#114.5 Just my pain(ただ痛いだけ)

 数十分前までの僕は、空調の効いた温かい部屋の中で――その口の中は愛しい女性の手料理と甘美なる酒で満たされ、その身は甘酸っぱい幸福に包まれていたのだが――現在は寒空の下を敗残兵の様に重い足取りで歩く。


 その口内はどう仕様もない苦虫で溢れ、その情けない身は氷点下に包まれている上、加えて心の中は後悔で一杯である。帰宅に際してこんなに嬉しくないお土産はそうは無いだろうと思う。


 脳と心臓が血液以外で繋がる感触。痛みのバイパス。さながら後悔と懺悔の直通通路。


 この世界にはこれ以上の痛みが存在するのだろうか? 或いはこれ以下の状況が有り得るのだろうか?


 もしそうであるあらばこの碌でも無い世界に未練は無い。終わってる。

 僕はこんなどうしようもない世界っ、要らない…!


 と思春期の頃の僕だったら考えたことだろう。その位感受性が豊かで繊細な感性をしていた、気がする。それは美化された過去かな?


 しかし、この世におぎゃあと生まれて二十数年を経た僕はそこまでプリミティブで無邪気な人間では無い。


 かつて有していた原始的な純粋さや濁り無き無垢は日々の暮らしの中で擦り切れ、何処かへ行ってしまったのだ。


 普通の人間がそうであるように、平凡な人間がそうであるように。酸いと甘いを繰り返し浴びる中で何処か昔の自分に置いてきてしまったのだ。


 険しい現代社会をそれなりに必死こいて駆け抜けて、それでも生きてきた僕は歳相応か、それより少し幼いながらも確実に大人になっているはずだ。悲観的観測によればギターを始めた頃とは断絶されている。


 だからこの胸の痛みも一過性のもので、決定的な疵では無いさと知っている。

 誰もが経験して呑み込んでいく普遍的な事柄だと理解している。


 だから僕は前を向く。

 独り善がりの強がりを零しながらも顔を上げて遠い夜空に目を向ける。


「にしてもやっぱりちょっと傷付くよなあ…」


 思い返しても雰囲気とか結構良い感じだったと思うんだけど、先走りすぎたか?

 諸々の焦り故にタイミングを誤って暴発してしまったのだろうか?


 胸ポケットで存在を希薄にしていた避妊具を街路樹に投げ捨てて一つの考えに至る。


 取り敢えず明日になったら相談してみようかな?

 この余暇で手に入れたのは恋人だけじゃないから。


 恥ずかしげもなく頼りになるに訊いてみよう。


 恋人に押された箇所が熱を持ち、奥の痛みに寄り添い溶けていく。僕の中に確かなものなど何一つ無い。

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