#92 From The Inside(内面から)
「はあっ? いや、いやいやちょっと待ってくださいアラタさん…いや待って。一体何がどうやって…何故に、どうしてそんな結論に落ち着くんですか? ちゃんと私の話を聞いてました?」
小さな右手で眉間を強く抑えた美人大学生は残った手を付き出してから、上擦る声で囀る様に言葉を絞り出した。
対する僕の声は自分でも驚くほどに空虚で、いつも以上に掠れて限り無く平坦だ。
「勿論、聞いた上で判断したことだ。僕は健闘むなしく失恋したから…新天地の東京で新しい恋を探す事にするよ」
「だからっ!
徐々にヒートアップし狂って行く
静と動。極めてよくあるテンプレートながらも退廃的かつ倒錯的で実に美しいコントラストだ。
ふと周りを見渡せば店内には僕達以外には誰もおらず密談には持ってこいの環境になっていた。一体いつから僕達がこの場に二人きりだったのかは知らない…。
「僕なりに、フェアでフラットな状態で考えた結果がこれだよ…彼女は
誰もいないのに
僕は彼女を知った。
昔から僕を知っていたことを知った。
僕達のファンであることを知った。
彼女が男性恐怖症であることを知った。
その起こりを知った。現状の症状を知った。
でだ。
それで?
それを知った上で僕に何が出来る?
「男性恐怖症で
そんなの、僕には出来ない。
「それはもう…本当に、あと一歩なんですよ? 男性恐怖症の喪女が並んで車に乗るんですよ? あどけなさとともに普通に言葉を交わして、一緒に食事するんですよ! なんで…? どうしてっ! もう少し、ほんとに…あとちょっと、もう少しじゃないですか……!!」
縋るようなその嗚咽は今迄に無い必死の印象を受けた。
それは
それでも僕は彼女の救いを振り払う。思考と連動する様に実際に右手が少し動いたのが何だかとても滑稽だった。
「なら尚更だ。言ったろ? ファンとそういう関係にはなれないし、なりたくないんだよ」
「それは…でもっ! 出会った頃はそうと知らなかったじゃないですか! 貴方が恋したのは、五日前に出会った一人の根暗女だったはずで…」
必死に声を上げる表情はもう殆ど泣き出してしまいそうに崩れていて、僕は彼女の元カレが見せたくしゃみの写真を見当違いにも思い出した。
「でも知ってしまった。彼女がリスナーだと聞いてしまった今、僕は彼女に否応無しにファンの姿を重ねる」
「いや! でも…でもっ…!」
最早議論ですら無い言葉の応酬が終焉が見えた。
彼女の口から漏れるのは幼稚な否定の言葉ばかりで明確な形を成してはいない。彼女に僕を打ち破る論理は存在しない。
「君と話すのもこれが最後だろうから聞くけど、どうしてそこまで? 姉とは言え、何故他人の為にそこまで必死になるの?」
今迄よりは平時に近い優しい声音で尋ねたのはずっと温めていた疑問。
新山彩乃は端々に姉を
数日前まではそれを凄く大事なことの様に思っていたが、今となっては何でもない態度で訊くことが出来る。大した成長だ。
「そんなの決まってます! そんなの絶対におかしいからですよ!」
返事は絶叫に似たもので、誰もいないホールに少し反響。すぐに霧散。
目の前の少女は端整な顔を両手で覆い、悶える様に叫んで続きを紡ぐ。
「なんで姉がこんな目に合わなければならないんですか?姉は何もしていないのに、勝手に身体が膨らんで、周りの
美しい小顔はすっぽりと掌に隠されていて、その表情を直接には窺い知ることは出来ない。類推する気も無い。
けれど、指の隙間から零れた雨が彼女の心情を何よりも雄弁に物語っている。
「お姉ちゃんは私みたい可愛いのに、私よりも良いカラダをしてる女がどうしてあんな風になるんですかっ!!」
どうしてこうなっちゃうんですか!
「塞ぎ込んで伏し目ばっかりで。友達もいないし、彼氏も出来たことない。男と喋れないから能力に合った仕事も出来ない。唯一の救いはかつて同級生であった男の歌を聞くことっ……」
顔の前で強固な壁として機能していた両腕がだらんと力無く落ちた。
そして露わになる現在のモテカワガールの顔は涙で限りなく悲惨であり、いつも以上に妖艶で悩ましい不完全な美しさを放っている。
「あんまりじゃないですかそんな不条理…めちゃめちゃ腹が立つし、あんまりにも可哀想だし、すっごい不平等で、意味わからないし…どうして…、なんでっ?」
「…分かった。もう良いよ」
姉の様に俯き譫言めいた発言を繰り返す彼女に制止の言葉を吐く。
顔を上げた美しい彼女に向けて僕は総括の言葉を送る。
「君の気持ちは分かった。僕は君を誤解していた。君は気高く優しい。そんな
でも、
「僕には無理だ。もう彼女を愛せない。愛す資格も無い」
限りなくホンネを伝わるように述べたつもりだったが、どうやら彼女には届かなかったらしい。
キッとキツく口を結んだ彼女はテーブルに足を載せて僕の領域を侵犯した。細腕で僕の胸倉を掴んで再度絶叫した。
「うるせぇッ! なんでっ…どうしてアンタ達はそうなんだ…どいつもこいつも面倒くさい理屈ばっかり並べやがって、もうウンザリだ!」
整えられた前髪は崩れ、一筋が目にかかる。
それを払うこと無く彼女は獣の様に思いの丈をぶちまけ続ける。
「好きなら好きでいいだろ! それ以外に一体何がいるんだよっ!」
良いかよく聞けよ。彼女はそう言った。
そこにあるのは快楽の為に媚びる女子では無く、一人の独立した尊き人間の純粋な姿。
そしてその皮を剥いだ先にある…よりピュアな原初の姿。
「アンタは姉が好きで姉もアンタを好いてる。くっつけよそれで十分だろ。クソ…他に何が必要だってんだ」
先程までの勢いは急速に失われ、再びの躁鬱。
またしても止め処なく流れる涙を乱雑に擦った。
「一日後のことなんか考えんな。好きなら好きって言えよ。抱き着いてキスをして、相手にそれをつたえろよ」
乗り出した身は既に座席から離れていて。
最早テーブルの上に両膝をついたその姿は懺悔の瞬間に似た痛ましいもので。
彼女は僕だけに向けるたのでは無い声を絞り出す。
「それが人間だろ…小難しいこと考えるなよっ、い…」
両腕と茶色に染髪した小さな頭を僕の胸に預けて啜り泣く。たおやかな痛ましさに包まれたその腕に、もう引っ張られるような力は感じない。
「明日のことなんか明日考えればいいだろ…生きているのは今日なんだから…今日をせいっぱい幸せに生きろよ。生命なんかっ、いつおわったっておかしくないんだ。わかってんの!?」
それは天啓の様に僕に降り注ぐ。
兆しの様な一筋の光が確かにその瞬間、僕の目に映った。
「ちくしょう、何も侵していない…ルールを守ってきたおねえちゃんが、どうして何も出来ないんだよおぅ……」
彼女は絶対に意図していないその言葉。僕にとって正に運命の言葉。
それは中学二年生のクソガキを現在の姿であるミュージシャンへと導いた宣託の言葉。
最も尊敬する人物が僕に与えたそれを言われては、僕は従う他は無いと君は絶対に知らなかったはずだ。
「そうだね…そんな世界は絶対に間違っている」
テーブルの上に膝を折り、正座の様な状態になっている女子大学生の涙を手で掬いながら僕は掌を返した言葉をしゃあしゃあと述べた。
「だね、色々間違ってた。らしくも無く、馬鹿のくせにグタグタ考え過ぎた。君の言う通りだ。好きなら好きでいいんだよな。それだけで十分なんだよな」
「アるタさん?」
人を新宿のスタジオみたいな名前で呼ぶのはヤメてくれ。
突然の豹変に首を傾げる彩乃さんに再度一方的に決意を告げる。
「決めた。もう一度、新山彩夏に告白するよ」
それこそが敬愛する彼の教えだとは言わないが、神からの啓示を恣意的に受け取るのも原初の生物らしくて良いだろう。
この身勝手こそが
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