#61 Here I'm singing(ここで歌っている)

 持ち得る全てを投げ出して――かつ、その上で取り巻く環境セカイの全てから逃げ出すことなんて到底出来ない臆病者の僕に採択出来る進路なんてものは――基本的に悪路であって、それは最善の道とはとても思えない愚策に似た逃避である。


 そんなややこしい、客観的なアレコレを無視して事実のみを申し上げるのならば…仕事における作曲に行き詰まった男が例の如く、近くの河岸に当て所無く逃げ出したってことだけだ。


 詮無き現実逃避野郎が選んだ逃避先は最早、第二の実家と呼んでも差し支えの無いレベルで馴染み深いにも程がある一級河川。


 人類の文明とか歴史に寄り添った千年前から脈々と流れ続ける悠久で喩えようの無い人生の営みを想起させる水流が心地良い。


 人工的な砂地でペタンクに興じる老若男女の側で暫し穏やかで心地良い水流を見つめた。

 昨夜の雪が残っていれば多少なりとも雅で風流な装いであるのに、残念ながらそれほど量は降らなかったらしい…いつも通りの人工的で不自然さの強い、人の持つ浅い都合を優先させた緑地が広がっている。


 とは言え、こうして見慣れた風景に身を浸していると様々な事を思い出す。

 それは昨晩新山さんに己の来歴を語ったせいもあるのかも知れない。ちょっとばかりセンチメンタルな気分なんだ。


 傷付いた日、ショックを受けた日、手痛いミスをしてしまった日、怒られた日、憎んだ日、誰かを傷付けた日、何でもない日もこうして僕は上から下に移動する水の束を見つめてきた。


 それは別になんてことは無いことだけど、生活の一部であると言える行為。

 上京すればそれを喪失してしまうと考えれば酷く心が落ち込む。東京にも河ってあるのかな? コンクリのパイプの中を水が流れてるだけの流し素麺なんて僕は認めないぜ? 河にはうるさい男なんだ。


 さて、若干当初の思考から逸れてきたのでそろそろ打ち切って締切だ。感情を吐き出しながら真面目にギターを弾こう。


 そう決心して無理やりに気持ちを作業に持って行ったが、どうにも乗り切ら無いし、乗り切れ無い。乗れない気分が心身を伝播して、隈無く行き渡るだけだ。


 具体的かつ付随的な近況としては、ミュージックとは到底呼べない単発的なメロディが散文的に広がるだけで一つの曲として形を成さない。


「やっぱり、同時進行マルチタスクは無理なのかな…」


 既存の二曲をもっと煮詰める方が効率的な気がしてきたが、どうにも手を付ける気になれない。気が乗らない。


 結果として五、六個のまばらなフレーズが生まれた訳だが…。


 転換すべき気分が既に僕から離れている幽体離脱風な感覚が広がりつつあるので、一旦取り敢えず音楽という行為に向き合うことにしよう。


 脚を組み直してギターを抱え直す。短い和音を瞬間的に奏でて、ピックで木製ボディを叩いてリズムカウント。ワンツースリー…。


 久し振りにも関わらず、それでも左手はフレット上を滑らかに動いた。

 昔散々弾いた曲だけど、最近はご無沙汰でさっぱり弾いて無かった。

 けれども、シンプルな展開を身体は案外覚えてるもんだ。サビから始まるタイプの楽曲なのですぐに口を開いて声を載せる。おいやめろ、こっち見んな。ペタンクに集中してろよ。


 鉄球を投げる集団の無遠慮な視線や通りがかる人の目はやがて気にならなくなるが、そこの少年…前に立つのは辞めてくれ、普通に気が散るだろうが。

 僕の歌を足を止めて聞いてくれるのは大変有り難いが、別にパフォーマンスしてる訳じゃないので、街の喧騒か雑音程度に聞き流して立ち去って欲しい。あ…立ち去った。なんだよクソが。


 周囲の反応に適度に気を取られながら演奏を続けて、やがて終焉。やっぱ神曲はやってて気持ちいいな。色褪せないわ。


 冬とは言え、それなりに熱を込めれば身体も熱を持つ。排熱代わりに額を流れる汗を手で拭う僕の目の前に差し出された一つの手がある。

 ドメス系ブランドのリングが嵌められた右手の指先には我が国が発行する硬貨が挟まっていた。それも上から二番目の額面――百円玉だ。


 色々と納得が行かなくて訝しみ下手人の顔を見たら、自然に笑みが浮かんだ。

 新品とは程遠い、使い古された鈍色の百円玉を受け取りながら、見知った男に皮肉交じりで声を掛ける。


「自意識過剰みたいで好みじゃないし、あんまり自分で言うのは好きじゃないけどさ…例え、カヴァーだとしても、流石にもう少し僕のこえには価値があると思うぜ? なあ…ジュン?」


 僕のカラオケに対して少額のお捻りを投げたのは、紺色のピーコートに身を包んだ痩身の男。顔見知りでは括れない同じバンドに属するギタリスト。


 鳴海ナルミ潤が音の鳴らない拍手を無表情に焚べていた。

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