弐の章【 抗争 】
壱の戦 ≪ 相対する男
『リハーサルなんて嫌い。だってセックスの前にリハーサルなんてしないでしょ?』── ビョーク
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■ 狂犬グループの上層構成員
『空手を学べ。柔道を学べ。剣道を学べ。守るべき者をその手で守らんとする明日の喜びために、おまえは今こそ道を学べ』
引っこみ思案な乾丞秀を力強く鼓舞した高校教師の父は、小学校を卒業する息子の勇姿を拝する直前、あろうことか
彼は、いったいどの道を学び、どの手で喜んでいたというのだろうか?
一家の離散に伴って心まで離散させていた乾は、無駄に強くなっていた喧嘩術を上達させるためだけに中学の3年間を費やした。習っているはずの活殺の拳は
敵を
中学生という若い身空にありながらも、戦果をあげればあげるほど、自我を守るだけでは天井知らずの喜びなど得られようはずがないと熟知していった。しかして、自分を超越する者がいなくては、この離散した心が自我以上に守りたい者を見つけてくれようはずがないとも諦めていった。
顎を打たれ、ついに乾は敗北した。
関東圏に随一の不良高校『ヒナ高』へと入学した初日のこと。彼は、手も足も出せず……いや、出す暇もなく
右フック、一閃。
『自縄自縛はつまらんだろう? あんた、そんな顔をしてるよ。でも、無駄に勝ち続けてきたせいで自分のガラパゴスを警護するしか手がなくなってる』
涼しい顔をして狂犬が囁く。
『その道には限りがあるだろうよ』
自分を超越した者が微笑む。
『コッチの道を歩いてみねぇか? ソッチよりは遥かに喜びってモンがあろうぜ』
異なる朝陽を、見たのである。
☆
呼ぶから敗北するのだと、部下の愚挙を憂えて止まない。
いったいどんなプライドが働いてのことなのかは知らないが、格好つけて呼び出しておいて返り討ちに遭っていれば世話はない。そもそも、呼び出すということはつまり相手に戦闘準備期間を与えるということに他ならない。大した喧嘩の技術もなくただ殴った経験しかないような
『鬼門陰陽流』だそうである。
キモン・インヨウリュウ。
精悍さの中に緻密さの輝きを感じる、実に厄介そうな言葉の響きである。
巷説によれば明治時代の初頭に
『体育館で待ってるゼ』
そう宣告して呼び出し、律儀に待機することがヒナ高で最も格好よいとされる風潮らしいのだが、超古武術を相手取り、お優しくも戦闘準備期間を与えるなど自殺行為に等しい。真実、昨日の昼休み、乾の部下2名が瞬殺された。その放課後、続け様に3名が闇へと葬られ、1名の自宅の玄関先には、
『本日はもう飽きましたのでまた後日』
謎の葉書が投函された。
抗争のためにあの女を体育館へと呼び出し、あまつさえ首を長くして待機していた6名のうちの5名が、敵の人相も確認できないまま伸されたあげく、残る1名が襲撃延期通達を受けたというわけである。
こんなお茶目な話がどこにあろうか。
ヒナ高に一等の綺羅星と誇る狂犬グループの栄えある構成員ともあろう者が、時代錯誤な風潮に胡座をかき、敵に準備期間を与え、闇へと葬られ、延期通達を投函されるなど愚の骨頂である。まことの恥である。
その時、その場で立ち合うべし。自分の土俵を認識し、力尽くで誘致すべし。敵が戦場格闘技の手練であるのならばなおのこと、立ち合いの構図はシンプルなものであるべし。
自我を警護するだけの空っぽな毎日から脱却させてくれ、生まれて初めて、鍛えた拳足を存分に振るっていられる満足の大地へと誘ってくれたのがジンである。慕い、敬うのは当然の心理であり、また、彼から頼られているのだと自負することも当然の心理である。ならば、必至、断じてジンに恥をかかせてはならないと強く決意することも。
部下の青い尻は、上司が拭うべきである。
幹部の描いた
権利は、正当に行使すべきものである。
確実に、忠実に行使すべきものである。
ジンの城は、乾こそが守るべきである。
ならば、向かうべきは2年1組である。
立ち合うべき敵は、あの女である。
そう、女である。
格闘センスに満ちている女である。
名を、百目鬼歌帆という。
身長は173㎝。体重は67㎏。女子アマレスの選手をほうふつさせる、バランスよく筋肉と脂肪の和する
油断はならない。
彼女の土俵に立ってはならない。
彼女の闇夜に立ってはならない。
やはり、その時に戦うべきである。
やはり、その場で戦うべきである。
そして、全力で屠るべきである。
「男女差別はしない」
ぼそりと声に出して初志を確認すると、乾は大股で廊下を急いだ。
床に敷きつめられる灰色のプラスチックタイルを今にも溶かしてしまいそうな残暑である。もちろんエアコンは設備されてあるのだが、全校生徒の総数に対して教室を利用する生徒数の割合が圧倒的に低く、ゆえにか分電盤に節約の錠前がかけられてある。もう何年も起動していないらしく、下手に動かせば漏電して火災となることは必至だろう。加えて、窓硝子の過半数が割られたままであり、大都会の熱風を遺憾なく吸いこむフィルターと化している。しかも排気機能に欠ける段ボール製のフィルターなのであり、校内に居座る灼熱はすでにサウナを凌駕。あげくの果てには廊下に蝉の死骸が転がる始末で、要するに馬鹿どもの武勇伝づくりが色色と裏目に出ている。
しわしわしわしわ──青春を語るために欠かせない一人前の蝉時雨ながら、青春を謳歌する少年たちを相応しいステージから遠ざけるばかりの暑苦しい晩夏。
⇒ 20XX/09/04[火]17:XX
東京都豊島区南池袋
陽向ケ原高校の3階廊下にて
放課後の校内に人の気配はない。ただでさえ中枢には集わず、周辺の体育館、体育倉庫、荒廃した部室に
乾もまた、17時を回った校内を歩くのは数ケ月ぶりのこと。思いの他の静けさに、心なしか独り占めの優越感が湧かぬでもない。
すべての生徒が姿をくらませる放課後の校内にあって、しかし、慎ましく居残りをするのがあの女だと耳にしたことがある。
確かに男女共学校ではあるが、そこはやはりヒナ高、全体の7割が享楽的な男子であり、教師が職員室へと隠れてしまった放課後に女子が残るのは危険きわまりない。いつ、どうやって、どこに凶槍を挿入されるか知れたものではなく、よって、好奇心に勝る一部の女子がたまに裏庭で乱交パーティをする以外、ほとんどの女子が足早に下校し、もしくは不登校となる。これが、ヒナ高の偽らざる日常なのである。
なんでも、あの女は宿題や授業の復習をするために教室に残るのだという。定規を使って丁寧にノートを仕上げ、終了後には床を掃き清め、机や椅子をぴちりと整頓してから穏やかに帰路に就くのだという。異常な女である。乾にとってはまさに謎の習慣だが、しかし、今日ほど彼女の
伝って落ちかける額の汗を右手で拭う。ワイシャツの第3ボタンまで開けて通気を確保。そして生来の細目を目一杯に見開くと、目指す純白のプレートを網膜に焼きつけた。
『2-1』
引き戸の奥に微かな気配を感じる。時代劇でもあるまいし、もちろん錯覚の気配なのだが、乾には正しい錯覚であるとする自信があった。あの女が噂どおりの女であるのならば、よもや習慣を裏切るはずがないと。
にわかに忍び足になると、呼吸を止めて引き戸の前に立つ。鈍色にくすむ把手の凹みに右手の薬指をかける。そして息を吐くと同時に、らッ──力強く、戸を左へとスライドさせた。
まっ先に、視界の中央に女の姿が飛びこんできた。整然と並べられる机や椅子、その碁盤の中央で、こちらに背中を向けてすらりと立っている。
乾と肩を並べるほどの背丈、痩せやすい体質の乾には届きそうにもない筋肉質なアマレス体型、外耳を半分ほど隠す漆黒のショートヘア──パッと見は男性だが、アッシュの格子縞が入るブレザースカートと、その下に伸びている潤った皮膚が女性であると認めさせた。とはいえ、会話をした経験はなくとも同じ2年生なのだし、まったく風貌を知らぬわけでもないので
彼女、ひとりである。
胸のあたりに両手を当て、肘の挙動から察するにボタンをとめている。スカイブルーのワイシャツは完全にスカートの外へとさがり、見れば脇の机上には黒いタンクトップが無造作に置かれてある。どうやら
乾の乱暴な入室に気づいていないとも思えないのだが、依然として女は逞しい背中をこちらへと向けたまま。
そういえば、教室中に仄かなシナモンの香りが漂っている。人を安堵させる香りである。どっしりとして存在感のある、南国の大樹を思わせる大らかな香りである。ゆえにか、言葉数の少なさでことごとく喧嘩の初期を掌握してきた乾ともあろう者が、ついうっかり口を滑らせて問うていた。
「百目鬼歌帆、だな?」
「闘争において──」
質問の語尾を遮るように、背中を向けたままの彼女が呟いた。アルトサックスのように中音域の厚い声であり、腹式呼吸ができているとわかる。
「闘争において、女に足りないものを体力とするのならば、では、満ちているものとはいったいなんでしょう?」
悠然と質しながら、ついに女は、花弁が開くように振り返った。
乾の目には、そう見えた。
わずかな勾配をつけて吊りあがる目は、黒よりも白の面積のほうが広いためか飄飄として冷たく見える。鼻筋は澱みなく通り、途絶えた先端はつんと尖って高い。上唇は肉感的に厚く、下唇は冷淡に薄く、横幅はいずれも広く、わずかに開く微笑の左右からはまるで牙のような糸切り歯が覗いていた。顎もシャープに尖り、しかし痩せているのとはまた違う、バランスの取れた逆三角形の頭部を形成している。
やはり、狼をイメージさせる顔である。眉がやや太いのが難点だが、メイク如何によっては天文学的に化けるであろう未来ある美貌でもあった。
百目鬼歌帆を初めて間近にし、瞬時に、乾は無差別の初志を
いや、美貌だけが喪失の原因ではなかった。ワイシャツが、なぜか上から4つ目のボタンしかとまっておらず、胸もとが広広と
「立、ち合いが、望みだ」
すっかりと狼狽、黒雲に邪魔される山肌への釘づけを赦しながらも、理性と意地を手立てにしてかろうじて1歩を踏み出す。
すると女、
「ふ。律儀な殿方」
蠱惑的な微笑みを低く囁きながら、ずいと1歩を寄せ返した。と同時に、最後の砦であった4つ目のボタンに両手をかけると、猛烈な引力を帯びる上目づかいで乾の目を見つめながら、ぽつ──外し、
「所望をタてて交わるおつもりですか?」
躊躇なく左右に開いた。
とたん、どッと脂汗が湧く。
この女は硬派だったんじゃないのか?……これも忍術の一環?……ただの誘惑?……Eカップ?……黒って意外だ……スゲぇ腹筋……でもクビレがある……よく見りゃ傷だらけ……百戦錬磨……確か米軍にも指導してるんだっけか……筋肉質なクセに柔らかそうな……処女だという噂……ウソつけよ……F?……G?──走馬灯のように一瞬にして邪念を錯綜させていると、
「ならば乱暴に貫いてください」
つかつかつかつか。アラレもない姿のまま、女は急加速で間合いを詰めてきた。1歩ごとに確かに波打つ柔らかな山肌──さらなる釘づけを赦している間に詰められていた距離、気づけばすでに80㎝。
「のぅわッ!」
詰められすぎたと焦る乾、眼前の女を目掛け、とっさに右の正拳を繰り出した。と同時に彼女、なぜか
「あ?」
手応えもなく、拳が貫通していた。
いや、拳の先に、胴体がなかった。
万歳の状態から一気にしゃがむことで、手ぶらのままワイシャツを脱いでいたのである。そして乾は、主を失って滞空するワイシャツをサンドバッグにしただけだった。もちろん、彼にそんな芸当を解析していられる余裕などなかったが。
右の拳にぐったりと取り残された暖かなスカイブルー。しかし、それをまじまじと観察している暇も与えられず、
「ぷお!?」
暗黒の闇に染まる視界。
背後から、生ぬるいナニカを顔面に巻きつけられたようだった。
それがブラジャーだとは夢にも思わない。
手際よく一瞬のうちに、まるで
たまらず、
「かッ!」
気合いの
休む間もなく、
「こ……!」
自然、喉仏のあたりから
スリーパー・ホールド。
『
乾の背中に女が負ぶさり、頸動脈を絞める。
硬質でありながらも瑞瑞しい、コルクをほうふつとする両腕が彼の喉に巻きつき、お腹には両脚が絡みつき、腰には腹筋がへばりつき、そして背中には、満たされすぎない水風船のような、あまりにも巨大な母性がふたつ。
重く、硬く、暗く、柔らかい。
しかし頼みの五感は風前の灯。
大らかなシナモンの香りが前頭眼野を
すると、左の耳たぶに、
「もうおわかりですね?」
音声になる間際の、
「答えは──武器」
アルトサックスのこそばゆさ。
「あなたも凶器を持参すべきでした」
ごろり。簡単に仰向けにされる。間髪を入れず、頭頂部に鋭い顎が押し当てられ、深い頷きの角度を無理強いさせられると、そのまま、絞めつけを強めるでもなく、ただそのままの状態にされた。
す──。
肉体を離れ、乾の意識が暗黒の天上へと打ちあげられ、
雲・散・霧・消。
「さて」
仰臥する空虚な肉体が──
「しょせんは消耗品に過ぎませんで、そのブラジャーはあなたに贈呈いたします。どうぞ自慰の糧に」
ところが木乃伊は解かれず、
「しかし、情けない限りですね」
乾の喜びは、滅ぼされた。
「乳房をさらけ出した女子高校生にこうもたやすく敗北するとは」
新たな朝陽は、のぼらなかった。
「恥を知りなさい」
満天の闇が白むこともなかった。
【 了 】
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