#8 Come One, Come All(どんと来い)
季節に合わせたアウターとして蒸着していた革ジャンをキャストオフ。
壁に備え付けられたハンガーに掛けて、インナーをステージ用の衣装に着替える。
普段着の代わりに僕が装着したのは相変わらず普段着めいた黒いTシャツ――今回のイベント、その物販にて三千円で買えるバンドT。
古くからの知人にデザインしてもらった最高にイケてる絵柄。
バンドロゴに重なる様に斜めに入ったラインがシャープでクールだ。是非ともお買上げをと露骨な宣伝をしてみる。
簡素なお色直しを終えた僕は本日のセットリストに目を通しながら部屋の隅っこで発声練習。両手をお腹に当てて腹式呼吸を開始する。
地声から徐々に音程を上げ、自身の最高音であるhiC#に到達。その後ファルセットを交え維持。続行。
慣らしの発声を終え、更に高い音。そして中間のミックスボイス。暖気完了。うん。喉の調子は悪くない。
続いては運指の準備体操に移る。昔漫画で読んだものをずっと続けている。
両腕を真っ直ぐに伸ばして身体の前に置き、開いた掌を地面と垂直に配置する。
続いて左小指から順に指を畳んで行って、右小指まで到達したら今度は順に開いていく。その繰り返しを五セット程行えば中々いい感じに指が動くようになる。
それでも足りなければ親指とその他の指達の先を合わせていくストレッチなんかもあるが今日はそれは必要無さそうなので省略。
安物のアコースティックギターを使い、実技的なアップに移る。
この段階で大事なのはやりすぎないこと。
肉体的な疲労も勿論そうだし、精神的に根を詰め集中を持ってやり過ぎるのは逆効果である。
アコギを流れる『感じ』に指を慣らしすぎるとエレキが弾けなくなる。
故に昂る気持ちを沈静化させる為位の目的でやることにしている。
とは言え、『それ』を自覚していても。
予め、きちんと分かってはいるんだが――適当でもジャカジャカやってれば次第に気持ちが入り、熱を込めてしまう。
段々周りの景色が薄くなり、自身の中身に没頭する。聞こえるのは体内に溶け込む自分の音だけ。白く曖昧な感覚が徐々に広がり、やがてゆっくりと狭い視界を覆い尽くして―――
「アラタ! おい! 起きろって!」
「えっ?」
僕の手を物理的に止めた悠一の声に反射する僕の意識。白濁していた世界に瞬く間に色が戻り現実が回帰。いや、戻ってきたのは風景では無く僕の方か。
あれ? 今何時ですか?
「もう客も入ってっし、スタート一〇分前だぜ? 頼むよアラタ」
そう皮肉る真司は自身の肩を抱く様にストレッチ。僕とは違い準備万端、即応殲滅っぽい感じの佇まい。
「凄い熱が入ってたね」
鏡で身だしなみを整えつつ、スクエア型のメガネを光らせた潤は相変わらずクールである。
「そろそろ
小さな溜息を一つ挟んだ悠一は僕の腕から手を放し、そのままの動作で親指をくいっと進行方向に向けて動かした。
「あ…いや、暫しお待ちを!」
練習用のアコギを壁に立てかけ、ペットボトルに入った水を一呑。血管を通して全身に染みる水面。
鏡で最低限の身だしなみを確認する。髪型のハネ良し、ストール良し…ファッション良し。オッケー。
履き慣れたダナーの靴紐も確認。数回地面をキック。キュッとリノリウムが小さく鳴いた。
「良し、行こうか」
「一番手間取った癖に格好付けてんじゃねぇよ!」
既に準備万端である真司からの正論。返す言葉など持たないで平謝り。申し訳ない。
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