恋愛パソロジー

古吉春雨

第1話 光に紛れた影

 高校時代のことがふと思い出された.

 僕は,教室の隅で勉強していた.数学と物理の練習問題を解いていた.そんな風にして毎日をやり過ごしていた.

 この教室という空間においてはある種のヒエラルキーがある.スポーツができたり明るくて話の面白い人たちや顔の造形が美しく誕生した人たちはこの空間では上位の人間であり,話すのが得意ではなかったり,性格が暗いタイプの面白くなかったりする人間は下層の人間とみなされる.

 これらの階層構造は明示的に存在しているわけではなく,多くの場合暗示的に存在していて教室の生徒全員がなんとなく雰囲気でそれを理解していた.もちろん,このような階層構造が明示的に示されてしまえばわが国における博愛的な価値観とそぐわないため仮にそれが実質的に存在していたとしてもその存在ははっきりと明らかにすることはタブーと思われた.

 先に述べた,暗いタイプの人間でも暗い者同士で固まっている場合も多く観測された.そうした人間たちは相互にヒエラルキーの下位の存在であることは承知していたであろうが,まだ友達と言える間柄の人間が存在するためその精神的安定性は幾ばくかは保証されたであろう.

 この物語の語り手であるは,その暗いタイプの人間であると思われるが,その暗いタイプの人たちともうまく関わることができず,友達と呼べる間柄の他者はこの教室全体を見渡しても存在していなかった.

 だから,このように数学と物理の問題集を解くことに専念していたのである.数学や物理が好きだったのならまだ僕は幸せだったであろうが,実際のところ,僕は数学や物理は暇つぶしの道具でしかなく,その学問自体にはさほど興味はなかったのだ.しかし,やることがないというただそれだけの理由でも,日々の努力というものは功を奏してしまうものであり,必然的に僕はこの高校においては成績は上位一桁に属してしまっていたのだ.

 僕は人との関わり方があまりわからなかったし,目立ちたくないという気持ちが人一倍強かった.だから,あまりしゃべらないようにしていたのだが,それがさらに状況を悪化させていたということに気づいたのはずっと後のことであったが,そうした僕の気質と成績だけは良いということが組み合わさって,性格の悪いやつだと見なされるようになった.

 実際,僕は性格が悪いのかもしれないと思い悩むことも多かった.だが,今振り返ると性格の良し悪しというものはその時々でも変化しうるし,他者からの評価という者はさほどあてにならないものだ.だが当時の僕にとっては,ただでさえ人と関わることに苦手意識を感じていたことに加えて,性格が悪い問題のある人間であると見なされたことを非常に気にしてしまって,さらに人と関わることを苦に感ずるようになった.

 そういうわけで,僕は数学の微分積分の計算や級数の和とか,バネの先に重りがついていてそこに力を加えるとかいったことに専念することで,それらの苦痛を紛らわせていた.

 これまでに述べたことを要約してはっきり述べると,僕はこの教室内のヒエラルキーの最下位もしくはヒエラルキーの外にある,江戸時代の身分制度に例えると,えたやひにんと呼ばれる存在と同値であった.

 僕は,そんな自分が嫌いでたまらなかった.

 自分の4つ上の姉は僕とは違って社交的で他者ともすぐに打ち解けて仲良くなって,常に彼女の周りには人が集まるようになっていた.僕は家では姉に常に否定されていた.あんたは話も面白くないし学校でうまくやれないでしょうとか私だったらあんたみたいなのとは友達になりたくはないとか,そういうことをことあるごとに僕に言って聞かせた.

 姉はこの時大学4年生で就活中であったが,あまりうまくいってなかった.

 姉は社交性もあるし,女性なのもあって就活はうまくいくと思われたが,当時の経済情勢もあり現実は厳しい状況となっていたのだ.姉の理想の企業からは内定がでず,彼女は自分の志望のレベルを下げてとにかく内定が欲しい,そういう状況であった.彼女は就活で少しくたびれた顔で家に帰ってくると,就活の愚痴を僕に言って聞かせ,それだけでなく僕の人格否定をしてきた.

「あんたは数学や物理ができる理系だからいいよね.理系だとやっぱ就職しやすいみたいだし.でもあんたは面接とか無理よね.あ,あ……ってカオナシかよみたいな」

 そういってキャハーと笑いだす姉.

 僕は姉の前ではただひたすらうんと頷くしかなかった.彼女の話にYesを言う役.それだけが僕に許された行動だということがこれまでの姉との生活で理解されていた.

 実際,何度か彼女に反論したことがある.そうした反論に対する姉の反応は,倍返しどころか相手が自殺するまで追いつめるオーバーキル攻撃のような弾丸がとんできて止めようがなかった.

 姉は地元の私立大学に進学していて,内定がでなかったらまだこの家にいるのだろうと思うと僕の胃はキリキリと痛んだ.

 僕は今,高校3年生の秋であった.進路を決定する時期だった.僕は親にお願いして,地元から遠く離れた国立大学の工学部を受験させてもらえるように頼んだ.

 父と母はその申し出に対して国立大学であればこの家を離れても良いということで許可を出してくれた.だから僕は周囲の風圧に耐えて受験勉強をがんばり見事志望校に合格した.

 姉はその年度内に内定がでなかったが僕の合格に対して

「あんたの進学先なんてオタク大学でしょ.しかも東大よりレベル低いしやっぱあんたは駄目ね.あんたよりもっとできる人なんてたくさんいるでしょ」

というコメントを述べた.

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