捌の戦 ≪ 隷属する男 ㊤

 


『上半身さえ見れれば、そこから、心の目で全裸姿を見る事は容易い』── 眞鍋かをり



──────────────────





■ 狂犬グループの下層構成員

  冨永とみなが 理人まさと ── 曰く





「存外、大隣もヤりよる」


 浜縮緬ちりめんの喪服と腰に巻かれる名古屋帯は、どちらも闇夜のように黒い。2匹の紅色の蛾が帯の前面に堂堂と舞ってはいるものの、彼らの鮮やかさも却って闇夜の引き立て役を買ってしまっている。


「なにも直接に本人の情動を揺さぶる必要はないというわけじゃ」


 視線をおろせば、紅色の鼻緒がかがりとなる闇夜の草履。9㎝の高さを誇るヒールが、届きそうで届かない高嶺の錯視を呼び起こす。


寄居よりいのような弱卒を、まさか百目鬼の生理が好むはずもないからの」


 見あげれば、新参とも古参とも受け取れるアシンメトリーな夜会巻き。ぴちりと撫でつけられている黒髪がどんなに純潔の知性を醸し出そうとも、びんたぼになれなかったわずかな後れ毛のせいで、よこしまなる者の侵入を思わず許してしまいそうな矛盾を振り撒くことに。


「たかが膝を壊したという程度のことで百目鬼の同情を期待することなぞ無理の話よ」


 その蠱惑の野を、蛾をとまらせる白銀の髪留めが介入。朝陽に燦然と輝き、自然、TPOに頓着しなくてもよさそうな卑猥さを演出。


「大隣の目的はそこにはない」


 血色のフレームを誇る眼鏡が勾配をつけてまなじりへと向かう。その精密な角度が己の野暮ったさを刺激、主の持つ高等なる知性を「能ある鷹の爪」と説き、なんだか転がしてくれそうな予感を想起させる。


「寄居という哀れな男を、百目鬼にではなく、彼女の縁者に惹かせた末に蹂躙じゅうりんする」


 葬祭という観念を辱しめる女。


「さすれば、さてはてどうなろう?」


 冥府の女。


「彼女は痛くも痒くもなかろうが、しかし縁者は動揺するじゃろ?」


 イケない女。


「百目鬼にとって、縁者の動揺は赦しがたき有事じゃ。なにせ、目的、思想、生活をともにする者たちこそ彼女の死守せんとする至宝でな」


 艶やかに引かれるルージュの左上に、小さくも色っぽい黒子ほくろが寄り添う。イケなさに拍車をかけている。


「至宝を揺らがせる不届き者は立派な報復対象となるわけじゃ」


 黒衣の女。


 名を、奥貫晶杯おくぬきあつきという。


「生意気にも十把一絡じっぱひとからげと見限っておった百目鬼も、いよいよ狂犬グループへの関心を抱かざるを得まいて」


 高くもあり低くもある、大正琴をほうふつさせる特徴的な美声である。まるで、思春期の渦中にある少女の危うさを孕むよう。


「縁者の情動を利用してこちらへと刮目させる──大隣の下ごしらえは上出来じゃ。彼女の歪んだ義理人情を仔細に把握しておる」


 その未成熟な声が、熟女の貫禄を宿した端正な老け顔から発せられると、たちまち、下腹部に衝動の疼きが芽生えてしまう。


「ぅはッ」


 雄の衝動で、彼女の、幼と熟の二律背反に雌雄の体力格差をこじつけたくなるのである。


「大隣め。面倒くさがりというのは単なる詭弁であったらしいの」


 押し倒して仰臥ぎょうがさせ、闇夜のあわせを強引に開かせ、蒼白くも柔らかな対の果実を強く揉みしだく。さらには本能で閉じんとする太ももを左右へと割り、蜜液の糸引く狭隘きょうあいなる樹洞へと、薄暮のごとくに黒ずんで勇ましい我が陰茎を力尽くで挿入。歯を喰い縛り「止さんか貴様!」と罵る彼女のさらなる奥底へと茎を這わせるのである。やがて燎原りょうげんのごとくに鬱血せし突端で園生そのうの門を叩けば、罵倒の嘆息は恍惚の吐息へと脆くも変容、この果樹園を荒らしてくださいまし、白濁の液でひたひたに汚してくださいまし、雌蕊めしべを溺れさせてくださいまし──!


「ぅはは! 愉快じゃ! 痛快じゃ!」


 ──妄想はタダだが、仮に実行すれば1兆円の保険金でも足りはしない。なぜならば、


「ぅひひゃははは!」


 なぜか笑い方だけは下品なこの女、ヒナ高に輝く狂犬グループの幹部中の幹部であり、通称『舞姫』と呼ばれ、畏怖されている存在なのだから。


 その、とても高校3年生の女子とは思えない黒い喪装が『舞姫』と呼ばれるゆえんだが、次いで、蛾のようにミステリアスな闘法もゆえんのひとつ。


 奥貫は暗器あんき術を得意としていた。レパートリーは、鉄扇てっせん羅漢銭らかんせん、手裏剣、苦無くない峨嵋刺がびし猫手ねこて手内てのうち足甲あしこう微塵ボーラジーファー金剛厥プルパ腰帯剣ヤオダイジャン、プッシュダガー、バグナク──未知なる凶器を、正確に、的確に使う。ゆえに、相対する者はなにをされたのかも把握できないまま、ただ苦痛と鮮血の色に惑いながら倒れるのである。


 聞くところによると、彼女は幼少時『呉無明流くれむみょうりゅう』なる暗器術武門に所属していた。それがどのような組織であるのかは知る由もないが、彼女の変幻自在な闘法を見るにつけ、かなりの有力組織であるとイメージするに易い。また、几帳面なほどの彼女の加虐嗜愛になぶられるにつけ、奥貫晶杯と呉無明流との好相性も信じて疑われない。


 莫連ばくれんのようにずるく、弁天のように強く、商業的なまでにサディスティックな女──押し倒そうものならば呆気なく八つ裂きにされることだろう。鮮烈なる苦痛を冥土の土産だと押し売りされることだろう。


 しかし、そんな彼女の猛威に対し、冨永理人は決して背中を向けようとはしなかった。


 隷属の現実に咲く蹂躙の妄想たるや、市場に並ぶどんな自慰マテリアルよりも深度に優れ、すっかり虜囚となっていたのである。


 冨永の青春は、今、狂乱の渦に惑溺。



 ⇒ 20XX/09/10[月]09:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高校の美術室にて



 少し寄居枝忍よりいしのぶの話をしよう。


 救急車によって緊急搬送される途上、彼は意識を取り戻した。しかし、寝言のような唸り声を棚引かせ、病院へと運びこまれてもなおガチガチと歯を鳴らしてはヒアリングできない苦痛を訴え続ける。


 それもそのはず、彼は、前頭骨、左の頬骨、鼻骨、涙骨、上顎骨、胸骨、肋骨3本、右の膝蓋骨、右の大腿骨を折っていた。さらには、左上中切歯の破折、右下中切歯の破折、第1大臼歯の破折、左下側切歯の脱臼、第1大臼歯の脱臼、第2大臼歯の脱臼、第2小臼歯の脱臼も確認。また、右の膝蓋靭帯損傷、顔面から胴体にかけての皮下出血、肝臓内出血、おびただしい鼻血まで加わっての貧血状態、混乱状態、消耗状態──極めて危険な状態だった。


 患部を鑑みるに、寄居を襲撃した者は立ち技を得意としている。


 犯人は下層構成員の銀鏡和毅しろみともきか。


 大隣憲次であるという推理もできる。しかし、寄居ごときの粛正のために歌舞伎町まで幹部が足を運ぶというのも疑問である。空手の経験者である新垣契永にいがきせつな京師航きょうしわたるもまた、粛正に及ぶための気性の点で考えにくい。あの弱腰のふたりでは意識不明の重体へと追いやることはまず無理だろう。では、後は誰がいるのかと言えば、必然、ボクシング経験者の銀鏡のみとなる。


 ならば絵面清貴えづらきよたかも一緒か。


 銀鏡は頭が弱い。待ち伏せしていてもすぐに待機ステイに我慢できなくなり、勝手に対象のもとへと飛んでいって勝手にボコり始めてしまう。まるで下等動物のような脳味噌オツムをしているので、頭脳派の猛獣使いである絵面が常に帯同している。


 さて。


 狂犬グループの仇敵である百目鬼歌帆のもとへと寄居は輸贏しゅえいを争いに出され、恐らくは、その帰路で全治も定まらない引導を渡された。


 彼は、新垣や京師と並んで大人しい男。だからか親しみがない。グループのメンバーには違いないのだが、よくよく考えてみれば接点がなかった──自由奔放を売りとする狂犬グループならではのに、寄居に対する同情心を冨永は抱いていない。彼を衝き動かすものはやはり奥貫という主食だけである。


「あの」


 愉悦に浸る黒衣の女に、冨永は危惧の水をさしてみた。


「百目鬼を怒らせて、その、今まで以上の強敵となりはしないでしょうか?」


 無関心がゆえの手加減もあっただろう。しかし、狂犬グループに関心を抱いた今、ついに本気の古武術を発揮しまいか?──もっともな危惧である。


 すると奥貫、彼の「強敵」という単語のあたりですでに動き出すや否や、もづ──なんの躊躇もなく、言い終わりの睾丸を右手に掌握。


「おぅふ!」


 腰を引き、顎をあげて恍惚の息を漏らす彼に、奥貫は切れ長の瞼をくわと見開いた。


「ん? 陰嚢いんのう拳足けんそくを向けて醍醐味を得るつもりか? あ? 容易に潰せるほど軟弱な一物を叩いて満足するつもりか? お?」


 大正琴の低音を這わせ、普遍の急所を乱暴に上下させる。とたん、抵抗を躊躇してしまうほどの隷属的漏電が下腹部を疾走。


「おふぉ、お、お赦しをぉふ」


 陳謝と同時、冨永はにわかに隆起した。


「ドライエクスタシーはつまらんぞ」


 白眼視で吐き捨てると、奥貫は、今度は隆起したほうに持ち替える。


「ふ。生殖活動の支度が整っておるわ」


 ブレザーパンツごと上下にスライド。


わらわと結合したいのか?」


 吐息を囁く。


「とろとろの子種を蒔きたいか?」


 しごしご──摩擦音のほうが大きい。


「して、妾のどこに蒔きたいのじゃ?」


「いえ、そんな……」


「隠すな。貴様の本音などお見通しじゃ。妾の卵に蒔きたいのであろう?」


 手を休めぬままに上半身を寄せると、耳もとにララバイを囁く。


「言え。晶杯様の宮の入口に先っぽを押しつけたまま、鳥居から溢水いっすいするほどの白濁液を噴射したい。噴射の圧力で宮の内部へと流しこみ、卵に直接、兆単位の子種をかけたい──とな」


 アンバーの熱い香りが脳髄を襲う。


「言え」


 くらくらして、ずくずくする。


「言え」


 しごしご。


 屈辱と法悦のループ。


「お願いしておるのではない。言えと命令しておるのじゃ」


 紅唇こうしんを柔らかくしなわせ、黒子が囁く。


「言え。晶杯様の卵に子種をかけたいです、下腹部が破裂するほどに受粉させたいです──言え」


「あ、あ、あつきさまの、た」


 不意に奥貫、握り締める手を強引に引きさげた。


 ぼくッ。急所の根もとから関節の鳴る音、そして怜悧な痛み。


「まがぉッ!」


 奪うようにして根を押さえる冨永。そのまま内股となって崩落。


「残念じゃが」


 斜に構え、腕組みをし、172㎝の上から目線で黒衣の女は説く。


「女性器の構造上、あるいは臀部でんぶの厚みにも阻まれ、男性器の先を入口に届かせることは至難の技。しかも内部は酸性ときておる。よって、宮の内部へと精液をあますことなく流しこみ、卵子を征服することなぞ夢物語と断じてよい」


 朝陽の後光を発し、


「女の肉体を嘗めるな」


 愉しそうにも見える。


「儚い妄想じゃったな」


 それが証拠に、おもむろに奥貫は右脚を伸ばすと、草履の底で冨永の頭を踏んだ。


「しかしその妄想、なかなかみごとに常軌を逸しておる。暴力的で排他的、多くの者を敵に回す鬼畜の発想じゃ。裏を返せば、多くの者が見落としてきた前衛的妄想とも言えるじゃろうな」


 闇夜の喪服から露になった純白の脚は、暗器術の賜物か、意外にも筋肉質な凹凸を帯びて逞しい。まさに白砂青松はくしゃせいしょうを思わせる美しさ。


「歴史的前例を踏襲するより他に建設手段の及ばぬ人の世には、必ずや限界が訪れよう。ゆえに、人は時にえきから程遠い運動を起こし、新鮮なるエナジーを模索するものじゃ」


 いったいどれだけひざまずかせられ、頭を踏みにじられてきただろう。しかし、彼女も心得たもので、肉体的な刺激はさほどに与えず、精神的な愚弄による支配を好んだ。おかげで冨永も妄想のガソリンを蓄えるのに集中できる。況して、この、見えそうで見えない秘密の扉が抵抗を勿体なくさせる。


「初めは多くの者から莫迦ばかの妄想と冷笑されるやも知れぬ。しかし、鮮烈なインパクトを閃くか、弛まぬ継続によって普遍の歴史へと改めるか、同胞の内より絶対のカリスマを生むか、勝因は様様なりに、前例なき運動が新たなる前例となり、選択肢となり、可能性となって人の世を豊かにしてゆく」


 ぺんぺん。足の爪先で器用に頭頂部を叩きながら、奥貫が弁士の抑揚で謡う。


「鬼畜の発想とて、ただの妄想に始終しておる限りは、果たして未来の糧となるや否やと正しく審美できる者はおらぬ」


 ぐりぐり。今度は踵を捩じこむ。


「よいか? 貴様の低俗な妄想は、実行に移さば性犯罪の棒に振るじゃろうが、そのエナジーのみを切り取って他者の意識へと添わせれば、あるいは、永劫に語り継がれる定説の暦となるやも知れんのじゃぞ?」


 そう説き、ようやく頭頂から踵を離す。離した刹那、蹴球サッカーのトゥキックのように爪先を喉仏へと突きつけ、


「摩擦に依存したイジャキュレーションの醍醐味なぞ値打ちが知れておる」


 くいと顎をあげさせた。


「無関心なる者を叩くはただの自慰なり。噴射すればたちまち賢者タイムの虚しさにほふられよう。しかし、互いの意識があらば、これこそが真の愛撫である。そして真の愛撫においては、一瞬という概念はない。永劫と連鎖しゆく神の領域じゃ」


 わらう女。


「想像せよ。あとひとたびの摩擦で果ててしまうほどの、ころりとした心地に匹敵する快感が永遠に続くのじゃぞ?」


 不遜なる慈母の女。


「極上の拷問じゃ。天国の生き地獄じゃ」


 再び囁きで問いかけると、強靭な脚力で顎を持ちあげた。促されて冨永、股を押さえたまま怖怖おずおずと立ちあがる。


 やはり、扉は見えそうで見えない。


「タントラセックスというヤツじゃ」


 中腰にし、奥貫は冨永の頭髪を乱暴に掴んだ。そしてすっかりと立ちあがらせ、黒い懐中ふところへと招き寄せる。


「鳴くか? 鳴るか?」


 囁き、


「──ぁむ」


 なんと、斜めに唇を重ねたのである。互いの口角が埋まるほどに、深く、深く、紅唇を重ねてきたのである。


 悪寒に似た恍惚が彼を急襲。アンバーの香りにアルカリの苦さが加味、媚薬を飲んだように力が抜ける。しかし、この媚薬は彼を奮わせもした。すがるような腕で華奢な腰を囲うと、強く強く抱き締めていた。


 と、張りのある塊が舌を抱き返す。舌に、彼女の肉厚な舌が巻きついてきたのである。


 わずかにザラつき、しかしねっとりと潤ってもいる舌。熱い、硬い、甘い、温い、柔い、苦い、鋭い、酸い──巻きつく舌は続続とアイデンティティの表情を変える。冨永に秒を数える余裕さえも与えない。


 両の口角にひんやりとした温度がある。互いの唾液が攪拌かくはんされ、染み出している。


 舌が舌を離れた。と同時に、前歯の根に充分な圧力がかかった。上下左右の中切歯に止まらず、側切歯、犬歯、第一小臼歯にまで及ぶ重厚なる圧力。


 舌で、歯を舐めようとは。


 ずくん。ずくん。再び隆起して脈動する陰部。あとひとたびで噴射しそうである。噴射したいのである。願わくば、奥貫の扉に挟まれながらの噴射でありたいのである。


 許可されるやも知れず、軽蔑されるやも知れぬ。しかし、冨永にとってはどちらに転んでも快楽に違いあるまい。飴と鞭──ただそれだけの小さな差異。


 飴か、鞭か、可能性が可能性のままである今、まさに地獄の快楽である。法悦の拷問である。ゆえにかきんに力が通らず、膝に力が入らない。ゆえにか抱き締める。すがるように抱き締める。


 と、口角の間にわずかな隙間をあけ、うっとりとした女の顔が、


「ンぁはっ」


 口の中で、わらったのである。


 たちまち、生ぬるい吐息の波動が冨永の歯を撃ち、舌を撃ち、頬を撃ち、喉の奥を撃ち、生き肝を抜いた。



 天 ──


「あッ! あッ! あッ!」


 ── 獄。



 とたん、はくからこんが剥離、奥貫の肉体の前半分に重なったように感じた。刹那の幽体離脱だった。


 しかし冨永の魂は恐れない。前半分では足りない、全部に重なりたい、全部に浸透したい──そう魄をけしかけた。腰を囲う腕に最後の力を結集させ、隆起する陰部を彼女の下腹部へと密着させる。


 そして、ついに、


「あ、ちゅき、しゃま……!」


 ぅびゅ──噴いた。


「あー! あー! あー!」


 本丸である精巣から精巣上体尾部、精管膨大部、射精管、尿道前立腺部へと着実にポンピングされていた種子が、ついに尿道と外尿道口を経てインナーの内側へと噴き出した。精嚢液せいのうえきの律動的放出に伴い、肛門括約筋も収縮活動を始める。甘酒の色をした液体は一定量を断続的に、確かな粘度でもって、びゅう、びゅう、びゅう──無情なまでに噴き続けるしか術をなくした。


 Emission → Ejaculation


 脳のくみせぬ反射行動。ここまできては、もはや誰にも止められない。


「ンあッ! ンあッ! ンああッ!」


 情けない咆哮をあげながら、冨永は極上の痙攣にれた。


 フレンチキスはまだ続いている。唇はまだ重なりあったままである。


 互いの下腹部もまだ密着している。雄と雌の生殖細胞が、放埒ほうらつなる主従関係を凌駕して、今、紙一重の最短距離に存在している。


 薄氷の橋に踏み止まっている。まるで愚行だが、至高であり、背徳だが、普遍である。


 なにが極上の拷問だ。


 なにが天国の生き地獄だ。


 なにがタントラセックスだ。


 ──やがて、永劫を憧れるほどに痛快だった噴射も終焉を迎え、余韻だけがせめてもの救済となっていた。


 ここでようやく、冨永は己が瞼の岩戸を開く。


 暴れる視界のまん中、天照大神あまてらすおおみかみの顔がある。


 つい先ほどまでのうっとりとした表情は、もう、なかった。


 それどころか、冷めているように見える。


 切れ長の瞳が、座っているように見える。


 表情筋が、動いていないように見える。


 まるで、精巧な氷像のようにも見える。


 背筋が凍った。


 背いてしまったと気づいた。ご主人様に叛旗はんきを翻してしまったと気づいた。


 気づいた次の瞬間、かちッ──硬い音が口の中に聞こえ、


「あがッ!」


 冨永の左頬が上下に裂けた。


 奥貫は、下の前歯、中切歯の2本を刃物のように研いでいたのである。普段こそプラスチック製の白い疑似キャップで覆っているものの、舌で簡単に着脱できる。むろん、対象の口もとに深手を負わせるためのものである。


 暗器の存在を忘れていた。


 冨永の左の口角はすでに頬骨の近くまで裂かれていた。血液と唾液が溢れ、奥貫のスイートルームを静かに汚す。


「果てたな?」


 かつて「美術室」と呼ばれていた、今や彼女の私物に満ちる部屋である。


「香るぞ」


 私物を配置したのは、冨永。


「アミンの香り」


 彼にとっても、隷属のスイートルーム。


再起不能リタイアの香りじゃ」





   【 続 】




 

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