参の戦 ≪ 最前線の男

 


『女の歓びは男の自惚れを傷つけること』── ジョージ・バーナード・ショー



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■ 狂犬グループの上層構成員 ~

  五十嵐いがらし 力弥りきや ── 曰く





「女は非力である」と世間はいう。男に較べ、女のほうが体力に劣るという多くの事例を示唆するための慣用文である。もちろん人の世は十人十色であるからして、体力の優劣は「男により、女にもよる」とするのが正確な表現なのだろう。しかしながら、一般論の範疇で人の世を計ろうとすれば、一定の偏向バイアスとともに語られることは覚悟すべきである。例えば、性犯罪を防止するために一部の強い女を優遇したのでは、多くの弱い女を犠牲にしかねないというわけである。そうしないためにも「女は非力である」という大局的妥結的な標語と、伴う監視哨を設置しておかなくてはならない。


 不文律としてのお話である。


 ただし、この標語の中に大きな罠が隠されている事実を多くの男は知らない。恐るべき暗号が隠されている事実を。


 標語をよく見てほしい。


『女は非力である』


「非力」という表記なのである。なぜか「無力」とは表記されていないのである。


 いずれも「力がない」という意味だが、漢字を分解して考察してみると、なにやら違った景色が見えてくるはずである。


「無力」は「力が無い」となる。

「非力」は「力に非ず」となる。


 件の「力」とは、もちろん体力のことを指している。腕力、脚力、背筋力などの筋力の他に、跳躍力、瞬発力、持久力など、筋力に追随する機動力を加味しての肉体的な力のことを指している。主にスポーツの世界で語られ、時に武道の世界でも語られ、稀に喧嘩の世界でも語られる「物理的な手応えのある力」のことを指している。


 あくまでも不文律として、男には「これが有る」とされている。ところが、対する女は「これに非ず」とされている。


 驚くべきことに、対偶となっていない。


 いったい、どういうことなのだろうか?


 これすなわち、闘争領域における女の武力が、体力とは異なる別次元のものであるということを暗に示した、いわば先人たちのありがたい知恵である。


 例えば、喧嘩。


 女の喧嘩を想像してみてほしい。多くの場合、女の喧嘩の手法とは口喧嘩であり、または派閥を形成しての陰口や自己優位性顕示行為マウンティングである。仮に啖呵を切ったとしても、顔面を変形させるほどの殴りあいへと発展することは稀。多くの場合には、感情にわずかな理屈の混ざる精神戦略こそが彼女たちの主流である。


 肉体を撃つのではなく、精神を削る。


 確かに、体力的には「無力」なのかも知れない。しかし、その無力さを補う戦略を携え、女は戦場に挑んでいる。大なり小なり、彼女たちにも守りたい存在や場所はあり、単純な体力勝負が覚束ないからこその戦略を練っているのである。


 そうやって、女は時に腕自慢の男どもを凌駕してきたのだろう。刃として削ることのみならず、毒ともなって操り、また掌の上に転がしてきたのだろう。だからこそ、女によって完膚なきまでに叩きのめされてきた憐れなる先人おとこたちは後世に伝えたのである。


「女の力は力に非ず」と。


「決して侮るなかれ」と。


 密告リークとバレないよう、暗号化して。


 さて、話をヒナ高へと移そう。


 三枝虹子さえぐさこうこの性情は、だいぶん男の世界に感化されたものだったのではないだろうか。もちろん、それはしかたのないことである。体力勝負で優劣の決まるヒナ高の生徒であるのならば、ましてや不良男子から一目を置かれる有名人であるのならば、いかにも女らしく精神戦略を練るなんて惰弱の極みであると位置づけたくなるのはもはや宿命的心理といっても過言ではない。


 三枝は、確かに体力的には無力だったが、武器を振るう図太さはあり、経験を積み、技術を重ね、たいていの軽い武器であればまるで手足のように扱う女だった。鉄筋、鎖、なた、針、メントール入りの制汗剤に至るまで、自分の筋力に見合うアイテムとわかれば見境なく使った。上手だった。もしや、だからこそ、ともすれば油断の塊となりがちな気儘な狂犬グループに粛然とした烈風を送りこむ御意見番でいられたのかも知れない。


 嫌いな女ではなかった。


 しかし、そんな彼女の顔は無情にも強靭な右のスネに叩かれた。意識は一瞬にして肉体から離脱、再び目醒めた時には、ヒナ高で唯一、蹂躙じゅうりんされることなく衛生管理の保たれている保健室のベッドの上にいた。


 1時間ほど前の話である。


『ふうん。あそう』


 三枝敗退の速報を耳にし、常に屋上で寝たきり状態のボス、鬼束甚八おにつかじんぱちは、大して興味のなさそうな吐息を青空へとくゆらせた。


 とはいえ、


『力弥ちゃん』


『はい』


『……ううん。なんでもないさぁ』


 気にはなっていたようである。


 表立って囁かれはしないが、三枝と密な関係にあると噂されるジンである。彼女が無惨に倒され、噂は真実だったか、五十嵐力弥に向けて仇敵の始末を滲ませた。


 畏怖の象徴に託された。


 紐帯ちゅうたいの象徴に託された。


 託された五十嵐にも、この仇敵に対し、特別に思うことがあった。


 同期の桜であり、盟友である乾丞秀いぬいじょうしゅうもまた無惨に倒されていたのである。


『今の狂犬グループはあまりにもヌルい。弱者に喧嘩を売ってばかりで、すっかり腕が鈍っている。このままではいずれ、神鷹しんようの知略や赤鯨せきげいの結束に遅れを取ることになるだろう。だから、俺たちが狂犬の模範となるんだ』


 こうして、乾とはともに語りあった。幹部の座に伸しあがることには野心を抱かず、自分の愛する居場所を引き締める役であるよう、ともに誓いあったものなのである。


 スピードの乾、パワーの五十嵐とくれば、幹部をも凌駕すると評価される仲だった。確かに、スピードに限れば大隣憲次おおとなりのりつぐに劣るのかも知れない、パワーに限れば鞍馬潮くらまうしおに劣るのかも知れない、しかし、乾との阿吽の呼吸があれば、曲者揃いの幹部たちでさえもオイソレとは勝鬨かちどきの声をあげられないはず。もちろん幹部に弓を引くつもりなど毛頭ないが、つまり、互いの持ち味を認めあい、列強に伍して戦うことこそが五十嵐の誇りであり、同時に、乾の誇りでもあったと信じる。信じあいながらの1年半だったと信じるのである。


 莫逆ばくげきの友が散った。


 昨日の放課後のことである。


 なにもさせてもらえず、恥辱を嘗めた。


 部下に肩を担がれ、よろよろと集会所に戻ってきた乾の顔を覗きこめば、いつにも増して細い一重の眼にいつもの光はなく、わずかに伸びはじめた黒い五分刈りもただの不精にしか見えなかった。


 部下たちはいちように狼狽え、言葉を失う始末。珍しく居合わせた大隣はいつも通りの無口で、やはり五十嵐が声をかけるべきだったのかも知れない。


『遊ばれた俺の拳は、もう敵を叩けない』


 惨敗した武者を慰められる言葉があろうはずもなく、ただただ歯噛みするばかり。


 なぜ俺を戦地に誘わなかったのか?──責める言葉が浮かびもした。しかし、五十嵐よりも実直な彼のことである、敵との立ち合いを多勢の無勢で乗りきろうとはツユも想像しなかったのだろうと、固唾とともに飲みこんだ。


 が、それでもなお、見届け人として選んでもらえなかったことが痛恨で、悔いだけが残り続けている。


 水くさいじゃないか……少しは俺のことも頭に思い浮かべてくれたか?……散り際に俺の姿はあったか?──今でも思う。


 いずれにせよ、乾は完敗した。そして、絶対のボスから五十嵐の手に、弔いの矢が託された。


 もはや、躊躇う理由はない。


「……殺す」



 ⇒ 20XX/09/05[水]13:XX

   東京都豊島区南池袋

   陽向ケ原高校の3階廊下にて



 話題に事欠かないのが夏という季節だが、だからといって、秋になったところでなにかが変わるわけではない。しょせんは四季である。しょせんは、暑いか寒いかの違いがあるに過ぎないのである。しかし、間もなく過ごしやすい季節が訪れると喜んでは、みな、怠けることなく希望の明日を夢見ている。都内で唯一だろう、ルールやモラルの崩壊したヒナ高の生徒であっても、爽やかな秋を迎えるため、厳格な夏に慎ましく挑んでいる。


 誰も覚悟の明日を夢見ていない。ぱッとしない、しかし死ぬには少し惜しく感じられるような1日が明日も続くだけなのに、手ぶらでも叶いそうな希望を希望しては青春の謳歌を口遊んでいる。


 とんだ茶番である。


 例えば、彼らは蝉時雨の覚悟を想像せず、ひとえに「お盛んなゆとり」と嘆いている。そしてすべてが息絶えた頃、しかし決死だった命たちを顧みることはなく、あくまでも自身の清涼を言祝ことほぐのみである。昨日とよく似た悪態を吐き、共感を探しては狭い世界を跋渉ばっしょうするのみである。トラ箱に入ることなど、ましてや死ぬことなど一毫いちごうも想像せず、覚悟からは程遠い陽射しをなぞるのみである。


 五十嵐は、どうやら違っていた。


「殺す。殺す。殺す」


 小さな口をブツブツと開閉させながら、猛暑の廊下をまっすぐに歩んでいる。


「それでおまえの両親が悲しんだとしても俺はいっさい胸を痛めない。裁判で反省を促されても俺はいっさい反省しない。すべての罪が必ず死刑であっても俺は必ずおまえを殺す」


 アドレナリンの分泌を惜しんでいない。そのせいで巨体に滲む汗の量は甚大である。ペールピンクのTシャツはジクジク、その様子はまるで熟れすぎた桃のよう。


「殺す。跡形もなく殺す」


 こうして、覚悟の武者震いをいさめながら己の脚に牛歩を強いているのは、勇み足では必ずや取りこぼしてしまう相手だと認めているからである。


 5時限目ははじまったばかりだが、細かな硝子の破片、青青とした落ち葉、油蝉の死骸、バイクのタイヤ痕、破線の陽射し──などの落ちている3階廊下は不気味なほどに静かである。ぼそぼそとした、受け持ちの教師たちが発する色気のない囁き声が漂流しているだけであり、地縛霊のさまよう廃校舎とうそぶけばたちまちのうちに頷かれそう。


 しかし、目指す教室へと近づけば近づくほどにゴミの量が減っていく。塵や埃でさえも目立たなくなっていく。あまつさえ破線の陽射しだけになっていく。


 そう、にわかには信じられないが、このヒナ高にあって、清掃の手が行き届いているのである。


 すべて、あの女の仕業なのだという。


「百目鬼歌帆」


 五十嵐の視覚はすでに前線を捕捉していた。


『2-1』


 るのはあの教室と決めている。戦るタイミングは目撃者の多い授業中と決めている。もちろん失神以上の結末が望みである。なんなら、女に手をあげたと非難する連中も一緒に始末しようと思っている。それで乾の汚名が返上され、狂犬グループの残忍さを弱者どもに再認識させられるのであれば、いくらでも悪魔に魂を売る覚悟でいる。


 雨雲の色をした出入口の引き戸、その把手に右手の中指をかける。


 ひと呼吸を置き、一気に開いた。


 ありあまる腕力が緊張感によって後押しされる。思ったよりもスムーズに引き戸は開き、勢いよく向かいのサッシへと衝突、すぱぁんッ──毛穴の騒ぐ破裂音をあげた。


 直後、廊下側の最前列に座っていた女が、びくりと両肩をすくませて硬直フリーズ。円らな瞳にぽってりとした唇、潤いのある長い黒髪の持ち主──こいつは確か、あの女の数少ない友人だったか。


 壇上では、禿頭とくとうの教師も固まっていた。


 のっしりと、無言で室内へと踏み入る。


 まぶしい。燦然と輝く陽射しがレースのカーテンに濾過ろかされ、清涼な乳液となってあたりを潤している。網膜を刺すわけでなく、むしろ薄暗いほどの室内だが、夕闇に匹敵するヒナ高の廊下を歩いていたのだから自ずと瞼を細めてしまう。白昼という単語も相応しい、まったく異常な空間である。


 教室の後方、主のいない机の上、1台の扇風機が首を振っている。角張った押しボタンを持つ昭和製の骨董品だが、なるほど国が変わったような涼しさを運んでいる。


 改めて全体を見渡す。


 授業を受けるという斬新な儀式に臨んでいるのは、7人の女。


 ちらと黒板を見る。ミミズの英語。


 再び生徒のほうを見る。


 後ろから3番目、左右では中央の席に、ショートカットの狼がいた。尖った顎、大きな唇、高い鼻、鋭いまなじり──野性を思わせる、毅然として美しい面立ちである。著者の自慰欲が込められる「ハイファンタジー漫画の女性の人狼」といえば、もしやこんな感じだろうか。


 五十嵐の邪魔が入ったからなのか、もともとがこういう表情なのかは知らないが、眉間に深深と縦皺を刻み、難しそうな顔で人狼がこちらを睨んでいる。しかしながら、鉄の棒でも挿しこまれてあるかのように背筋は正され、シャープペンシルではない、よく削られた鉛筆を美しく指に番えている。


 彼女の机の上には、朱色の色鉛筆、定規、消しゴム、カッター、大学ノート、英語の教科書が確認された。そして右上の角には鉛筆の削りカスを包ませたティッシュが。いずれも国営放送でしか見られない、昭和時代を匂わせる品揃えである。


 それら時代錯誤シャビーな小物を認め、ちと武器が多いな──五十嵐は懸念材料の数を思った。


 しかし、観客ギャラリーがいる。


 迂闊に使えば殺人事件ともなりかねない凶器を、仲間である観客の目の前で、果たして使用できるだろうか?


 否。


 自らが盾となり、努力の末に築城した平和な2年1組で凄惨な事件を起こそうなどとは、さすがに思わないはず。慕う友人たちに血の雨を見せようなどとは、さすがに思わないはず。つまり、平和を共有シェアする彼女の友人たちが、逆に、五十嵐にとっての優秀な後ろ楯となっていることを確定させたようなものである。


 いっそうに静まり返る室内、自信を漲溢みなぎらせ、彼は机の碁盤を分けた。


 すると、


「五十嵐。テメェなにしに来た?」


 件の女の向かって左、隣の隣の席に踏ん反り返っている金髪ベリーショートの女が、ハスキーな低音で威嚇してきた。


 こいつは知っている。名は次原伊織。彼女たち大人しいグループの中では稀有なヤンキー娘。敗れはしたが、かつて三枝と殴りあいの死闘を演じたこともある。


「睨んでも無駄だぞ。ツギハライオリ」


 初めて声を張った。剛毛を思わせる太い声。


「睨んで人を殺傷できるのか?」


 呆れたように軽軽と質すも、すぐに次原から視線を外すと、改めて本命を見た。


 女は、すでに音もなく起立していた。


 見蕩れるほどの逞しい体躯を誇っている。背丈は170㎝をわずかに超えているか、五十嵐と同格。また、うっすらと脂肪の乗った良質な筋肉が隠されているとブレザーの上からでもよくわかる。体重は、目算で70㎏前後か。


 鉛筆を机に置いている。なくなっている文房具は、ざッと見て……ない。


 すると、女は自席を迂回し、ゆっくりと五十嵐のほうへと向かってきた。


 小さな黒目の、上目遣い。


 眉間にはまだ、霞のような皺の跡。


 やや緊張した面持ちにも見える。


 固く尖らせられた唇は、ヘの字口。


 不貞腐れているようにも見える。


 真顔か、演技か、今いち読めない表情。


 と、急に歩速をあげて距離を詰めると、女が、


「えいっ!」


 拍子抜けするほどの幼稚な掛け声で、右の拳を五十嵐の顔面に突き出してきた。


 遅い。止まって見える。


 身体を沈めて難なく回避。


 空を斬る拳。


 同時に、ガラ空きの腹部が。


 迷わず、右の肩でタックル。


 ぐ!──シナモンが苦悶の声をあげる。


 勝機。


 豪快にリフトアップ。


 天高くリフトアップ。


 ひィ!──息を飲む観客。


 おかげでアドレナリンが湧出。


 じゃあ、まっ逆さまに。


 脳天から床に。


 カチ割ってやる。


 目にモノを見せてやる。


 そして次の瞬間、悲鳴をあげたのは、


「ぅえがッ!」


 五十嵐のほうだった。


 左の上腕に、刺すような痛みが走ったのである。


 脳天から床に落とすつもりだったものが単なるボディスラムとなり、強く麻痺する左手を離れて女の下半身がくるりと半周、猫のように足から着地。


 直後、


「イがッ!」


 右手の甲にも刺すような痛み。


「ええいっ!」


 うっかり空けてしまった右の脇から、またもや幼稚な掛け声とともに、ハグでもするかのような女のタックル。


 素人同然のタックルなのに、


「ふゴぉッ!」


 今度は右の太ももに針の痛み。


 さらに、腹部、左の臀部でんぶ、背中、腰──次から次へと激痛が移動し、苦痛の悲鳴やブタ鼻を鳴らしながらクネクネと踊る巨体。


 女にハグされたまま、ラテンのダンス。


 彼女の腕に絞めの圧力は感じられない。脆弱な女のパワーである。しかし不思議と振り解けない。まるでかずらのよう。


 たまらず、しなやかにしがみついている彼女の背中に肘を落とした。しかし、背中にも目がついているのか、紙一重のたい捌きで空を斬らされ、不覚にも背後を取られた。


「もガぃッ!」


 左の脇腹にも針の痛み。


 そして五十嵐は、ついに目撃した。


 親指の爪先と人差し指の爪先で、女が、皮膚をツネっていたのである。貧弱なハグを隠れ蓑にし、五十嵐の皮膚を、薄皮を、ちくちくとツネっている。


 指の腹と腹ではない、爪の先端と先端でもって、薄皮を1㎜だけツネる。


 衣服が隔てようがお構いなし。


 右の脇腹。痛い!


 左の太もも。痛い!


 右の太ももの裏。痛い!


 左の鎖骨の下。痛い!


 右の二の腕。痛い!


 また左の脇腹。痛い!


 痛い!


 痛い!


 痛い!


 痛い痛い痛い!


 たかがツネるという行為がこれほどまでに痛いとはッ!


「ぅあぁぁンンンッ!」


 艶めかしい悲鳴をあげていた。


 最後の力を絞り出し、ようやく五十嵐は女のフリーハグを振り解く。振り解くや否や頭を抱える。いや脇腹をガードする。いや太ももの裏を押さえる。いや二の腕をさする。ジタバタとダンスの佳境に興じる。そして彼は──彼女に背中を向けて、逃げていた。


 無我夢中。


 遮二無二。


 女にツネられて、逃亡。


 思いがけない敵前逃亡。


 脱兎の逃亡。


 忙しなく小走りに逃げ、8歩目ではたと顔をあげた。ビリジアンの黒板と、額のりあがった英語教諭の唖然の顔色が目の前にあった。加えて、すぐ背後からはクスクスという女どもの苦笑。


 桃が、烈火の果汁を噴いた。


 立ち止まることなく五十嵐はいっそうの加速、たちまちのうちに教室を抜けていた。


「なんかわかんねぇけど滑稽すぎる!」


 次原の呵呵大笑に、誘われる爆笑。


「ぅ、う……」


 引き返したかった。懇願したかった。深深と土下座をして「もっかい頼む!」とアンコールしたかった。


 もう、引き返せなかった。


 まさか引き返せるわけがなかった。


 真面目に喧嘩してもらえず、拳を固めてもらえず、むしろ脱力でもって応じられ、無力を演じられ、ツネくられ、なのに悲鳴をあげ、悶え、踊り、あげくには自分のほうから逃げたのである。のこのこと舞い戻るような図太いプライドなど、彼は、ひとつも持ちあわせていなかった。


 ゆえに、走る。走っている。


 いったいなんのために走っているのかももうわからない。しかし、確かに巨体を走らせ、確かに前線を放棄して五十嵐は、


「ぅ、ぅう、ぅおおおおおおおおおッ!」


 一縷いちるの肺活量で謎の咆哮ほうこうをあげていた。





   【 了 】




 

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