弐の戦 ≪ 希う女

 


『無理やり寝に急ぐ夜よりも、目を閉じて寝を待つ夜よりも、眠いのにこじ開けようとする瞼の夜のほうが好き。好きよ。ねぇ好きよ』── 吉高由里子



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■ 狂犬グループの御意見番

  三枝さえぐさ 虹子こうこ ── 曰く





 不自然に鍛えあげられた胸板だった。


 中庸バランスの取れた健康的な肉体改造を得意とするダイエットトレーナーが見たら、余計なカリキュラムを組んでお世話を働きたくなるような不自然さ。しかしそれは、いっさいのスポーツ器具を用いたことがないのだろう、素手喧嘩ステゴロだけで培養された天然の胸板である。伐木されず、整地されず、そもそも管理されず、自分の才覚だけを元手に、偶然や幸運をも味方にしながらスクスクと成長した純粋無垢の山肌。


『着痩せするタイプ?』


 問いかけても、人の手を借りない孤高の山肌は口を噤んだまま。


『なんにも応えてくんないんだね』


 返ってくるのは己が木霊だけ。


『みんなからは特別視されといて』


 手応えのない、冷たい山。


『誰かを特別視するのは嫌いな男』


 人は、特に日本人は、人の手が加わった精巧な贋作にしか自然体を感じない。手応えのない、不細工な天然物など違和感だらけの不自然体でしかなく、事実、目にも明らかな植樹を仰いでは誰もが「自然ってホントにいいわねぇ」と寝惚けた讃辞を口遊んでいる。


『ヒドい男』


 三枝虹子は、彼の山肌が好きだった。


 来る者を拒まず、こちらからは赴くことをせず、もちろん去る者は追わず、何者にも与せず、常に自然体、常に自由気儘。


 独り占めしたい、孤独な山肌。


 しかし、


『ジンに特別な人なんているの?』


 どんなに甘え、問いかけてみても、


『どうすれば、その胸にみる?』


 その山肌はただ、木霊を返すだけ。





     ☆





「立て続けに仲間がヤられて……」


 自然界で随一の青色が天空に広がっている。あれほどの端麗さは、さしもの大海にさえも醸せないことだろう。空は、海とは違い、人の開拓の手がおよびにくい空間である、ゆえなるドライな荘厳さが天の隅隅に宿っている。もちろん地球温暖化の手はおよんでいるものの、どのみち真贋の見分けがつかない小日本人が相手である、荘厳さをうそぶくこともやぶさかでないハッタリの威勢もまた仄かに宿っている──などと、


「なんで動かねぇんだよ?」


 環境学や民族学に思いを馳せていられるような暢気のんきさが今の三枝にはない。


「嘗められてんだよ?」


 まぁ、今に限った話ではないが。


「わかってんのかよ!?」


 ともかくも、今、彼女の女の部分が烈火のごとくにオカンムリなのである。


「テメェが動かねぇんならあたしが動く」



 ⇒ 20XX/09/05[水]12:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高校の屋上にて



 三枝は、この池袋界隈の不良女子集団のトップに君臨している。レディースなどと呼ばれた80~90年代の不良集団に程近いが、カスタムバイクに跨がるような趣味嗜好はなく、せいぜい自転車が活動手段。しかし、弱者とされる一般人カタギへの威圧感に関しては、かつてのレディースたちをも遥かに凌駕していることだろう。


 もとは大人しい中学生だった三枝。そんな彼女を劇的に変えた存在こそ、当時のヒナ高を牛耳っていた不良女子集団『妃蓮ひれん』である。女子だけで構成される、しかし不良男子さえも震えあがらせるほどの硬派の集まりであり、とある拉致事件を機に出会った。男気の満ちる彼女たちの勇敢さにすっかりと触発され、刹那にして、三枝はいわゆる中学デビューを果たすこととなる。


 仲間を想うことにかけてはどんな公共団体も敵わないほどの情熱を持つ集団だった。その情熱が原因で、皮肉なことに三枝の高校入学直前をもって解散してしまう。憧憬していた少女はとても落胆したものだが、しかし妃蓮の、仲間を大切にする意志を継承しようと決意するまでに時間はかからなかった。妃蓮とは、彼女にとってそれほどの巨人だったのである。


 仲間が嘗められ、黙っていられる三枝ではない。


 しかし、今回は少しだけ趣が違った。仲間が嘗められ、下に見られたから腹を立てているのとは少しだけ事情が異なる。憤る契機きっかけこそ仲間の敗退に他ならないが、そんな古典的クラシカルな不良精神だけが今回の憤慨の原因ではなかったのである。


「あたしがヤる」


「ムリだな」


 キンキンと小五月蝿い三枝の声を遮るように、昼休みの清閑な屋上に初めて男の声が響き渡った。ハスキーではあるが芯が太く、否応もなくヒアリングさせる暴力的な声。


 孤独な声。


「ムリだ」


 ムにアクセントを込め、しかし無感動のドライさを打ちあげて青空と競わせる。


 その声は、屋上と下階とをリンクする、直方体の形に屹立する塔屋の箱の上からするものだった。


 1辺が数mからなるコンクリートの巨大な箱がゆえ、その上辺に寝転んでいるのだろうハスキーな声の主はいまだに胸板さえも確認できない。


「ムリで、ムダだ」


 姿はなく、否定だけが重ねられる。


 赦せない。


 仲間がヤられたのに動こうとしないのが赦せない。名ばかりの「狂犬」を維持しているのが赦せない。つまり、それだけあの女を特別視しているのが赦せない。


 彼の名を、鬼束甚八おにつかじんぱちという。


 キレたが最後、もう誰にも止められず、しかし誰かが止めなくては殺人事件にまで発展しかねず、だからやむなく止めに入れば流れ弾を喰らって即入院──厄介な男である。その無差別な性情から『狂犬のジン』と諢名あだなされ、ヒナ高の生徒を畏怖させるのみならず、関東圏の不良たちからも一目を置かれている。


 ところが、気分が乗らない時や、戯れるに相応しくない者として相手の力量を認めてしまった時の彼ときたら、まったくもってこの調子なのである。屋上に寝転がり、ひねもす遠近感のない天空を眺めている。三枝の子宮をズクズクと疼かせるような血に餓えた瞳が、まるでソフビ人形。


「女にはムリ」


「あいつも女だろが」


「アレは特別」


「特、別……」


 ジンは今日も動かず、三枝は頭ごなしに否定される。女だからと三枝は否定され、女なのにあの女は許容される。


 それがムカつく。


 それが赦せない。


 恥だ。恥ずかしい。


 昨日の放課後、ジンを衷心ちゅうしんから尊敬している乾丞秀いぬいじょうしゅうが倒された。頭をブラでグルグル巻きにされ、2年2組と3組との間にある階段フロアで弛緩していた。


 間違いなくあの女の仕業である。


 その前日、仲間の数人が彼女の闇討ちに倒されていた。彼らの教育係こそが乾であり、責任感の強い彼のこと、もしや報復に向かったのではないかと推理された。集会所へと戻らない乾を心配する仲間たちの懸命の捜索活動が実施されたわけである。もしもそれが行われなければ、彼は永遠に眠っていたかも知れない。


 永眠は大袈裟だろうが、ともかく、硬派で知られる上層構成員の乾が敗北したのである。あまつさえ黒ブラを巻かれるという前代未聞の恥を与えられ、氏曰く「なにもさせてもらえなかった」と言葉少なめ。


 あの女が女を超越していることぐらい、三枝にはムカつくほどに理解わかっている。


「全裸で戦えるんならヤってみろよ。その覚悟がおまえにあるんならな」


「あるわぃ!」


 しかし、重要なのはプライドである。


 覚悟のプライドなのである。


「ヤってやんよクソヤロウ!」


 足もとに置かれる朱色のカラーコーンを蹴る。がごぽん。軽薄な音を立ててその場に横たわるだけの円錐。デブリと変えるにはだいぶんおよばず、そのカタルシスのなさにさらに憤りが増幅した。


「仔犬はそこで永眠しとけ!」


 箱の天辺を指さし、三枝なればこその暴言を吐く。


 階段フロアの扉を抜けた。のしのしと、褐色に汚れている階段をコレ見よがしの震脚でおりる。踊り場でUターン、さらにおり、ぐったりと床に萎れている立入禁止のトラロープを踏んで4階へ。


 同時に、廊下の左から歩いてきた男子生徒とちあう。ぴっちりとしたブレザーを上下にまとい、しかし頭には寝癖が立っている。見るからに大人しい少年である。あるいは不良生徒からのイジメに遭っている立場なのか、三枝を見るや否や発作的に狼狽、迂回するように有名人との距離を置いた。3年生の領土である4階──ということは、どうやら彼は1年先輩であるらしい。


「あんだよ!?」


 眉間の皺もたっぷりに威嚇、インパラと化した先輩に向かってずかずかと近づく。ひいッと小さく息を飲み、身を屈める彼のわずか十数㎝手前で軌道を変えると、満腹の虎よろしく興味もなさそうに三枝は擦れ違う。そして廊下へと出た。


 ふと、


『どうすれば、その胸に沁みる?』


 そんなフレーズが脳裏をよぎった。しかし、すぐにふるふると頭を振って追い払う。よぎらせずとも、理解ってる。


 堂堂と、黙黙と、廊下の中央を突き進む。5組、4組、3組と、クラスを若返らせるごとに人波の分割が分割を呼ぶ。まさにモーセの十戒である。


 どいつもこいつも要らぬ特別視──ますます腹立たしさが募った。


 2組の教室の手前で右折。先ほどおりてきたのとよく似た内装の階段フロアが設けられてある。これをUターンでおり、乾の弛緩していたフロアを経て3階の廊下へと出、さらに右折すれば、三枝の宿敵であるあの女の教室、2年1組がある。勤勉な生徒として有名なので、早早に会えるかも知れない。


「特別はひとりでいい」


 吐息に乗せて意志を確認し、今、まさに階段を踏もうとした瞬間のことだった。


 手すりの隙間から、誰かがあがってくるのが見えた。右上の隅をホチキスでとめてある冊子を手に、悠然と、のしのしとあがってくる。


 肩幅が広い。身長も高く、半袖のシャツから伸びる小麦色の二の腕も逞しい。髪はショートで、一見すると体育系の男である。しかし、着ている制服はウィメンズのものだった。このヒナ高に女装癖のある男子生徒がいようものならば間違いなく格好の餌食になるし、事実、あの以外にそんな生徒がいるだなんて聞いたことはない。


 女である。


 いや、そんな推理をせずとも、三枝ともあろう者が見間違えるはずもなかった。


 宿敵、百目鬼歌帆である。


 さっそくもさっそく、いきなりの本命の登場に、瞬く間もなく大汗が湧出。


 段差から飛び退き、忍び足で後退。


 忙しく周囲を見渡す。


 階段フロアと廊下との境界線上に、掃除用具の入っているロッカーを見つけた。誰が暴行したのかは知れないが、縦長の箱はすでに凸凹で、扉も蝶番ごと失われている。


 ロッカーまで駆け、ほうきの柄を握った。しかし予想以上に軽い。戦力にならないと即座に諦め、代わりにデッキブラシを入手する。それから、標的に背中を向けて待機。


 すると、


「おや」


 ブレザーの背中に声がかかった。


「お昼休みに清掃とは、感服いたします」


 アルトサックスをほうふつとする声で、揶揄なのか本気なのかよくわからない讃辞を浴びせる。まったく冗談の通じない女だと聞いたことがあり、もしや本気かも知れない。


「規律をもって学業に邁進まいしんする身なれば、環境整備の責を師範に甘えては門徒の恥。しかるに、我が身を真実の不肖たらしめる未熟さの温床とは、甘えを甘えと、恥を恥と思わせない慣性にありましょうか。緩慢なる惰性の習慣が常に是か非かの低俗な人間性のみを生むものなれば、わずか二者択一の不健康な社会を改むるためには忍耐したる習慣に自己をするが最たる正道。あぁ、私も先輩の真摯しんしなお姿を見習わねば」


 しみじみと、とんと理解できない言語を撒布しながら百目鬼は背後を通過する。そして三枝のかたわら、廊下のきわで歩みを止め、軍隊のように踵を揃えると、


「失礼いたします」


 3年生の領土に向けて慇懃いんぎんなる語先後礼。それから左折の歩みを踏み出し、


「それにしましても」


 再び、歩みを止めた。


「滑らかな廊下にデッキブラシをられるとは。その飽くなき修業の御心には、いまだ感服の着地点が見つかりません」


 意図の汲めない微笑みを浮かべ、女の上半身がこちらを振り向く。


 と同時に、


「そいつぁよかった!」


 振り向きのタイミングにあわせ、三枝はその膝の裏を目掛けてデッキブラシを薙ぎ払っていた。


 ぶんッ。


 刷毛はけを重しにし、鈍器は1秒でトップスピード。


 しかし、ヒットする直前、百目鬼はわずかに腰を沈めた。そして素早く右の膝を折る。エメラルドグリーンに輝くスリッパ、そのスポンジの足底を盾にしてヒットポイントを防御ガードしたのである。


 ぱんッ。


 爆竹の破裂音。


 たっぷりと体重の確保される彼女が動じることはなかった。むしろ、薙ぎ払った三枝の小柄な上半身のほうが跳ね返されて後退、よろよろと距離を離す。


 踊る視界に、吹雪が舞っていた。


 それが冊子だったものだとはとても判断できない。ただ混乱するしかない紙吹雪の中、三枝は、宿敵の姿を完全に逸していた。


 ぷつ。


 右のチークに鋭い痛み。しかし、まさかホチキスの針を刺されたともわからず、


「イづッ!」


 低い小声で叫ぶと、頬を押さえ、歪め、背け、溺れるようにしてさらなる後退。


「なんでも武器になりますね?」


 アルトサックスの声が眼前に聞こえ、距離を詰められていると認識。慌てて、敵の座標もよくわからないままにデッキブラシを薙ぎ払う。もちろん打撃の手応えはなく、


「顔は女の命」


 左の耳たぶが囁かれた。顔!?──台詞に誘導され、頭を抱えるようにして顔を防御。


 と、左の腰に奇妙な感触。


 ぢぃ。


 耳慣れた音。


 ぱさん。


 ブレザースカートが床に落ちた。


 一瞬にして解放される腰の締めつけ。


 大して変わらないはずなのに、清涼感をおぼえる下半身。


 それから、


「ひゃッ!」


 ひと息にして芽生えた羞恥心。


 脱ぎ捨てるのではなく拾いあげようと、とっさに上半身を屈めたのが三枝の武運の尽きだった。


 視線の先、フラフープを描くスカートを不意に遮ったのは、まるで金砕棒こんさいぼうのようなスネ。


 太く、逞しい脛骨けいこつ


 脛骨を覆うのは、小麦色の皮膚。


 皮膚に刻まれるのは、無数の傷。


 場数を踏んだ、天下無双のスネ。


 死ぬのもアリ?──そう思っ


 ぱかんッ。


 網膜の裏に乾いた音が鳴った。しかし残響はなく、呆気なく音は途絶えた。


 腰の入った、ミドルの右回し蹴り。


 痛みはなかった。


 仰け反り、膝が抜け、正座となり、勢いよく上半身を折り畳み、額で大地を叩き、ついに土下座の姿勢になっても、三枝には、なんの痛みもなかった。


 かろんこん。


 ブラシの奏でるパーカッションを堪能できるはずもない。


 教科書どおりの、失神KO


「あなたの敗因はただひとつ」


 ジンを奪った女の説教も、届かない。


「機能的な女の恥に溺れたこと」


 その代わりに、三枝の意識は、ただ1度、彼に抱かれる真冬へと帰っていた。


「それがなんの役に立ちましょうか?」


 遊ばれていると思わないでもなかった。しかし、その疑惑は些細な一般論に過ぎない。三枝の核に根づく恋慕に、一般論ごときがまさか敵うはずもなかった。


「動機は知りませんが」


 孤独な彼が好きだった。


「背水であるのならばなおのこと、下着姿をさらす程度の恥は捨つるべきでした」


 自由気儘で、だからこそ孤独そうにも見える彼の、


「愛する者を守れないことこそ、真に女の恥であると知りなさい」


 愛する存在になりたかった。


 山肌に応えてもらえる女でいたかった。


 見あげるしか術のない自分が嫌いだった。


 山頂を見あげては叫ぶ自分が。


 彼のレスポンスを待つ自分が。


 木霊を受けて、萎れる自分が。


 だけど、また見あげる自分が。


 暴言を吐き、それを幸せな行為だと信じた。仲間の誰もやろうとはしない暴挙に出ては特別な存在を演じ、演じられることが唯一無二の幸せだと信じた。幸せだからできることなのだと自分に言い聞かせた。


 しょせんは安全牌あんぱいの幸せ。


 ムカつくほどに理解ってた。


 絶対に実らない恋があることぐらいは理解っていた。でも、諦めきれずに動いた。好きだから動いた。敗れるために動いた。残された手は、しかなかった。


『どうすれば、その胸に沁みる?』


 惨敗こうすれば、きっと沁みてくれると、やっと振り向いてくれると、こいねがってしまった。





   【 了 】




 

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