漆の戦 ≪ 牙を剥かれた男 ㊥
■ 狂犬グループの下層構成員
『隷属は、いつも、善良なんです』
寝顔のように弛緩した苦笑いを浮かべてポツポツと呟いた
彼女は、寄居枝忍とは中学の同学年だった。目を惹く美人ではなかったが、円らな瞳と少しだけ長い前歯がウサギのようで、アレンジしたこともないだろう腰までまっすぐに伸ばされる黒髪もよく似合う、和の愛らしさがあった。伏し目がちな姿勢から争い事の苦手そうな気質さえも見て取れる、そんな、おっとりとしている地味な少女。
同じクラスを共有したことがなく、喋ったこともないに等しいが、不思議と気になる少女ではあった。どこがどう気になるのか言葉では上手く説明できないが、学校内の地味なグループの輪の中、口を開くでもなく微笑みひとつで溶けこんでいる姿を、視界にかすめる程度のまなざしで追いかけていたものだった。
名前は
物怖じする、小動物のような鏡ちゃん。
しばしば中学校を休んでいる鏡ちゃん。
しばしば脚や腕に
彼の
あくまでも噂だが、彼女には大学生の恋人がいて、頻繁に暴力を受けているらしい。でも、彼女は気弱だから応戦なんてできるわけもなく、いつも泣き寝入りをしていて、しかも不意に優しくされたりもするものだから、ついに許してしまうのだと。
もちろん噂の真偽は曖昧で、なにせ彼女は色恋沙汰と無縁に見える地味さであったし、ゆえに、寄居にしてみれば、恋人がいること自体が信憑性に欠ける情報だった。と同時に「ああいう大人しい女の子ほど依存という魔の手に陥りやすいのかも知れない」とも思っていた。恋心に届きかねない存在であるからこそ、彼女の白に期待し、また黒へと諦めることで思春期のバランスを計っていたのである。
中学3年生の晩秋。
学校内、階段の途中で立ち止まっている鏡ちゃんと出会した。ウッド調の手すりに上半身を寄りかからせている後ろ姿。どう見ても苦悶している。
どうやら脚が痛いらしく、階段を上手くあがれない様子だった。
『大丈夫?』
寄居が声をかけると彼女は、
『ひッ!』
まるで発作のように戦慄を吐き、慌てて振り返ると同時、体勢を崩して段に尻餅をついてしまった。
紺色の制服、スカートが
白い肌と、黒いレースの下着、そして、青黒い痣の数数がこぼれた。
月夜に、雲がかかっている。
下着の色も、痣も、なぜか予想外に思えなかったことが予想外で、冷たい雷を浴びたようなショックを受けて寄居は固唾を飲んだ。
黒のほうが真実であるらしかった。
慌ててスカートの裾を拾い、秘部を隠しなおす鏡ちゃん。その様子を見て彼は、
『逃げればいいじゃん』
泣き寝入りをし、でも許し、だからまた暴力を受ける──
『……逃げれば』
すると彼女は、普段の円らな瞳をさらに円くするも、すぐに顔を弛緩させ、諦めに似た苦笑いを浮かべた。そして、左に視線を逃がすと、
『わかったようなことを言うなら』
細かに震える声で、
『わからないでください』
泣くように拒絶したのである。
『知ってますか?』
寄居はなぜ、
『私がいないと彼はダメになる……』
こんな少女に惹かれたのだろう。
『殴った拳のほうがもっと痛い……』
わからない。ただ、
『そう思ってしまうあやまちが、唯一の、心の支えなんですよ?』
わかりたいと思っていたのである。
『隷属は、いつも、善良なんです』
一瞬、責めているような、恨めしそうな眼光を寄居に向けたが、すぐに逸らすと、力を振り絞って彼女は立ちあがる。
そして、
『でも、それは、私には……』
もごもごとなにかを呟くと、痛んでいるはずの脚を逃がすようにしてその場を立ち去った。
これ以降、再び彼女と話すことはなく、寄居のほうこそ変わらないまなざしを注いでいたものだったが、しかし、擦れ違ったままに中学を卒業。互いに別別の高校へと進学し、彼は、津波のような狂犬グループの勧誘にたちまち引きずりこまれ、意図することなくついに鏡ちゃんの存在を見失ってしまった。
今冬、彼女の訃報を耳にした。
中学時代から付き合っていた彼氏に別れを告げられた、身も凍るような翌朝の
まだ、続いていたのである。殴られ、泣き寝入りをして、許す、そんな悪循環を循環させながら、彼女はそれでもなお、恋人の関係を続けていたのである。
『隷属は、いつも、善良なんです』
刹那的で、終末的で、麻薬的で、だからこそ隷属の毎日に善を見出し、自分にはこれでいいと信じたのだろうか。そんな善良のカタチがあるのだろうか。それとも、癒着だったのだろうか。依存という名の癒着を断たれ、だから彼女は発作的に絶望し、宙へと躍り出たのだろうか。
☆
俺ト立チ合エ──そう叫んだ直後、
「おるろが」
発狂寸前の苦痛と、戦いを申しこむという第1のミッションをクリアした安堵が連動、寄居は上半身を折り畳みながら嘔吐した。酸っぱくも苦い茶色の液体を大地に撒き散らし、あと1秒も放置しておけば自然と気絶していられるはずだった。
自然であることは赦されなかった。
霞と化した視界に、鋭い眼光を見た。
獲物を狩る猛獣の眼光ではない。
いっそ猛獣であってくれたほうがよかった。格の係らない異種が相手であれば、呆気なく諦められ、脱力し、余計な痛みから逃げることもできただろうから。
しかし、寄居の身体は硬直した。心が身構えてしまった。
恐怖したのである。
恐怖──それは生きたいとする抵抗の折り目に宿るもの。
どんッ。
苦痛と抵抗に頭が混線、硬直するしか手立てのなくなった寄居のすぐ目の前で、人狼の──百目鬼歌帆の右の震脚が和太鼓のように鳴った。それから上半身を素早く捻転、低い弾道の、左の下段回し蹴り。
ぱきゃッ。
棒立ちの右の膝から体内を
「がおッ!」
一瞬にして沸点を味わった寄居、思わず叫ぶと、右の膝をつきながら崩落。
「いぎぎぎぎぎぎ……!」
横たわり、患部を押さえ、歯茎を剥き、ごろごろと転がって悶絶。
その膝に、ごッ──前蹴りの
「ごおおぉおばろァッ……!」
絶叫しながらさらに
⇒ 同日 ── 21:XX
東京都新宿区歌舞伎町2丁目
GINGAの鍛練場にて
「漫画の見過ぎかしらね」
泥と化した意識の隅に、女の声。
「なんだか、立ち合いって言葉が安価に使われてるような気がしてならないんだが」
テナーサックスのような、芯のある声。
「もしも今が戦国時代だったらとっくに死んでるよ、この少年」
すると、
「我が校では流行しているようですね。この、立ち合いという表現」
アルトサックスがセッションに参加。
「
この声は、聞いたことがある。
問題なのは、
「はン。素人風情が、命のやり取りをしてる気にでもなってやがんのか?」
このテナーサックスのほう。
「あたしの若い頃には、
誰の声だろう。聞き憶えがない。しかし、聞き馴染みがないわけではない。
「本番のためのリハーサルのことを試合という。試し合い──読んで字のごとくだな。だったら、立ち合いとはなんぞやと言えば、その本番のほうをあらわすわけだ」
そう、アルトサックスに似ている。
「立ち合いというのは、原則、殺し合いを意味するんだ。だから、みんなは彼のように太平楽に口にしちゃダメだからな。ご覧の通り、現実を知らされる」
そういえば、音楽は途絶えている。
「しっかし」
どことなく若づくりなリズムのテナーサックスが嘆きを落とした。
「武術家を相手にお安くも立ち合いを求めるだなんて、バカだねぇ」
「恐らくは強要されたのでしょう。入室時にはすでに膝が故障していたようです。ただ、所属グループまでは知りませんが、
「グループってのは、前に歌帆が言ってた、キョウケンとかセキゲイとかいうヤツか? それで、負傷した脚で立ち合ってこいって? で、この少年は命令に従ったってワケ? 文句も言わずに?」
「文句を言う以前に負傷させられたのか、文句を口にしたからこうなったのかは定かではありませんが」
「でも結局、従った?」
「ヒナ高の場合、特例ではありません」
すると彼女は、
「はン。ただの奴隷じゃん」
明らかな嫌悪とともに吐き捨てた。
ゆえに寄居は、
「るせぇ」
満身創痍の度合いが過ぎて却って無痛と化している肉体に弱電を点し、酸っぱい反抗を絶え絶えにこぼした。五体こそ麻痺して動かないが、かろうじて両目を開き、セッションのするほうを慢罵するわけでもなく睨む。
「恐怖に、屈して、悪いか?」
まばゆくぼやける白い視界の中、女がふたり、立っていた。
狼のような顔をしたブレザー姿の少女と、狐のような顔をした、ぴっちりとした黒いタンクトップを着ている女だった。
狼のほうは知った顔である。彼女の名は百目鬼歌帆。眠れる狂犬をついに動かした女であり、アルトサックスの主でもある。
しかし、狐のほうがわからない。
細く吊りあがった眉、鋭く吊りあがった奥二重の目、颯爽と通る鼻筋、薄い唇、左右に長い口角、逆三角形の輪郭──人を寄せつけない鋭利な面立ちながら、大変な美人である。薄化粧の目尻に笑い皺と、頬には微かな豊齢線が刻まれ、俗に言う「美魔女」の様相。スポーティな雰囲気をしているからか「女狐」と形容するには色気の種類が異なるが、知略に富んだ印象であるからして、やはり「狐」と
腕組みに囲われるバストは、かたわらで仁王立ちしている女と比較すれば遥かに小振りだが、鍛えあげられた肉体は甲乙をつけがたい。脂肪こそ目立たず痩身だが、新品のコルクをほうふつさせる柔軟な筋肉美を誇っている。
もしや、狼の母親だろうか。
「なにが悪い?」
すると彼女、おもむろに腕組みをほどき、ボディパーマを効かせたウェーブのミディを
「すべてが悪い」
「え?」
「生やせるはずの牙も生やさず、まったくもって悪いところだらけだ」
左の口角を
「キ、バ?」
「人は、生まれた時から牙を生やしているわけではない。生きていく過程で生やしていく生き物だ。生まれた時から生えている肉食動物とも、最後まで生えないからこそ別の部位を磨きあげる草食動物とも異なる、人間にしか見られない特殊なシステム」
ただし──呆れたように見おろすと、右の人さし指で首筋をかく。
「人間の中にも牙を生やさない輩がいる。生やすための必然の試練に怯え、最後まで自分に好都合な理屈をつけてはいっこうに生やそうとしない惰弱な輩がだ」
その人さし指を、寄居に向けた。
「おまえだよおまえ! 人間であるための絶好のチャンスをことごとく排斥して麻薬的な善良さに耽溺し続ける、甘ったれた奴隷体質のおまえのことだよ!」
麻薬的な、善良さ?
既視感のある言葉に息を飲んだ。
「ここは牙を生やそうとする人間の修行の場だ。自分の信念で牙を生やし、どうにもならないとされる現状に噛みつかんとする勇者のな。おまえみたいに、まともに牙を生やそうともしない
空気をビリビリと震わせながら怒鳴り、しかし、すぐに彼女は声のトーンを低めると、
「見ろ」
自分の背後へと右の掌を流した。
「可哀想だと評価される現状に牙を突き立てようとする、真に勇敢な者たちだ」
細かに痙攣する頭部を起こすと、寄居は女の提示するほうを見やる。
彼女の背後には、15人ほどの少年少女が集団になって座していた。それぞれが思い思いの色のジャージをまとい、静かな体操座りでじっとこちらに視線を注いでいる。
誰も彼もが、いちように幼い。
小学校の低学年ぐらいか。
「奴隷であることを自覚し、解放のために闘争に立ちあがった奴隷はすでに半分が奴隷ではない──レーニンが曰く」
ビー玉のように、ころんとした瞳たち。
無感動、しかし強烈な光を宿している。
「だとすれば、カポエイラがよもや奴隷の格闘技であるはずもない」
純粋な光。
無垢な光。
「カポエイラとは、奴隷解放の明日を一途に目指した、勇敢なる牙の格闘技だ」
ぞくりとする光。
見るな──怖い。
「彼らは、生まれた時にはすでに親がなく、あるいは片親の不便に曝され、俗世間によって可哀想だとする烙印を捺されている者たちだ。しかし、だからこそ一般常識に従いたくない、一般評価に屈したくない、一般格差に隷属したくない、多くと同様に自分もまた自由であると信じ、その信念を叶えるために自身の拳で門戸を叩いた者たちだ」
寄居は再び、白い天を仰いだ。
とても見られたものじゃない。
「推薦でなく、
後頭部が冷たい。
薄氷に寝ている。
「10歳に満たないからと言って嘗めるな。彼らには頑強な牙がある。おまえみたいな歯抜けごときにゃ太刀打ちできねぇ」
胸の奥までもがひんやりと悲しくなる。
なんだか、彼女を否定されたようで。
「おまえのしたことは、彼らの尊い意志に対する冒涜だ。だから悪いと言ったんだ」
鏡ちゃん。
なぜ死んだ?
「奴隷の」
「あ?」
「奴隷、の、行く末、は……」
寄居は
「……死か?」
酸っぱい囈言。
「死ぬ、しか、ないのか?」
涙までこぼれる。
「自殺、しか、ないのか?」
隷属と知りながら隷属に甘んじ、辛苦の悪循環を循環させ、結局、契約を解消されて自決した。主による奴隷解放宣言が彼女にもたらしたものは、自殺という、取り返しのつかない末路だった。
鏡ちゃんは、なぜ死んだ?
彼女の道理がわからない。
「最後に、彼に、牙を剥いたとでも?」
すると、
「自殺は牙ではないぞ」
テナーサックスが低吟。
「奴隷の末路でもない」
「え?」
涙で霞がかる視界の中、狐が目を細め、寄居のナニカを見ている。
「それは、おまえの勘違いだと思うがな」
「勘、違い?」
「話の筋やおまえの態度から察するに」
寄居の、眉間のあたりを、
「別れ話の末のことか?」
貫くように、
「だとすれば、きっと──」
妖狐が、じっと、見ている。
「愛していたのだろう」
「あ……?」
鏡ちゃんが?
恋人を?
「愛は対等だ。主従関係には至らない。だから恐ろしいものでもあるんだがな」
そんなバカな。
暴力を浴びて、それで、愛してた?
「仮に怯えるほどのコミュニケーションがあったとしても、受動と能動が対等の証となる場合もある。つまり、愛というヤツは綺麗事で簡単にくくれる代物ではない」
ぷつッ。
「愛の渦にあらば、人は自らを愛の奴隷と嘆きもしよう。しかし、愛する者の奴隷ではない」
頭の中の
『でも、それは、私には……』
刹那、鏡ちゃんの最期の言葉が、もごもごと拗ねたような台詞が、腱の断面から、ぢゅくんと染み出した。
『……愛でしかないんです』
「もしもおまえの想うその人が隷属を口にしたというのなら、きっと──」
彼女は、あの時、
「きっとそれは、
寄居に牙を剥いたのである。
【 続 】
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