#155 Tomorrow Never Knows(未来は誰にもわからない)

 固く握り締めた掌から伝わる等身大のあたたかさ。リアルな人間の発するぬるめの体温。

 それはこのクソみたいな現実が闊歩する世界において数少ない――紛れもなく実感出来る、自分以外の誰かが間違いなく――この瞬間に、どうにか懸命に生きていることの紛れもない証拠アカシ


 そんな大局的かつ局地的の両面を揶揄するみたいな観測はともかく――僕達は一人暮らしに相応しい小さなソファに腰掛ける二人の体勢は幾度かの試行錯誤の上――至極基本的な形に落ち着いた。

 畢竟し要約し――まあ噛み砕いて口語的に表現すれば、二人がけの椅子にオーソドックスな感じで行儀良く説明書通りにきちんと座っているだけ。


 そんな常識的な礼儀作法に則った上で僕の肩に頭を預ける彼女と。その頭に寄り添う様に頬を当てる僕。


 きっとどれだけ言葉を尽くしても、僕の肌を通過した熱や詰まり気味の鼻孔を通り抜ける芳しさが与えてくれる幸福感を君はで理解する事は無いだろう。それは僕だけが得られる個人的な小さき間欠泉みたいなものだ。


 明確な解決は愚か、目に見える解消すらも定かでは無い…曖昧な小康状態で宙ぶらりんの曖昧な甘さにどっぷりと身を浸して堪能していた僕の隣から遠慮がちに声が聞こえる。


「その…蒸し返すみたいで、己の恥を掘り返すみたいで何なんだけど……」


 曖昧過ぎる言葉に何?と聞き返す僕。

 ついでに言えば、恥とか後悔の類はもう僕にとっては持病みたいに身近なものであって、掘削はそれに処方する常備薬なんかと等しい存在だよと軽く茶化して続きを待つ。


「さっきの。さっきの…会話なんだけどね? その、どういう意味なのかなって、ちょっと気になって」

「ああ、まあ、そういう…」


 さっきの会話という代名詞的なワードが指し示すのは実質として確実にアレだよな。まあ一択だよな。絶対に常備薬のくだりでは無いよな…。やべえ、どうしよう?


 鼻の頭をポリポリ、短い髪の毛をぐじゃぐじゃしながら筋肉の鎧で包んだ身を置く事態の奇跡的な好転を二、三秒待ってみたがどうやら望み薄に感じられる。

 いつだって希望や幸福は歩いて来てくれやしないから、こっちの方から歩み寄って捕まえに行かなきゃならない難儀なものだ。


彩夏アヤカが言いたいのは、多分って…くだりだよね? そりゃあ」

「あ、うん…」


 ポツリとした対話が途切れ互いに顔を背けて、視線を逸らしてしまう。自然な反射。不自然な所作。


 けれど、僕は理知的な人間なので動物的で原始的な反応を超えてみせる。


「あの…あ、アレは確かに本音なんだけど、かなり勢いっぽいものも結構あるというか…今後の意気込み? 的なこれからの心構えとか将来的な目標みたいな感じの様な…」


 自信や根拠の薄さが尻すぼみ気味な言葉で如実に現出している。

 そして、それが伝染したハズなど皆目あり得ないが、彼女の発する言葉も何処か他人行儀で余所余所しい感じである。


「その、ね? 私もまるっきり鵜呑うのみにしてるわ…って、え? あれは――勢いなの?」

「んんっ?」

「私は本当に心から揺り動かされたのに、その場凌ぎのなんだ…」

「あれれっ?」


 なにやら不満気に口を尖らせる彼女と予想外に慌てる僕。

 あれ? 想定した方向から逸れていって無いか? なんかもう少し、苦難を乗り越えた若い二人の男女的には吊り橋メソッドで甘々な雰囲気になる所じゃないのか?


 先程そっぽを向いていた視線が交差する。

 相互の意思ではなく、一方的な通告みたいな無慈悲さを帯びた一閃だけどさ。


「なんて嘘。冗談よ」


 そう言って悪戯好きな妖精のように頬を緩めた。

 そういった艶っぽい表情や口振りは彼女の妹が得意とする手段で、かつての新山彩夏が有していながら発揮していない魅力の一つであった。


 その事実に多少なりとも感慨深い気持ちになるのは間違いなくて――ネガティブ基調の病んだパラダイムに復調を感じさせる変化があったのは分かるが――それが怒りのパラメータになっているのでは意味があんまりないからね。僕的には一安心と推定、意趣返しの意味を込めた溜息を投げる。


「ジョークは嫌いじゃないけど、流石に間が悪いよ…ただでさえ小さな心臓が、いつか見えなくなりそうだ」


 あまりセンスのある返しでは無かったが、それでも彩夏はクスリと笑みを零す。


「大勢の人前でアレだけ高らかに歌い上げるシンガーの台詞とは思えないね。ちょっと卑屈じゃない?」

「いやいやマジもマジ。そのシンガーはライヴの開演前は毎回青い顔で吐き気と戦いながら挙動不審で震えてる」

「それはなかなかどうして知りたくなかった舞台裏ね」


 浮ついた会話をそこまで続けて笑う。

 顔を見合わせて、徒労と溜息を混ぜて僕達は笑いあった。

 まるで青春映画で使い古されたワンシーンみたいなやり取りが可笑しくて尚笑いが込み上げる。


 やがて奇妙な笑い声の連なりも沈静化し、少しの静寂。その後に微弱な変化。起こしたのは僕。


「さて…じゃあ僕は、そろそろ帰ることにするよ。君も…色々あったし、今日は休んだ方がいいだろう」


 僕は立ち上がって肩周りと腰回りをバキバキと乱雑にほぐす。姿勢的にも精神的にも凝って傷んだ身体に気休めのインスタントなケアを施した。長期的に見たら失策なのかな?


「そ、そうなの…?」

「随分長居になった気がするし…ってああ、後片付け位はきちんと手伝うよ? 美味しいご飯をご馳走になったし、その点は心配しないで」

「いや、そういう事じゃなくてね?」


 僕の発言がそこまで意外なものだったのかな?

 なにやら狼狽うろたえてな感じでモジモジと内股を擦る姿は何とも…どうにも如何ともし形容し難く色っぽいね。


 そんな下衆の勘繰りめいて下卑た情念はまあ冗談半分だけども、そろそろ帰宅すべきかなと言う常識に基づいた思いは普通にある。


 事前に用意した伝えたい話は概ね出来たし、その結果もまあ何とか小康状態に落ち着いた。


 この時間帯にせっかく恋人の家にいるというのにも関わらず、及んだ行為が接吻だけと言うのが…まあ不満と言えば不満であるけれど――過去に一応のケリが着いて、トラウマが一段落した所で――そこから発した男性に対する恐怖症状フォビアは簡単には無くならないだろう…って、結局下衆な感じに戻ったな。真、思考とは不思議である。


 無理強いは好みじゃ無いし、その対象が恋人ならば尚更気が進まない。

 ならば彼女の身の上を優先するのが男としての筋だろうと、断腸の思いで泣く泣くジェントルマンの皮を懐から取り出したのだけど。


 そんな気遣いとも呼べない心配りめいた配慮っぽい何かは麗しの君によって吹き飛んだ。


「あの、その…ね。ちょっと私も恥ずかしいんだけどね」


 今夜はもう少し、一緒にいたいの。


「待って…い、いや! 変な意味とかじゃ全然無いんだけど! いやって言うのも拒否じゃなくてそのっ…」


 渾身の上目遣いからの一転、涙目で激しい身振り手振り。呼応して跳ね回る髪の毛は水面に踊る妖精のよう。

 何だよこの魅力的で可愛い女性ひと――あ、良く考えれば僕の彼女だわ。なんだよこれ…良く考えなくとも幸せ過ぎて死にそう。


 内心の緩みが表情にも出ていたのか、彩夏は再度「ちょっと待って」と僕を窘め戒める。待つのはいいけど、心に湧いた温かさは奪えないよ。


 変な余裕を携えた僕は無闇矢鱈に気障ったらしい仕草で右手を出し、どうぞと続きを促した。


「あ、あのね…何なら泊まって行っても……」

「と、泊まりっ?」


 携えた余裕が一瞬で塵芥と化した瞬間である。

 と、とまり? とどのつまり? つまりっ?


 なにやら先程以上にモジモジと落ち着かない仕草で身を揺らす恋人―――その態度は、つまり! そういうことなのですか?


 誰か答えを教えてくれよ。童貞にこういう時の正しい立ち振舞いを授けてくれ! 


「と、と、と、泊まりとは? って、僕なんの準備も無いけどとと泊まり?」


 衣服の替えはもちろん、そういう有事の為に必要なゴム的なアレは持ってないよ? 一時的に貰い受け、所持していたこともあったが、失意のままに道端へ放り投げてしまったので手元に在庫が無い。


 物質的にも心情的にも色々準備不足な僕を襲う二撃目の鎌鼬。


「準備なら、その…その。ああっと、男物の服とかは無いけれど。あ、、今日、あっ…その、コンビニで買ったから……あう」


 なお一層に羞恥のボルテージが膨らんだ彼女は目を慌ただしく泳がせながら―――それどころか若干そっぽを向きながらそう言った。手にはスマホくらいの大きさの四角い小箱を携えて。


 彼女が「それ」を買った…のか?

 男性恐怖症の彼女が恋人たる男性である僕と使う為に、それを?

 僕と為にレジにそれを持って行った?


 想像したその刹那、自分の中でパチンと何かが鳴るのが分かった。それは多分スイッチとかボタンとかブレーカーとか呼ばれる制御を司る存在の切り替え音。

 

 同時に思い出される仲間のアドバイス。


【でも、なんかムラムラしたら雰囲気とか関係無く襲っちゃうけどな】


 彼達が言っていた衝動とはこういうことかと頭より先に心が理解し、把握する。論理よりも本能がそれを察して、互いの内から伸びる糸が複雑に繋がる。先程は理性を以て動物的な本能を御した男の哀れな先祖返り。


 指を強く絡めて唇を重ねる。互いの身体を弄り合って、何度も切なく名前を呼ぶ。

 僕は薄く壊れそうな肩を抱いて、絹の様に柔らかな髪に触れて。

 ずっと欲しかった大切な何かを求めて、目に見えない本当を探して。


 原始の動物みたいに醜く、拙く、幼いままに先祖返りした僕達は論理無く距離を埋めて、二人の間で共有する愛情を貪る様に触れ合って行く。


 ここから先の話はまあ…語るまでもないだろう?

 それは蛇足で野暮な普遍的かつよくある事で特筆すべき事件じゃない。と同時に、何よりも私的で吹聴すべきでは無い個人的な秘めごとなんだ。


 そんな風に過ごした一夜はマジで語るまでもなく、世間にありふれていて、僕にとってはのお話だよ。

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