第2話 アリはキリキリする胃に対してはちみつで対処する
アリとキリギリスという童話がある.
働き者のアリたちはせっせと働いて食料を巣に溜め込んでいて,一方キリギリスの方は遊び呆けて刹那的に生きてきたツケとして冬に食料がなくなってしまう.アリたちは働き続けたおかげで冬も生き延びることができたが,キリギリスは食料不足で死んでしまうんだったろうか.ラストを正確には覚えていないがこのような寓話だったと思われる.
僕の大学生活は,アリの生き方に近かったかもしれない.少し先の未来のために今努力することを選ぶ人生の処世術.キリギリスのような遊びに時間を費やすよりも来るべき試練のための基礎体力作りに専念していた.
こういうのはわりかし楽しいもので,例えるなら,山道を登りながら少し先に見えるゴールを目指して一歩一歩と歩を進めるような感じだ.それは一見するとしんどいもののように思われるが,歩を止めないで前を向いて進み続ければゴールに辿りつき,今とは違う景色を楽しむことができるのだ.
もちろん,人生には失敗することもあり,歩みを進めてもうまくいかないことだってあるものだ.しかし,当時の僕は自分の成功を半ば盲目的に信じていた.
さて,どうして突然このようなことを語り出したかというと,僕は今まさに坂道をゴールを目指して歩いていたからである.
ここでのゴールとは僕の所属するサークルの部室のことを指している.
僕は,大学では文科系のサークルに所属することに決めていた.スポーツが元来苦手であり,高校での体育の授業も苦痛で仕方がなかった人間がどうして大学においてスポーツをしようと思うだろうか.小学校の時もドッチボールが大嫌いだったし,あんなものは人間のする遊びではないと思っていた.
新歓の頃に,僕は幾つかの文科系のサークルを見学しに行った.純粋に興味でいったものと,ただなんとなくカッコよさそうだから見てみたいというミーハー根性丸出しで見学しにいったサークルがある.カッコ良さそうというイメージだけど突っ走れるのは若者の特権だと思う.カッコ良さそうとかなんかすごそうというイメージ先行で何かを始めると失敗して痛い目をみたりしがちだが,ある程度の年齢になるとそうした失敗には目も当てられなくなってしまうのだと思われる.
結局,僕はプログラミングなどの情報系のサークルと文芸サークルに入部することにした.本当は,演劇部にも入部してみたいという気持ちがあったが,自分の性格上人前に出てパフォーマンスをすることはすごく楽しそうだと思う反面,緊張して何もできず劇を台無しにしてしまう可能性を危惧して敬遠してしまったのだ.
「変身願望ってわかる?」
部室でJavaの入門書を読んでいた時に,部長の大原さんが話しかけてきた.大原さんは僕によく話しかけてくる.いや,正確にはどの部員にもわけへだてなく話しかけてくるのだ.本人自身が大変暇でしかたなく,話し相手が欲しいがために話しかけてくるのかもしれないし,部員とのコミュニケーションの重要性を理解しているためにそうしているのかもしれない.いずれにせよ,高校時代では誰もが僕を邪険に,もしくは,そこにいないかのようにしていたことに比べると話しかけてもらえるということは,少なくともその存在を許可しているということであろうと思われて少し嬉しかった.
「変身願望ですか?うーん,わからないくないかもしれませんね」
「俺っちさ,なんていうか今の自分じゃダメな気がしてさ」
大原さんは椅子の背もたれに腕をダラリと乗せて,気だるげという言葉が僕の脳内で呼び起こすイメージをまさに具現化したような態度で話してくる.また,俺っちというのがどうやら大原さんの後輩に対する一人称であろうということが入部から2ヶ月経過したことにより判明している.大原さんの先輩に対しては大原さんの一人称は私なのだ.僕は,大学に入るまでは年上と年下で一人称を変更する人間というものを初めて観測したため,少し驚いたのを覚えている.
「僕も今の自分ではダメだと思うことは多々ありますね.大原さんは何がダメだと思うのですか?」
はあーっと深いため息を吐く大原さん.そのため息の印象はマイナスイオンという言葉が醸す清浄感に対してそのベクトルを反転させたもののように思えた.つまり,とても不快な感じがした.
「やらない二十歳ってあるでしょ.俺っち彼女いないんだよね.彼女いない歴イコール年齢的なあれよ」
大原さんの悩みというのは彼女と呼ぶべき女性が存在しておらず,そしてそのお付き合いの中に存在する性行為を経験したことがないということであった.そしてその悩みが,彼の口から地獄の釜の湯気のような醜悪な心地のするため息を生み出していたのだ.
「僕もいたことないですよ.でも特になんとも思ってないですし,大原さんも別にそのうちできるでしょう,彼女さん」
僕はそう答えて,姉のことがなぜか想起された.姉のことを思うと,あまり若い女性に対して良い印象が持てなかった.それだけでなく,僕自身の中でも焦りのような感情が発生したことを否定することはできなかった.
彼女がいないということが,男子大学生に対して,青春という一度過ぎ去ると二度と訪れないその特別な期間をドブに捨てているような感覚を与えるのだということがここにきて初めて理解されてきたのだった.そして,そのことによって今まで感じてこなかった,言葉にしえない多大なる劣等感がじわじわと心に染み込んでくるのだった.
「アリとキリギリスってあるじゃんか.俺っちさ,アリみたいにせっせと単位とって結構真面目に大学生活送ってきたわけ.大学に限らずさ,高校のときも結構テスト勉強とかもやって頑張ってきたわけよ.別にまだ人生終わりじゃないからさ,この先のことはわかんないけどさ.けどさ,この先さ,まだ見ぬ未来のためにせっせとアリみたくやって,その結果何もなかったりするかもじゃんか.つーかさ,今キリギリスみたいに遊んでるやつの方が就活とかでも評価されんだよね.だからなんつーかさ,俺っちの人生これでいいんかなって気がしているわけ」
大原さんは今大学3年生で就活を控えていたし,公務員試験対策もしていると聞いていた.だから,ちょっとストレスがたまっているのだろうと自分に言い聞かせた.
それで会話は終わり,大原さんはパソコン作業に戻り,僕もJavaの入門書の方に戻った.
彼女というものの存在が示せる大学生活を送れなければ,そのことが男子大学生に対してある種のニヒリズム的な価値観を生じさせてしまうのなのだということがわかった.
家に帰って,今日読んだJavaの入門書にあったプログラムのコードを書いた.ifの条件式が偽であればelseの後のステートメントが実行されるというものだ.僕はelse側になるのだろうかと不安になって布団に潜りそのまま寝た.
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