漆の戦 ≪ 牙を剥かれた男 ㊦

 




■ 狂犬グループの下層構成員

  寄居よりい 枝忍しのぶ ── 続ける





 集団による殴る蹴るの古くさいイジメを受け、耐えきれずに全力疾走で逃げ帰ってくる小学生の寄居枝忍を、厳格な父親は頭ごなしに叱りつけたものだった。


『逃げるとはなにごとだッ!?』


 どんな手段を用いてでも自力で戦うことを彼はよしとした。戦いに至る心の手順プロセスにはいっさいも触れず、常に結果オーライの精神論を説き続ける。そんな非論理的な熱血漢の叱咤に対し、しかし、ひとり息子は黙って枕を濡らし続けた。


 勇気を出した。後にも先にもないだろう勇気を振り絞り、担任の先生に内情を打ち明けたのである。


 すると、眼鏡姿の理知的な彼は、


『まぁ、調べておくよ』


 被害者を前にしてイケシャアシャアと口遊み、その実、実態調査に及ぶ気配も見せないままに以降もイジメ問題を放置し続けた。


 父親は責め、担任は避け、ふたり揃って幼い寄居の味方にはなってくれなかった。


 誰も頼りにならない。しかし、自分自身もまた頼りにならない。もう相談する縁故コネはなく、抵抗する体力もない。現状維持だけが良策であり、あるいは寄居自身の人生を断つより他に生きる術がない。


 それでも、小学校を卒業するまで彼は絶望と肩を並べた。安楽ともされる後者ではなく、苦しく、狂おしいだけの前者を選んだ。そして、恥を恥と、無念を無念とも思えない麻痺した感受性を棟上げし、あくまでも沈鬱なままに中学校へと進んだ。


 リセットされた新天地。しかし、麻痺した寄居の感受性は新天地さえも継続の大地と錯覚した。教室に馴染めず、無愛想で、吃音きつおんだらけで、卑屈で、みんなから気味悪がられた──彼にはそう見えた。ゆえに全員が敵に思えてさらに馴染めず、孤立するのにそう時間はかからなかった。


 イジメっ子のせいなのかも知れない。


 父親や担任のせいなのかも知れない。


 いや、自分のせいなのかも知れない。


 わからない。


 誰がこんな、気弱な、卑屈な、愚昧な、引き返したいのに引き返せない、断ち切りたいのに断ち切れない、抗いたいのに抗えない体質にしたのか、その嚆矢こうしはもうわからない。わかりっこない。


 そう、だからこそ、


『逃げればいいじゃん』


 わかると期待し、きょうちゃんを試したのである。憐れみの顔を気取り、後にも先にもなかったはずの勇気を出したのである。


『隷属は、いつも、善良なんです』


 逆説的善良。


 同胞だと思ったのに。


『でも、それは、私には……んです』


 こうも容易く牙を剥かれるとは。





     ☆





「いずれにせよ」


 瞼を弛緩させ、眉をあげ、まるで飽きたような顔で狐女が言う。


「もう喧嘩はムリだろうよ」


 狼のほうもまた、寄居なんて最初はなから眼中になかったかのように広い背中を向けると、子供たちを起立させた。そして、不動尊のアルトサックスで「今夜はここで散会しましょう」と聞かせ、


「新宿は再び享楽的な週末を歓迎するはずですが、あなた方は日曜出勤の警備員や内装業者、生鮮食品を捌くパートタイマーの主婦を見習いなさい。仮にあなた方の未来に軌道修正の試練があるとすれば、得てして諸先輩の汗に秘訣が宿るものです」


 凛然と説教。


 そんな狼をちらと狐が一瞥。なんだかなぁ──とでも言いたげに、眉間に縦皺を寄せ、口を半開きにして呆れの表情をこさえる。


 狐といい、狼といい、わらしたちといい、寄居の苦痛に対してはひとひらの同情もない。唐変木の扱いであり、新宿の酔いどれサラリーマンの扱いである。まったく見慣れた様子で、お情けの視線で照らしてくれる者など誰もいない。


 そんな、見慣れた風景のようにされてしまった自分自身を、彼は、恥ずかしいと、情けないと思えないでいる。


「アリー」


 ふと、首だけを背後に振り返らせ、狐が大きく呼んだ。


「ちょっと来い」


 すると、ジャージを羽織ったりバッグの中身を確認したり、冷静沈着に帰り支度を始めている子供たちの向こうから、


「チョットやソットじゃ来れない!」


 薄荷ミントの声が飛んできた。


「臭いがぜんぜん取れないのよッ!」


 わずかにハスキーだが、低音部がほとんどなく、中高音域だけでできている女性の声である。例えば、フルートがそうだろうか。


「いいから来てアリー」


「よくないから拒否ってんでしょ!?」


「よいと思いこめ」


「執着心、ナメんな!」


 首を起こして薄荷のするほうを見る。


 およそ20畳の室内はミラー張りだった。壁一面に巨大な鏡のひしめきあう様子は、まるでダンススタジオのよう。また、前方にはラックが据えられ、ラジカセ、雑誌、消臭剤などが整然と置かれてある。その真上の天井付近には、白い横断幕に能筆な筆文字で、


『Antes tarde do que nunca.

 O importante é variar.

 Quem ri por último ri melhor.』


 どこの国の言葉なのかわかるはずもない3つの文章が並んでいた。経営方針なのか、教育理念なのか、あるいはただの諺か。


 視線をさげる。ラックの右側に、扉のない通用口があった。その奥には天台、下台、食器棚が見られ、もしや給湯室か。


「どんだけ洗っても酸っぱいんですけど。これ錯覚!? 鼻の錯覚!?」


 薄荷の主は、その給湯室にいる。


「もうゲロやだ。なんであたしが……」


「錯覚だから諦めろ」


「脳、ナメんな!」


「とりあえずアリー、車を用意して?」


「ああッ!? クルマってナンデスカ!?」


「Carro」


「くッ……!」


 歯噛みしながら、ここでようやく女が姿をあらわした。


 20歳前後だろうか、外国人女性だった。


 卵型の小さな頭、細く吊りあがった眉、大きく爛爛と輝く垂れ目、高く立派な鼻、ぽってりとして柔らかそうな唇、日サロのものとは明らかに異なる褐色の肌──南米人特有の強気な面立ちだが、憎めない愛嬌のよさも感じる。アッシュの髪をうなじの左右で結わえ、それがいかにも活発そう。170㎝に届かない背丈にゆったりとした深緑色のジャージをまとっているが、恐らくは痩身だろう。


 通用口の額縁サッシに寄りかかり、負けず嫌いそうに左の眉をあげ、


「鍵、渡すから、美帆みほさんが用意すれば?」


 ポケットから銀色の鍵を取り出す。コレ見よがしにぢゃらぢゃらと振り回す。が、美帆と呼ばれた狐女は素っ気ない。


「あたし無免許」


 間を置かず、子供たちまでもが冷静に、


「持っているのはアリーだけ」


 斉唱ユニゾン


「ふぬぐ……!」


 すると、美帆が寄居を向いた。


「こいつは師範代のアリソン・ミラー。いまだかつて彼氏がいたことのない奇蹟のブラジル人。在日12年目でそろそろ母国語を忘れ出した21歳。愛称こそアリーと可愛らしいものだが、日本人男性がタイプで、彼らを目の前にしたとたんに鼻息が荒くなるという不治の病に冒された永遠の独身女」


 ぢゃらぢゃらぢゃらぢゃら。


「ちなみにあんたのゲロを片づけたのもアリー。鼻の穴を満開にして悦んで極地へと飛びこんだ。地球上でも類を見ない究極にオルタナティブなドMであり、もはや市販の鞭でさえも物足りない」


 それを聞いて狼女、


「鞭ですか!? アリーさんによもや拷問を嗜むご趣味があったとは。長きに渡る交友と思っていましたが、安易に知られる関係など存在しないのでしょうね。いやはや、コミュニケーションとはに奥深い……」


 ぶつぶつと勝手に結論づけながら、子供たちを見送るのか、玄関の向こうへと消えた。


 ぢゃらぢゃらぢゃらぢゃら。


「んんッ」


 咳払いをひとつして、美帆が続ける。


「とにかく、あんたの脚が心配だ。そこにいるドMのアリーが献身的に病院に連れていってくれるから甘受しろ」


「なに!? あたしが連れてくの!?」


 ようやく鍵を拳におさめてアリソン、


「こいつの顔を見ただけでゲロ臭が蘇ってくるんですけど!?」


 失礼なことを言う。


股座またぐらを濡らしながら掃除してたクセに」


「濡らすか! 美帆の命令でしょうが!」


 すると、ひとりまたひとりと帰路につく子供たちの中、おかっぱ頭の幼女が振り返った。そしてアリソンに向け、こう告げたのである。


「でも、自動車を運転できるのはアリーだけよ? 彼、早くしないと痛いだけでは済まなくなるわ。適材適所って、どんなに自分が嫌だったとしても、行動しなくてはならない覚悟のことを言うのよ?」


 くりっとした円らな瞳、いぼのような小鼻、頬骨を隠す頬──ふくよかな「 πパイ 」が顔のすべてに散りばめられている幼女である。


「覚悟って、自分にとって、いつも幸せなものとは限らないの」


 首から下を玄関へ、頭をこちらへ向け、腕をだらりとさげたまま、桜色のバックパックに背負われた幼女がミルキーな声で告げる。まるで天使の警告である。


「自分の幸せは、自分以外の不幸せを瞳から外すわ。つまり、自分にとっての不幸せが、自分以外の人にとってどういう幸せなことなのかと考えることが、覚悟よ? あたしは、それをしなかった人から産まれた。もしもアリーまでそうなのだとしたら、あたし悲しいわ」


 警告だが、脅迫でもあった。すっかりと気圧けおされ、アリソンは氷像と化している。


 彼女は、鏡ちゃんは、覚悟していたのだろうか。自分の幸せを殺し、暴力彼氏の幸せを考えていたのだろうか。


『隷属は、いつも、善良なんです』


 麻薬的惰性のようにも受け取れるけど。


『でも、それは、私には……愛でしかないんです』


 覚悟したのだろうか。


 そんな覚悟が存在するのだろうか。一途で、献身的で、しかし自分にとって悪循環しか生まないような、そんな覚悟が。


『愛というヤツは綺麗事で簡単にくくれる代物ではない』


 だから「愛」を口にしたのか。


「人間の身体は、水よ? 少しでも雑菌が入ったまま放置されたら、たちまちのうちに腐ってしまうわ。病院に連れていける人がいない時のための救急車であって、連れていける人がいるのなら、その人が早急に病院に連れていくべきよ。怪我や病気に対しては、短兵急たんぺいきゅうであることだけが正しい配慮なの」


 幼女とは思えないロジックで締めくくると、彼女は再び帰路の歩みを踏み出した。


 慌てて寄居、


「あ、あの!」


 両肘をつき、わずかに上半身を起こして幼女を呼び止めていた。


 ビー玉の瞳が振り返る。


 円らだが、触れなくとも斬れるとわかる、刀のような眼光。


「俺は、今……」


 触れないように、怖怖おずおずと尋ねた。


「可哀想に、見えるかな?」


 なにをどう尋ねたいわけでもなかった。彼女の言葉をもう少し聞いていたいだけだった。説教を求める仔羊の気分だった。だから、質問で取り繕った。


 すると、幼女は首を左右に振り、起伏のないおかっぱを羽根にする。


「ここでは、可哀想という言葉ほど人間を馬鹿にする言葉はないのよ?」


 ここ──とは、歌舞伎町のことなのか。それとも、彼女たちのような境遇の子供が住んでいる世界のことなのか。


「懸命な人を馬鹿にはできないわ」


「け、んめい?」


「だって、あなたは怪我した脚でここまで来たのよ? それは、怠けた人にはできないことなの。どんなに強要されたとしても、恐怖に屈したことは褒められないけれど、懸命に歩いて来たことは事実なのよ?」


 懸命だと言うのか。


「だから、馬鹿にはできないわ。そしてだから、馬鹿にしないで、歌帆さんもまた真剣に向きあって戦ったの」


 認めてくれるのか。


「あなたは──」


 肯定してくれるのか。


わ」


 それから、幼女は「じゃ」と告げ、あくまでも無表情のままで扉をくぐった。


 寄居も、おもむろに身体を起こす。


 右の膝には包帯が巻かれてあった。息が酸っぱくてわからなかったが、そういえば生ぬるい軟膏の匂いもする。あるいはそのおかげか、今、痛みはさほどでもない。


 車、取ってくる──バツの悪そうな顔でアリソンが動き出したが、


「いや。いいです」


 止めた。


 病院に行く前に、為すべきことが生まれた。


「自分で行きます」


「ヤ、そうは言ってもだな」


 久し振りに美帆が口を開いたが、


「ご迷惑は、もう……」


 にわかに立ちあがる。慌ててアリソンが駆け寄り、腰に手を回して支えてくれた。


 猛烈な薔薇ローズの香り。


 腕組みをして様子を看ていた美帆だったが、


「アリー。とりあえず階段をおりきるまで介助してやれ」


 指示。寄居は薔薇に包まれながら部屋を縦断し、すべての生徒を見送ったばかりの扉を抜けた。同時に、こちらも送迎を終えたばかりの狼女があがってきて、鋭い眼光でちらと一瞥。しかし、なにも言葉をかけずに道場へと入っていった。


 薔薇にシナモンが混じり、軽い眩暈。


 手すりに引っ張られるようにして階段をおりる。そしてそれを無理矢理に引き剥がすような、甲斐甲斐しさもどこかラテン系のアリソン。易しくはないが、優しい。


 ようやく外に出た。


 歌舞伎町の芳香パルファムを新鮮に感じる。だからか急に煙草を吸いたくなったが、


「包帯は、ちゃんと効いてるかな?」


 ひとりごとのようなアリソンの気づかいに、怠惰な気分転換の欲望はすぐに萎えた。


「あたし、大雑把な性格だから」


「君が巻いてくれたの?」


 尋ねてみるも、ちょっと気障きざな言い回しだったかな──慣れない気づかいに戸惑い。


 するとアリソン、


「馬鹿にして、ごめんね?」


 前方の路面に視線を落としたまま謝る。照れくさそうに含羞はにかみ、人さし指で鼻先をかいてみせた。


「ここの子って、みんな大人なんだよね。貧民街ファベーラで育った身だけど、あたしはなんにも学んでこなかった。むしろ、貧しい自分を可哀想だと思ってばかりだった」


「俺、昔、気になる子がいてさ」


「え?」


 有料パーキングの街灯がまぶしい。


 もう、くらくはない。


「お互いに暴力を受けてた側だから、勝手に彼女のこと、同胞だと思ってた。可哀想であることを共有したかった。だけど、そうじゃないって牙を剥かれて……」


 目を細める。


「フラれて。それで、やる気をなくして、ただ流されるままに生きて、不良グループに捕まって、今日もまた、流されるままに、ここに来ちゃったんだ」


 脚は痛むが、まぶしいから痛くない。


「牙のない自堕落な俺のせいで、歌帆さんにも、美帆さんにも、道場の子供たちにも、君にも……アリーにも迷惑をかけた。そうやって、みんなを馬鹿にした」


 そう、鏡ちゃんが、まぶしかった。


「迷惑をかけて、ごめん」


 寄居の苦悩を払拭してくれていた。


「馬鹿にして、ごめん」


 どれだけ理性で継ぎ接ぎにしていても、それは、寄居には、


「ごめんなさい」


 


 今もまだ続く、淡い初恋。


「ありがとう。ここからはもう……」


「ホントに大丈夫?」


 険しい上目づかいで、アリソンが問う。


「あたし、今、病院まで連れていきたい気持ちでいっぱいだよ? 援護するよ?」


 まぶしさを宿した瞳。


「あたし……強いよ?」


 その言葉に、さらに痛みが引いた。


 鏡ちゃんが弱い人だったのか、強い人だったのかはわからない。しかし、ひとつだけ言えることがある。


 それは「寄居が弱かった」。


 連れていきたい気持ちもなく、援護する気持ちもなく、味方にさえもならなかった。初恋とはいえ、恋をしたクセに、試すだけ試し、牙を剥かれて凹み、以降、日和見を漲溢みなぎらせ、あまつさえ狂犬グループへと取りこまれ、恋も見失ってしまった。


 喪って、我が心を知った。


 を、生やそうと思う。


 そのために、まずは報告しなければ。


 俺は可哀想じゃなかったと。


 企画倒れだったと、報告しなければ。


 そして、脱会してやるんだ。


「ありがとう」


 鏡ちゃんを、胸に仕舞おう。


「俺も、強くなりたい。アリーに支えられたこのスピードなら、ひとりでも強くなれるような気がするんだ」


 鏡ちゃんのようにはさせない、でも、と思えるような愛を、育めるような自分を、創ってやるんだ。





     ☆





 それからおよそ40分後、歌舞伎町の出口付近にある立ち呑み屋、その裏手の路地に置かれる残飯用のポリバケツの中で、寄居は意識不明の状態で発見されることとなる。





   【 了 】




 

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