恋待蕾
雨谷結子
上
「ハアッ……ハア」
真昼から降り続いたみぞれまじりの雨のせいでぬかるんだ道を、花は一心不乱に走っていた。
飲み込んだ凍れる息吹は、呼吸すら許さぬかのように、身体を内から食いやぶる。無慈悲な厳冬の大気は花をいましめ、踏みだす足の感覚を痛みすら通り越して麻痺させていた。
野良仕事ですっかり硬くなったはずの足の裏は砂礫を踏みつけて傷つき、ところどころ血が滲んでいる。泣きだしてそれで仕舞いなら、とうにそうしている。けれども今は、一時でもこの足を止めれば、見つかってしまう恐れがあった。
血を分けた父母に口減らしのために売り飛ばされることなど、東北の寒村に暮らす貧農の娘にはよくあることだった。ましてや昨年は冷夏。凶作のため、その日食うものにも困る始末であった。
二人の兄と弟のために、女子の花がその煽りを受けたのは当然のこと。苦界の勤めも仕方がない――と、昨年違う女衒に連れられていった隣の家のおみっちゃんなら思っただろう。
花は違った。声を大にして、理不尽を呪った。まだ恋も知らぬ年若い娘が、見ず知らずの男に体を差しださねばならない不条理を憎んだ。
三十年ほど前に、江戸の町は東京と改められた。二六五年続いた徳川の世は、御一新によって脆くも崩れ去った。東京は欧化の熱に浮かされたように文明開化を叫び、風俗から制度、精神にいたるまでを塗り替えていっている。
明治二十七年、清国との戦争に勝利した日本は、忠君愛国に足並みをそろえ、帝国主義の逃れられない大波に嬉々として飲み込まれようとしていた。
その狂気にも似た高揚は外へ外へと向かい、内に抱える民らの叫びがかえりみられることはない。対外戦争は帝国同胞としての意識を高め、仮想敵はごく自然な形で政府から異国へとすげ替えられた。
明治十年代に盛んだった民権運動はすっかり息をひそめ、帝国の強権が我が物顔で国中を闊歩している。
帝国が売られゆく花に手を差し伸べてくれることはない。
これまでだって、困窮する細民を帝国が助けてくれたことはなかった。それどころか寄生地主の増長を許し、資本主義の歯車に貧民たちが姿を変えてゆくのを是とした。
そんな時代の奔流に飲みこまれた花は、頼みに出来るのはおのれだけということをすでに心得ていた。
花は一瞬の隙を突いて、女衒から逃げだした。
娘たちを売った金で肥えた女衒には、足の速さでは負けない自信がある。だが厄介なことに、女衒は
額から垂れてきた汗が、大きな黒目がちの瞳につたう。花は顔をしかめ、ごわごわのおかっぱ頭をぶんぶん振った。それから間もなく見えてきた曲がり角の周囲を、睨みつけるようにして見渡す。角を曲がりきる手前、不安に駆られ、後ろを振り返った。
薄くのっぺりとした夜霧に覆われた路地には、古びた長屋がせり出してひしめき合っている。谷あいに特有のじめじめとした空気が絡みつき、あたかも通行人を圧迫してでもいるかのようだ。
朽ちた屋根や傷んだ壁を見るにつけ、故郷の困窮ぶりとそう変わらないとさえ思ってしまう。帝都といえど、すべてがその威光のなかにあるわけではないらしい。
明かりのない夜道を、ぼろぼろの衣をまとった人々が慣れた様子で進んでゆく。行き交う人々の数は少なく、よそ者の花を気にかける余力のある者は皆無だった。追っ手の姿もない。
自然と花の切羽詰まった足音が、緩慢なものに変わってゆく。花は束の間の安堵に身をあずけ、路地裏へとつづく四つ角を曲がった。
「ぎゃっ」
花は素っ頓狂な叫び声を上げ、尻もちをつく。何かに体当たりをしてしまったようだ。
「そんなに急いで、どこに行こうってんですかい。もしや、俺に逢いに来てくれたんで?」
頭上から、おそろしく甘やかな低い声が降ってくる。ぶつけて赤くなった鼻をさすりながら仰向いた花は、瞠目した。
一目見て上等と分かる黒地を使った、着流し姿。女衒と同じはずのざんぎり頭はその艶のある髪質のせいか、気品さえ漂う。すっと切れ長の瞳は長い睫毛にふちどられており、異人じみた鼻梁と薄い唇、ほどよく焼けた肌と相まって、野性味を帯びた男くささといっそ危ういほどの色香が同居していた。
そこに、ちぐはぐさは微塵も感じられない。そうあることが当然とでも言いたげな傲岸さは、清々しくさえある。男は咥えていた
「何だ、餓鬼か。それともそういう趣向の坊主か?」
男は、花を小僧と勘違いしているらしい。
無理もない。お下がりの着物はつぎはぎだらけで、柄もほとんど色褪せて分からないほどになっている。髪の毛はろくに手入れなどしたことがないし、手足も顔も泥にまみれて見れたものではない。
「あいにく俺は、はした金じゃ買えねェよ。他をあたりな」
流し目をくれると、男は着物の裾をひるがえして早々に立ち去ろうとしてしまう。
花を助け起こすどころか、散々な物言いである。花はむっと頬を膨らまして立ち上がる。仁王立ちになって目の前の男の着物の袖を、むんずと掴んだ。
男が面倒くさそうな表情で振りかえる。貧乏人の餓鬼には、営業用の顔など無用というわけらしい。
「あのね! あいにくあたしは坊主じゃないの。それに、あんたみたいな夜鷹なんて、頼まれたって買ったりしない」
軽侮さえ滲ませた花の言葉に、男の形の良い眉が寄せられる。
街頭で花を売る娼婦の存在は知っていた。これはその男版というところか。男娼という言葉が水泡のように頭の中に浮かんできた。それにしては女々しさも、春をひさぐ商いに身を沈める者たち特有の追従も感じられない。
「なるほど、花売りはお嫌いで?」
男娼は首を傾げて歪な笑いを浮かべると、よく手入れされた指を花の髪に伸ばした。花の身体が敏感に震えて男を拒む。その様子を見て、男娼は人を小馬鹿にしたような顔を浮かべた。
「餓鬼はおうちに帰んな」
そう言われても帰る家などない。別段何か考えがあって、女衒の元を逃げ出したわけでもない。ただ、男に媚びるしかない女郎に身をやつしたくなかっただけ。十四の
「そこの角を曲がれ!」
後方から聞こえてきた荒っぽい男の声に、凍りつく。破落戸たちが追いついてきたようだ。恐怖が毒のように全身を回る。
「ちびちゃん、何かわけありか?」
花の強張った顔を見て、男娼は勘づいたらしい。花は、ハッとして男娼に取りついた。
「お、お願い。あたしをかくまって」
動転していたせいか、咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。言ってから、後悔が頭をもたげる。忌み嫌う女郎と同類の男娼なんかに頼りたくない。だが、他に頼るあてもない。
「それって、俺に何か見返りはあるんで?」
男娼はのんきに煙管をくゆらせている。花の苛立ちがその他のあらゆる些末ごとに競り勝ち、爆発した。
「何でもいいから、助けてよ!」
「俺は益体ないことのために動くほど、人が良くねェんだよ。それに人に物を頼むときは、態度ってもんがあんだろが。……なあ?」
「あんたの言うこと、何でも聞くから! お願い!」
よくよく物を考えることもなく、花はばっと頭を下げた。それでも男娼が動く様子はない。
足音が間近に迫ってくる。
もう駄目かもしれないと、花がぎゅっと目を瞑ったときだった。
家屋の壁面に身体を押しつけられ、その上に覆い被さられる。
「そこのお前。小娘を見かけなかったか? みすぼらしいなりをした、十四の娘だ」
厳しい調子の詰問に、男娼は視線だけで振り返る。
破落戸が、息を呑む気配がした。男娼の持つ、人に底冷えを抱かせるような凶暴なまでの色香にあてられたのだろう。
「知りませんねェ。こちとら、目の前の華に夢中だったもんで」
惜しげもなく肌を晒した胸が、花の目と鼻の先にある。呼吸の仕方を忘れた花の口は、溺れてもがく憐れな雛鳥のように、ぱくぱくと開閉を繰りかえした。
「そ、そっちに居るのは、誰だ。顔を見せろ」
破落戸は、男娼に畏怖さえ抱きながらもまだ粘るようだった。
花が身を固くして、震える息を吐きだす。
「このかわいい顔を他の男に晒せってんですかい。そいつァ、旦那、野暮ってもんですぜ」
男娼は着物の袖で破落戸の目を遮断しながら、花の鎖骨のくぼみに唇を這わせた。
「ッひゃあ!」
自分でも驚くほど、高い声が出た。男娼の袖の向こう側から、諦めたような深い溜め息が聞こえてくる。
「……邪魔をしたな」
そう言って、破落戸は踵を返した。
足音が消えるのを待ってから、花はなかなか退こうとしない男娼を思いきりひき剥がす。
「ななななな何すんの。ヘンタイ!」
裏返った声と、熟れた林檎のように真っ赤な顔。そんな有様では、キッと睨みつけたところで効果などないに違いない。
案の定、男娼は薄ら笑いを浮かべて傲然と花を見下ろした。
「ひゃあって、色気の欠片もねェな」
「べ、別に色気なんて必要ないもん。まさか言うこと聞くってやつ、女郎の真似ごとでもさせる気じゃないよね?」
「月のものも始まってねェような餓鬼に、んなこと期待するかよ。ちびちゃん、名前は?」
「――は、花」
今に取って喰われるんじゃないかとびくびくしながら、花がこたえる。それから自分も男娼の名を聞いていなかったことに思いあたって、彼をそっと見上げた。
「そっちの名前は?」
「……
変な名前だ。花は一瞬眉をひそめたが、おそらく源氏名だろうと思い直す。
意地の悪そうなたくらみ顔が、雲間からのぞいた淡い青色じみた月光の粒にふちどられた。果てない闇を体現した冷たい夜の眷属のようだった蛹が、束の間さながら王者の風格を得る。
「そうだなァ。ちびちゃんにはこれからひと月の間、俺の小間使いとして働いてもらおうか」
猛毒を内にひそませた婀娜っぽい微笑みで、蛹は宣告する。
こうして、花の男娼・蛹との数奇な一カ月が幕を開けた。
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