊織は劇団員として青田買いスカウトされていたのかも知れない。それこそ、母親に守ってもらえなかった憐れな娘として、その心の傷を歩帆に買われていたのかも。まさに値踏みをされていたのかも。


 あの後、ネットで集めた情報からそのように推測したわけだが、ならば、歩帆自身の発したように「見込み違いだった」と言わざるを得ない。恐らくは役不足にも違いないであろうことも。


「あの調子なら退院は早いかも。というか、医者が止めても退院しそうな予感」


 賢いおバカさんを、あの黒い少女は買い被っていたのである。そう思う。


「すでに内緒で抜け出してたりして」


 あれから、歩帆とは会っていない。多少なりにも興味が湧いたのだから、あるいは次原の胆力をもってすれば横浜にまで会いに行ったとしても不思議ではない。しかし、


「病院を抜け出して稽古してそう」


 母親を守るという宣言にちゅうを尽くすことで手一杯だった。6年生に進んでも、中学にあがっても、かつてのお気楽な母親へと戻ることはなく、口数は少なく、何事にも慎重で、消極的で、見る影もなくなって、だからこそ次原は「守る」という意志を深め、励んでいった。なんでもない冗談に笑みを浮かべれば殊更に嬉しく、いつ襲ってくるとも知れぬ見えない敵に、ますます警戒心を強める日日。ますます尖る日日。


 会いに行っている暇などなかった。


「自作の漢方薬でどうにかしてそう」


 だいぶん良くはなったが、いまだに母親は日陰にいる。密かにパート勤めをしているものの、巷説を恐れてか、友人を見つける気配はない。定時キッカリに帰り、わずかな余力だけで夕飯を作っている。もしも交友が富をもたらすものであるのならば、もはや彼女は後ろ向き、振りこまれる幾許いくばくかの養育費がなければ、次原家はとっくに破綻していたかも知れない。それほどの、


『アクションを起こさないバカ』


 革命的な思想の変化パラダイムシフトが起きたのである。


 現状、次原は母親を守っている。公開処刑は呆気なく終息したし、だから被害を生むような事件にも発展していない。少しずつではあるが笑顔も取り戻しているし、結果的に守っている状態は保たれている。


 ただ、それは「Time Will Tell」のことわざに過ぎないようにも思える。次原が努力して手に入れた平穏ではなく、時間が治癒しているに過ぎないのではないかと。たまたま公約を努力するような有事に陥っていないだけであり、つまりはラッキーなだけであり、もしや次原には、そもそも誰かを守るような力なんて備わっていないのかも知れない。有事を前にすれば、一瞬にして滅ぼされてしまうのかも知れない。


 公約を打ち出したあの日から、次原は、そんな不安と密かに戦うこととなる。


『守る』


 このキーワードを思うたび、彼女の心は冬になる。炬燵こたつに伏せる母親をただ恐怖のまなざしにおさめていた、あの、寒い寒い冬である。


 不安と戦い、尖っていく。尖った先には敵がいて、喧嘩を買い、または売り、その幾人かとは友人になった。友人になれば、そこは次原伊織という人間の天性、守りたいと思う。ましてや母親に対する不安があり、当てつけるかのように守りの志を固めた。もしや守る力なんてないのではないか?──不安が不安を呼び、心が冬になり、だから熱くなって、躍起になって守ろうとする。


 歩帆と出会ってから、次原のヤンチャさには、そんな、葛藤のようなメカニズムが生まれたのである。ただ気に入らないから盾となり、矛ともなるという単純な動機はもはやセンチメンタルな思い出の彼方。


「カンポー……か」


 ついに話題が尽きたか、自嘲のような、たわんだ笑みを浮かべて国仲凛輝美くになかりるみが項垂れた。一昨日の未明、タクシーで病院を訪れるや否や、エントランスの窓を蹴破ろうとした女である。当直警備員に見つかり、寸でのところを拿捕だほ、あげく警察に引き渡されて事情聴取を受けたほどの女である。親友を想うあまりの衝動ということで酌量され、辛うじて事なきを得たが、清楚な風貌に反してヤることはヤる女である。しかも、聴取されたその日のうちにテロをしかけた病院を平然と訪れて見舞う──愕然とするほどエキセントリックな女なのである。


 清楚なのに愛嬌のある不思議な女、国仲凛輝美。彼女を狙う男がいなかったわけではない。今春にも、出水とかいう、世界の中心で「I」を叫んでいるかのような、切羽つまった1年坊が狙うことがあった。


 蹴りが、通じなかった。


 裏拳でなされた。


 あの一時をもって、なぜかもう出水はあらわれない。つまり、現時点では、国仲は守られていることになる。


 でも、たぶん次原の功績ではない。


 往なされたのだから。蹴りが、守るという方法が、通じなかったのだから。


 五十嵐力弥にも、通じさせる手前、言葉で往なされた。どんなに睨んだところで人を殺傷することはできない──現実論のほうで往なされた。


 三枝虹子との喧嘩の際には、助けられた。あろうことか、守られて然るべき脆弱な国仲によって、助けられたのである。


 ずっと、寒いまま。


『結果を恐れる日が訪れるかも』


 小5の冬、あれからずっと、寒いまま。


『特に、女性には、いずれ』


 陰湿なイジメを秘める問題小学校を経験した。思考能力の弱い不良ばかりが集まる問題中学校を経験した。そして、都内では唯一だろう、逮捕者すらも輩出するような超問題高校、ヒナ高を経験している。暴力沙汰に対する免疫力はできているし、ちょっとしたことで怯むようなメンタルをよもや持っているはずもない。


 でも、年年、誰かを守れるような強い人間でなくなっているとも痛感している。年年、実践的な喧嘩術を有している女のほうが明らかに有利になっていくし、もとより、男の体力には絶対に敵わなくなっていく。


 でも、でも、やっぱり怯むメンタルなど持ちあわせていないし、持ちたくないのである。親友のピンチとあらば義憤の防具となりたいし、武器ともなりたいのである。そうした自己犠牲を引き算し、他の強者に警備を委託して、安穏と構えていられるような自分を自分で教育した憶えなど、これっぽっちもないのである。


 でも、でも、でも、通じない。唯一、次原のおバカな頭脳が信じている「守る」という方法が、どんどん通じなくなっている。小学生時代には通じたのに、中学生時代にも通じたのに、高校に入った途端、まるで桜が散るように通じなくなった。


 結果が、出なくなった。


 いや、もともと出ていなかったのかも知れない。出ていると錯覚しているだけであり、その実、ラッキーな展開の中に置かれていただけなのかも知れない。なにしろ、次原は女性なのだし、だから、手加減されていただけなのかも。


 出水が追い討ちをかけていたら?


 五十嵐が手を出していたら?


 国仲があらわれなかったら?


 その先、誰を、どうやって守る?


『それで……守ろう?』


 途方に暮れる。


 次原は、あまりにも弱い。


 でも、守りたい者がいる。


 でも、どんどん弱くなっていく。


 でも、それでも守りたい。


 でも、きっと、守れない。


 でも。


 でも。


 でも。


「守る……って」


 母親も、こうやって伏せたのだろうか。


 でも、でも、でも──と、翻りながら。


 否定と肯定を行ったり来たりしながら。


 自負と諦観を行ったり来たりしながら。


 希望と失望を行ったり来たりしながら。


「守るって、なんだろう?」


「え?」


 頭がもつれ、思わず呟くと、すでに話題を失って黒髪の先を確認するだけとなっていた国仲が、発作的に怯えの目を向けた。やっぱり元気を装っていただけらしい。如才なく、批判を恐れることなく普通の女子であろうとする、次原には真似のできない健気な人間であることが容易にわかった。


 そんな彼女が、愛しい。


 むっと口を真一文字に結び、わずかに姉崎記子あねざききこがうつむくのも見えた。読めない女、しかし、相手の気持ちはよく読んでいて、読んだ上で自由に放してくれる。その先が喜びならば少しだけ嬉しそうな顔をする。焦りならば少しだけ難しそうな顔をする。怒りならば少しだけ逞しい顔をする。そして悲しみならば、少しだけ困った顔をする。鏡のように、一緒に揺れてくれる。


 そんな彼女も、愛しい。


 残暑に項垂れる次原の傍ら、肩を並べて同じ泣き言クレームを叫ぶ国仲の姿。背後には、透明な鼻歌を余所見させながらゆったりとついてくる、意外とタフな姉崎の姿。そして遥か前方には、暑さこそ無上の喜びとばかりに生き生きと張りつめている逞しい背中。だから、たまには振り返ってほしくなり、その背中を下ネタで突っつく。真顔で受け応える少女。調子に乗って下ネタを重ねる国仲。またも真顔で斜め上の珍回答を返す少女。興味津津に追い討ちをかける姉崎。鉄板のやり取り。もう爆笑しか生まれなくなり、そうなればコッチのモノ、身を焦がす残暑なんてどうでもよくなる。爽やかな薫風の吹く、モスグリーンの帰路になる。


 そうやって歩いてきた。


 4人で歩いてきた。


 愛しい国仲。


 愛しい姉崎。


 愛しい歌帆さん。


 そんな、愛しい日常。


 そんな、愛しい居場所。


 そんな、愛しい生存証明レゾンデートル


「いや……」


 だから、守りたい。


 ただ、守りたい。


「なんでもねぇ」


 それだけ。


 それだけのこと。


「ちょっとヤめてよ伊織」


 愛しければ、守りたい。


 たったそれだけのこと。


「あんだよ?」


 でも、でも、でも……。


「なんで急に涙目なんだよリル?」


 永劫の真冬。


「だって、伊織……」


 だって、たったそれだけのことが、


「伊織、伊織……なんで泣いてんのよぉ?」


 次原には、もう、できそうにない。





   【 了 】




 

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歌帆さん ① ~ Sick And Tired 七瀬鳰 @liolio

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