12th Day : 1222 "Secret Answer"

#156 Silver Morning(鈍色の朝)

 そもそもの大前提として。


 これまでの、悠久に似た大河の一部たる――刹那の人生を生きる中で刻まれた皺の絶対数が少ない脳味噌が薄く延びたぼんやりとした覚醒をして、アウェイやビジターの特有かつアンビバレンスな居心地の良い羽毛布団からモゾモゾと羽根をもがれた昆虫みたく不確かかつ混迷な足取りで何とか這い出した僕を待っていたのはあゝ無情な無人の部屋。


 簡易な寝間着代わりである薄手のロンTと穴あきジーンズに身を包むだけの僕はそびえ立つ寒さに軽く慄えて、低血圧で眠たい目を生態的な反射でごしごしとこする。


「あぁ…。あ、ああ…あ、彩夏アヤカ……?」


 昨晩初めて入った寝室を見渡せど見渡せど、時間経過における変化は無く自分以外に誰もいないだけ。


 おぼつかない足取りでリビングに向かっても、やはり無人で明かりの落とされた空間が広がっている。


 やがてそんなこんなで、一人暮らしを主とした間取りの住居…そんなに広くもない部屋の中で――昨日僕達が長く濃密な時間を過ごしたソファの前に設置されたローテーブルの上に――彼女の言葉が綴られた一枚の紙切れを見つけた。


 重石代わりであろう鍵(恐らくこの部屋のもの)を静かに横に払い除けてから、恋人がしたためたはずの可愛さ溢れる丸い文字にぼんやりと眠気眼を落とす。


 そこには平日故に仕事に行く旨と簡単な朝食を準備した旨が記されていた。

 また、僕の予想通りである鍵の使い道とその後の処理が記載されている。


 そして、何より短い手紙を結ぶ――極めてありふれた常套句みたいな一文が案外僕の胸を打ち貫いて、堪らなく熱く沸騰させるんだ。


「んだよ…僕も愛してる。心の底から、マジで」


 それに対する返礼とも呼ぶべき陳腐な独り言は彼女の住処に反響する事なく、すぐに掻き消えて霧散していく。


 行き過ぎたファンレター以外で初めて、異性に頂いた手紙を綺麗に折り畳んでジーンズのポケットに収めた僕は人様のキッチンで人様の用意した食事を温め、有り難く頂戴した。


 その後の日常生活における家事的な処理なんかを――実家在住のダメ人間らしく慣れぬ手付きのたどたどしい手際で行った僕は――家主不在の住居を後にする。


 そんな世間体がマイナスに振り切ったクズとは違って、社会人らしく真っ当に出勤した恋人へポチポチとお礼と諸々の感情を込めた甘々なメッセージをピュアな電波に乗せて送った。なんかもう不適切なヒモの気分。


 実家へ朝帰りの凱旋ムーブを初披露する為にとぼとぼ歩みを進めながら苦笑い。

 そんな気持ち悪い男のスマホが不意に鳴動。もう返事が来たのだろうか…って電話か?


 若干のいぶかしみや疑念と共にポケットから取り出したデジタルなかまぼこ板に表示されているのは愛しい女性の名前では無く、親しい隣人の名前である。

 多少なりとも、がっかりはしたが、別段出ない理由も見当たらないので普通に応答。ハロー?


「お、出た出た…。おはよう、アラタ」

「ん、おはよう。どうした? 悠一ユーイチ、こんな時間にさ」


 と言うか、こんな時間と呼べる様な早朝はとうに過ぎてしまったが、形式的な朝の挨拶を幼馴染の男前と怠けた声で交わす。


 基本的に昼夜逆転で夜型の習性を持つ僕達バンドマンではあるけれど、それでも常に夜行性という訳でも無い。健康的に朝から活動し、その果てに連絡がある事もたまにはあるさ。


 しかしまあ、そんな生態を差し引いても快活な男は爽やかな声で疑問を呈する。


『今お前ん家に行って来たんだけど、昨日から帰ってねぇって聞いたからよ…ってことはつまり?』


 相も変わらず察しの良すぎる人間が我が親友であるため、僕は彼に対して隠し事など出来やしない。


 加えて、いずれ近い内に恋人から魔性たる義妹カノジョへ、やがてその年下美人から連絡が行くことだろうし、虚偽の画策は裏目に出る可能性が限り無く高い。何で彩夏は妹に全部話しちゃうかな〜?


 論理的な思考と個人的な悲哀を込めて乱雑かつぶっきらぼうに「まあな」と曖昧な肯定を先出ししてから、千切て纏まりの無い雲の様に間隔の空いた言葉を繋ぐ。


「多分、悠一の想像通りだよ…。その、昨日彩夏の家に泊まって…今徒歩で帰宅してるとこ」

『ほほうっ…! ほうほう、なるほどね』

「それで! 何か用か? 無いんなら無いでいいけど、こっちには、お前にちょっと用事があるんだけど…」


 気狂いのフクロウみたくホウホウと繰り返す色男の感嘆符を断ち切り、自分の要件を矢継ぎ早に打ち付ける。

 他人のペースはただでさえ苦手なのに、脛に似た急所であれば尚苦手であるから。


『おうおう、何々? こっちも用あった訳だし、どっかで落ち合おうぜ』

「異論は無いよ。何処にする?」

『俺は何処でもいいけど、そっちは? 何か目的があんなら付き合うけど…』


 こういうやり取りの如才無さが心底羨ましいね。僕が悠一かれの立場なら自分の都合を押し付ける事だろう。こりゃモテない訳だ。


 自分のモテない理由を一歩引いた目で客観視出来る程度には大人びた自分について、人間力みたいなステータスが高まっていくのをひしひしと実感するね。


「なら、どっか買い物が出来る所が良いかな。ちょっと見て回りたいし」

『街とモールどっちがいい?』

「近いのは街だし、街中がいいわ」

『了解』


 それから細かい場所を打ち合わせをして会話終了。

 スマートフォンの画面が消える前に実家に連絡を付けて、近況報告してから再びの通話を完了した。


 目的地の変更に伴い、足の向きと進行方向をそれに合わせる。

 さてさて、あのモテ男ならば"元"童貞の初歩的な疑問にも的確な助言をくれることだろう。


 考えて見れば、先程のやり取りと言い――もっと思い返せばこれまでの人生の中で僕は幾度となく幼馴染に甘えて、何度となく頼ってばかりである。もう彼無しでは生きていけないのかも知れない。


 冗談は脇に投げてしまい、暫し思考の方向性を田中悠一との関係性へと向ける。

 職場の悩みの八割は人間関係にあるとは良く聞く話だが、それは何も社会人に限った話では無いのかも知れない。その証拠に、最近の僕の頭の中はずっと他者の事で一杯なのだから。


 その一環として暫し考えを巡らすことにしよう。


 僕は彼から多くの助力を受けたが、僕が彼の力になれたことが果たしてあったのだろうかと。

 有能な人物の好意の糸を当然のものとして甘受して、思考と選択を任せて緩やかに堕落していったのではないかと。


 そして、間の悪い事に僕は昨晩恋人に偉そうに語った。


「与えられてばかりの人間などいない」


 ひょっとすれば、その唯一の例外が僕なのかも知れないと悪寒が背中を通り抜けるが、それは正しく北風のように通り抜けるだけである。だって、その感覚は流石に極論だ。


 尤も僕が彼から貰ってばかりなのは事実であるので、今度何か差し入れする事にしよう。何処かで美味い地酒でも探してお礼を返そう。


 それくらいは一人でもやれるだろうさ。

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