第四十五話 囚われた桃の華

 叫んだ後、ルベンダは頬に流れるものが止まらなかった。


 時折しゃっくりを上げながら、ルベンダは支えている相手の体に思いきり抱き着く。胸元が血で染まり、地面に向かって倒れていくティルズの顔は、恐ろしいくらいに綺麗に見えた。


 鼻を何度もすすり、頭は少し冷静になる。

 そして息を吐く。


 今まで過ごしてきた日々、そして感じたこと、最近のこと、色んなことが、頭の中で蘇る。もはや今では一緒にいるのが当たり前になっていて、自分は大事なことを忘れていたのだ。ティルズは、自分にとって本当に大切な存在になっていることを。


 消え入りそうな声で、ティルズの耳元で呟いた。


「死ぬな……!」


 すると、名前を呼ばれるような声が聞こえた。


「……え?」


 体を離して相手を見れば、視線が合った。


 どことなく口元が緩んでいる。呆れたような、おかしそうな、そんな表情。いつもなら腹を立てるのに、その時ばかりは腹も立たなかった。ただ目を開き、そしてその顔を見せてくれただけで、ルベンダは胸がいっぱいになる。


 だがいつの間にか、先ほどの男どもの一人に刃物を向けられている。

 ルベンダはすぐに険しい顔をして、ティルズを抱きしめる手をはずさない。無事であっても、怪我をしている身のはずだ。近寄らせるつもりはなかった。するとティルズに、小声である指示をされる。それを聞いて少しためらったが、すぐに行動を起こすことにした。


 ルベンダはすぐにその場から離れる。

 すると男どもが気付いたように、感心するような声を出した。


「お前……」

「女か!」


 どこか嬉しそうなのが、すごく嫌な気分にさせる。


 だがルベンダはきっと相手を睨みながら、その場を一歩ずつ後ろへ下がっていく。髪に触れ、色を元の赤色に戻したのだ。フローのこの薬は、制限時間などない。個人の自由、個人の意志によって変幻自在。そんな風にできるなんて、やっぱりフローはすごい科学者だ。元の長い赤い髪に戻したせいで、男たちがこちらを見る目が変わった。だがルベンダは後悔などしていない。むしろこの髪に戻したいと思っていたところだ。


「こんな上玉見たことねぇぜ」


 薄ら笑う者に見られ、少し悪寒が走る。

 だがそう発した男の背中に、誰かの蹴りが入る。


「今です!」


 言われた途端、ルベンダはそこから男たちの方へ走り出した。


 急にこちらに来られて、男どもは挙動不審になりそうだったが、中には好機と考えていた者もいた。そのままルベンダを捕まえ、どうにかしようと考えていたのかもしれない。だがそのような変な考えを持つ者は、いつの間にか移動していたティルズの蹴りによってその場にひざまずくような格好にされていく。なのでルベンダは、さして気にせず動くことができた。ティルズはルベンダの動きを定めて剣を抜く。そして器用に手を動かした。


 すると男たちが集まった地盤が、途端に揺れ出す。


「!? なんだっ」

「な、天井が……」


 ティルズが切ったのは男たちではなく、真上。


 洞窟となって自然の形で作られた場所だが、その分安定していないと危険だ。ティルズによって切られた真上が、岩の山のように下へ崩れる。ルベンダたちはすぐさまその場から引いた。


 崩れるような音と、男たちの騒ぎまわる声が遠くから聞こえてくる。

 その間にも、二人は手を繋いでその場から逃げた。


 しん、としたところを見れば、上手く撒けたようだ。しばらく互いに呼吸を繰り返していたが、それもやがては静まる。そのまま無言の状態でいたが、居たたまれなくなったのか、ティルズは顔も見ずに説明しだした。


「俺は切られたわけじゃありません。切られたフリ・・をしただけです。この赤い液体はフロー殿に作っていただきました。血と思わせ、そうではない。しかも専用の瓶を開ければ」


 そう言って実戦し始めた。

 瓶の蓋を開けると、散々軍服についていた血が、まるでスライムのように瓶の中に戻り始める。そして元の綺麗な軍服の状態に戻った。リアルな血の色と感触なのは、さすがだ。


 そして溜息混じりで最後に言う。


「このようになります。どうしてもさっきの連中にはあの位置から移動してもらいたく、この手を使いました。ルベンダ殿に説明する時間もなかったので、やむなくこの手を使ったんです」


 言い終わるとようやく正面に視線を向けたのだが、相手の顔にぎょっとする。なぜなら、ルベンダの目からまた涙がこぼれていたからだ。ティルズは呆れたように言った。


「……なに泣いているんですか」


 だがルベンダが突然突進した。いや、正確に言うと抱き着いた。勢いがあって倒れそうになったが、ティルズはどうにか踏ん張る。いきなりのことでこの状況があまり把握できなかったが、すぐに気付いた。


 ルベンダが、体を小刻みに震わせている。

 そして時々聞こえる嗚咽のような声で、今どのような状態なのか理解した。


「…………」


 ティルズは何も言えなかった。


 このようにしたのは、自分の作戦だ。

 驚かすつもりなどなかった。そう説明しようと考えていたが、ルベンダのこの状態を見ればそれはできない。ティルズはそっとルベンダの背に手を回し、小さく謝る。


「……すみません」


 すると首を振られた。


 そうじゃない、と言いたいのだろう。だが説得力がない。

 負けず嫌いなルベンダらしいと思いながら、ティルズはただずっと黙っていた。


 一方のルベンダは、ティルズの言葉など耳に入ってこなかった。


 ティルズが無事だった、そしていつものように接してくれた。

 ただそれだけで、嬉しく思っていた。嬉しいのに、涙が止まらない。これは嬉し泣きというのだろうか。今まで経験もないため、自分でも分からない。途中ティルズに謝られたが、どうでもいい。ただ傍にいてくれただけで、良かった。


 前までと違う、胸の痛みより、どこか甘い胸の高鳴り。ずっと、こうしていたい。涙が止まり始め、ぼんやりとティルズに顔を戻した。が、その距離が異様に近いことに、今さらながら気づいた。


「……は、わ、悪いっ!」


 すぐに離れる。一気に顔は泣き顔から火照り顔だ。

 慌てて相手を責めるような言い方をしてしまう。


「だ、大体ティルズが悪いんだっ。驚かすようなことをして……」

「だからそれは謝ったじゃないですか」

「う……」

「まぁでも、今回は俺が悪かったです。すみません」

「……もう、二度としないって約束してくれるか?」

「はい、もちろん」


 穏やかな表情でそう答えてくれる。

 ルベンダも同じように微笑んだ。


「なら、いい」


 すると今度は苦笑される。

 なぜかと思って首を傾げれば「いや、」と言いながら答えてくれた。


「本当に優しいなと」

「え、そうか?」


 別にそんなことないと思うけどな、と言いながらルベンダは歩き出した。ティルズも追いながら、心の中で思う。本当に、何があっても許してくれるところは、逆に見習わないといけないところだ。今回だけではない。ルベンダは例え自分がひどい目に遭ったとしても、それを許してくれる。こちらが誠意を込めて謝りさえすれば。もちろん、もう二度とあんな目には遭わせるつもりはないが。


 歩きながら、ルベンダの赤い髪が揺れる。

 思わずすっと、赤い髪の一束を手ですくう。


「? なんだ?」

「やっぱり赤は、あなたの色ですね」

「……え?」

「同じ赤でも、ルベンダ殿の髪の方がずっと綺麗です」


 血と髪色を比べるとはティルズらしい。

 ルベンダはちょっと苦笑したが、「当たり前だろ」と答えた。


 ティルズも笑いながら、目の前にある道を見る。

 その顔は、いつもの表情に戻っていた。


「男たちはこの道から出てきました。シャナン殿は、ここにいる可能性が高いです」

「そうだな」


 ルベンダはその道を睨むようにする。そして進み始めることにした。階段が多くあり、大変そうだが、体力に自信はある。だが上る前に、手を差し出された。


「どうぞ」


 何も考えることなく、ティルズは手を出してくれる。

 そう言えば今まで何度も手を握ってきた。今さら不思議なことでもない。だが、意識すると少し緊張してしまう自分がいた。ためらっている間に、手を取られた。


「時間がありません。行きますよ」

「わ、分かってるよ」


 剣だこのある皮のごつい手。

 自分よりも大きくて、温かい。


 ルベンダは無意識のうちに呟いていた。


「好きだなぁ……」


 すると、ティルズからはぎょっとするような顔で見られる。

 そして少し溜息をついた。


「……こんな時に心臓の悪い」

「え、なにか言ったか?」

「なんでもないです」

「?」


 どこかトゲのある言い方だったが、二人はどんどん先へと進んだ。







 ふっと目を開ければ、そこが暗闇であることに気付く。


 そして、手は紐のようなもので縛られていた。これでは自由に動かすことができない。そしてこの場所には、見覚えがある。そのことに気付いた時点で、桃色の髪を持つ彼女の顔が青ざめる。


「起きたか」


 聞き覚えのある低い声。

 少し掠れたように聞こえるのが、この男の特徴だ。


 寄宿舎の方へのこのこ来たことに驚きはしたが、もう昔の自分ではないのだから、と高を括っていた。その結果がこれだ。いつの間にか気を失っていたらしい。この場所に運んだのも、そして今ここにいるのも、この男のせいだろう。今は目の前に立っていた。


「何をするの」

「懐かしいなぁ。ここがお前の仕事場だった」


 少し口元を緩ませて言ってくる。

 その言い方が厭らしくて腹が立つ。だが男――――ザオ・ゲギザは、何でもないような顔でいた。


「そう睨むな。なんで俺がお前をここに連れてきたと思う?」

「そんなの知らないわ」

「つれないな。お前は俺の女だろ?」

「なっ。……勝手なこと言わないで!」


 思わず叫ぶような声を上げた。

 こんな男と付き合った覚えなどない。ただ、利用・・されただけだ。


「いいや、言わせてもらう」


 ザオは言葉が終わると同時に、シャナンの顎を掴んだ。いきなりで首が締まりそうになる。だがぐっと堪えた。相手は笑ったまま、開いている右手で自分の頬をなぞった。


「なぜならお互い同じ『傷』を持ってるからだ。…………俺がお前を抱こうとした時、お前は刃物で俺の顔に傷をつけたな。そのおかげで今でもこの状態だ。そしてお前にも、」

「っ! 止めてっ!」


 言葉を聞かず、シャナンの服を軽く破く。


 手でいとも簡単に破くとは、なんという力だろうか。そしてシャナンから見て左の鎖骨から少し下までが、露わになる。そこには、一つの線のようなものが入っていた。


「これだろ? 俺が怒ってつけた傷だ。……見えないだけましだが、女のお前からしたらさぞ屈辱的だっただろうな」


 シャナンは何も言わず、ただ荒い呼吸を繰り返していた。

 そして歯を食いしばっている。ザオの言葉を聞きながら、昔の嫌な過去を思い出してしまった。




 ……シャナンの家には、多額の借金があった。

 どうにかしてお金を返そうと、家族皆で頑張って働いていた。


 そんなシャナンには妹がおり、その子は正直でとても優しい子だった。ルイナという名の妹は、この男の言葉にすっかり騙されてしまったのだ。「すぐにお金を儲ける方法がある。俺についてくればいい」……この言葉のせいで、シャナンの人生が崩れることになる。ザオが言うには、その仕事は娼婦になることだった。そんなおぞましいことはしないと、すぐに断った。だが彼は、妹を脅しに使ったのだ。妹を、娼婦として売る、と言い出した。そのためシャナンは、縋りつくようにお願いした。


『いや! 止めて! 妹を連れて行かないで!』

『ならばお前が代わりになればいい』

『……え?』

『妹を助けたいのだろう? さあどうする。お前が身代わりになるか、それともこのまま妹が行くか』


 シャナンに選択の余地などなく、身代わりとして連れて行かれた。


 そして到着した場所が、ここだ。寒くて暗いどこかの部屋へ入れられ、 そして……長い間、監禁された。娼婦になれ、と言われたが、なぜかするのはその場にいた他の男たちの酌ばかり。他にも連れられた少女たちはいたらしく、毎晩、他の部屋でか細い叫び声を聞いた。それを聞く度に、シャナンは身が縮まる思いでいた。


 だがそんなある日、男たちの酌をついでいると、噂を聞いたのだ。どうやらザオは自分を気に入っていると。元々昔から容姿は良く、そこでもちやほやされていた。チャンスは物にするべきだと思い、ある夜自分から声をかけたのだ。そして一瞬の隙を狙って、相手の頬に傷をつけた。代わりに自分にも傷がついたが、その地獄から抜け出すためには手段など選ばなかった。




 ザオはそのことを思い出しているかのように、薄く笑う。

 だが目だけは、笑っていなかった。


「お前、誰のおかげで傷物にならずに済んだと思ってんだ? 他の奴らはそれでも金のために働いてたんだぞ? …………まぁ、いいさ。シャナン、ようやくお前を俺のものにできる」

「ならない。あんたの女なんて願い下げよっ!」


 どんなに怖くても、過去に何があったとしても、意志など変わらない。絶対に相手の思い通りになるつもりはなかった。だが、ザオは吐き捨てるように言った。


「その生意気な口が、どこまで利けると思ってんだ」


 そして顎を持っていた左手を思いきり振り払う。そのまま地面に倒れ、シャナンは背中を強く打ってしまった。唸るようにしていると、手が自分に迫ってきた。すぐに体が震えだす。


「いやあっ!」


 シャナンが叫ぶと、部下の他の男がタイミングよく入ってきた。


「兄貴ィ」

「何だ。邪魔するな」

「なんか妙な連中が来てるみたいだ。仲間がやられてる」

「……ッチ。分かった」


 舌打ちしてゆっくり体を起こした後、シャナンに向かってにやっと笑う。


「後でまた来てやる」


 そう言って部下の男とどこかへ行ってしまった。


 身震いしながら、どうにかシャナンも体を起こす。

 どうにか助かったが、あまりぐずぐずはしていられない。そして急に、ある人物の顔を思い出した。


(スガタ様)


 かつて暗闇の中を助けてもらった。確か洋館の時だ。

 純粋な彼が、自分の過去を知ったらどう思うだろう。現にこの傷のある体を見られ、驚かれて捨てられた経験もある。恋の経験は多いと言えど、全部上手くいった試しがない。信じていると思っていた相手に逃げられ、こんなことが続くのなら、いっそ自分は一人身の方がいいと思うようになった。


 ……だが、スガタだけは、なぜか信じられる気がした。

 彼は、暗闇から見えた一筋の光だ。だからこそ、決心してあの書類を送った。自分を受け入れてくれるというスガタに、自分も応えたいと思って。


 でも、馬鹿だ。そんなことをすれば、相手に心配をかけてしまう。

 何より迷惑だ。自分は強い。だから、そんなことをしては駄目だった。そう頭では思っていたが、どこかで、彼が来てくれるのを望む自分がいる。会いたい。そしてその温かい腕に包まれたい。あなたの優しさに、触れたい――――。


「シャナン殿っ!!」


 どこからか響いた声が聞こえる。

 シャナンが振り返るとそこに、会いたい人物の姿があった。

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