第五話 苦いコーヒーと甘くない会話
慎重に、かつ足音を立てないように静かに歩く。
別に床には絨毯が敷かれているので、足音を気にする必要はない。だが、念には念を入れておいて損はない。……そう、これから自分が相手をするのは「あの人物」なのだから。
人のやることなすことに、いちいちいちゃもんをつけてくる。
それを昔からやられている側からすれば、警戒が出てくるのも無理はないだろう。しかし今自分はメイドという立場。少しは大人になった姿を見せなければ、馬鹿にされるというものだ。めらめらと闘志を燃やしながら進むと、あっという間に部屋に着く。
ルベンダは少し呼吸を整え、そしてノックをした。
「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
どうぞ、という了解の声が聞こえたのでドアを開ける、と。
(はああああっ? なんだこれ)
視界いっぱいに映ったのは部屋全体に設置された本棚だった。そしてそこには、無数の本が並べられている。騎士の部屋は、メイドによって綺麗に掃除がされている。部屋には簡単な家具が事前に設置されており、ベッドに机や椅子、本棚などが基本だ。後でその部屋を使う騎士たちの要望に合わせて、必要なものを注文したりする。つまり、部屋は少し質素なはずなのだ。だがティルズはいつの間にか部屋を本棚だらけにし、しかも大体の部屋の片づけが済んでいた。
他の騎士たちはお茶会が終わってからやり始める作業なのに、ティルズはさっさとやってしまったようだ。当の本人は椅子に座り、机の上に高く積み上げられている書類に目を通していた。そしてルベンダが来たのを見計らい書類をすぐにまとめると、部屋から出てバルコニーに近い大広間に移動した。互いの規律を守るためだ。
移動すれば、バルコニーには騎士やメイドの姿が見える。
甘い香りもあるので大丈夫なのかと思いつつも、ルベンダはコーヒーを机の隅に置いた。
ティルズは置かれたコーヒーカップに手をつけ、まず匂いを嗅いだ。それから口につけ始める。少し飲んでは香りを楽しみ、また飲んでは香りを楽しんでいた。優雅な動きだが、どうやらコーヒー好きらしい。動きがとても細かいと思った。
カップが空になると、それを元の机の上に置く。
そしてまた書類を見始めた。
その様子を見て、ルベンダはこの後どうすればいいのか迷った。
ここは潔くコップを持って出ていくか、それとも黙ってこのまま突っ立っておくか。メイドの立場上、何か言うのは控えた方がよさそうだ。なぜならティルズは真剣な顔をして何かメモをしている。邪魔をしてしまってもいけない。真剣といっても、こちらからすればいつもと変わらない顔をしているのだが。
とにかくルベンダは、ティルズに何か言われるまでそこで待機しておくことに決めた。正直暇で出ていきたいが、ティルズの指が書類をなぞる音だけが妙に心地いい。ここは静かに、まるで空気になったような感覚になっていた方がいい。
すると、いきなり声が聞こえた。
「美味しかったです」
誰が発したのか一瞬わからず、目をぱちくりさせる。
良く見れば、ティルズは小さく笑っていた。いつもの馬鹿にしたような笑いじゃなく、自然と。本当に、口元がほんの少しだけだけだったが。
「俺の好みにあった味でした。蒸す時間もちゃんと計っていたようですし、コーヒー豆も……ストレートのものを選んでくれたのですね。苦い方が好きですから、一気に飲んでしまいました」
思わず唖然としてしまう。
嫌味の一つや二つ言われるかと思ったのだが。
素直に喜ぶことができないので微妙な顔をしていると、相手は真顔になる。
「何て顔してるんですか。俺は本当のことしか言いません。言うこと全てが嫌味ではないと、さっきも言ったでしょう」
「あ、ああ……」
動揺して言葉が続かなかった。
だがそんな姿を見られるのは嫌なので、視線を逸らす。ついでに話題も逸らした。
「そ、そういえば」
「はい?」
言おうとして、ルベンダは少し間を開ける。
なぜなら、本当は言いたくはなかったからだ。でも、言わざるを得ない。ルベンダは少し深呼吸をしてから口を開く。視線は逸らしたままでいた。
「……お前はここでは主人みたいなものだから、私に敬語を使わなくていいぞ」
「結構です」
「即答かっ!」
「内心嫌々なのがものすごく伝わってきましたから」
それには思わずうっとなってしまう。
よく見ればティルズの顔は元の無表情になっていた。
そして目線も書類に戻っていた。一段落したのか、書類を揃えて机の隅に積み上げる。
「それに俺も、こちらの方が慣れてますので」
「慣れてる?」
「ええ。昔ルベンダ殿に言われてから、すっかりこの口調が板についてきたんです。ですから、ルベンダ殿も遠慮なく今の口調で話してください。といっても、俺に敬語を使う気はなかっただろうと思いますが」
最後は少し呆れたような、諦めたような言い方だった。
図星なので、ルベンダは少しぎょっとする。さっきから思っていることが、完璧ではないもののほとんど当てられている。自分でも自覚していたことだったが、ティルズのせいで余計に自分は隠し事や嘘は向いていないのだということを学んだ。
……そんな二人の会話を、こっそり聞いていた二人組の影があった。
壁の傍におり、片時も聞き逃さないというような顔をしている、のはシャナンだけで、ニストは少し困惑しながら傍にいた。
「ちゃんと大広間に移動しての会話か。さすがぶれないわね」
「シ、シャナンさん……」
「でももうちょっと王道的な展開にならないかな、って期待してたんだけどなぁ」
「シャナンさん!」
ただでさえ口がよく動くのに、オブラートに包みながらもその発言は止めてほしい。と同時に、ニストは少しほっとしていた。もし、シャナンが言ったような展開になってしまったら、きっと自分はここから逃げ出してしまうだろうと思っていたからだ。
するとシャナンがにやにやしてニストの顔を見た。
完璧に楽しんでいる先輩だ。
「ニストが気にすることじゃないでしょ?」
「だ、だって、大切な先輩ですから……。それに、ルベンダさんに限って変なことは起きません!」
あまりに純情な返しに、さすがのシャナンも苦笑していた。
「まぁ、ね。でもティルズ様はまだ読めないわ。一体どういう目的でここに来たのか……」
「少なくとも、規律を破る奴じゃないですよ」
「そうです! 見たところ真面目そうで、全然……えっ?」
急に別の声が間に入ってきたので、二人で振り向く。
するとそこには、なぜか正座をして話を聞いていた騎士がいた。こげ茶の短髪に琥珀色の瞳。座高も関係しているのかもしれないが、かなり長身で百八十は優に超えているだろう。細身だが体はしっかり鍛えられているように見える。
ぽかん、と二人で見つめていると、その騎士は少し苦笑して頭を掻いた。
「あ、どうも。スガタ・ガイセンと言います。ティルズに用があって……」
苦笑しながらも、その顔はなかなか愛嬌があった。そのまま見たらかなりの好青年に思える。だが二人は表情が変わらない。容姿以前に、気になることが多すぎるのだ。
「……あの、顔はどうされたんですか?」
血色のいい肌を持っているが、なぜか頬には引っ掻かれたような傷があった。
しかもそれだけじゃなく、軍服がところどころ汚れている。確か軍服を着るのは今日が初めてのはずだ。ぴかぴかに光っているはずなのに、なぜか色がくすんで見えた。
するとスガタは何事もないように笑う。
「ああ、大丈夫です。今日はまだいい方ですから」
「「え」」
二人の声が重なる。そして、その言葉がどういう意味なのかまったく分からなかった。
すると頼んでもいないのに、スガタの方から説明してくれた。
「さっき猫が屋根から降りられなくなったみたいで助けたんですけど、ちゃんと助けられなくて引っ掻かれてしまったんです。あ、この服の泥は歩いていたときに水たまりがあったのに気が付かなくて入ってしまって……。それにここまで到着するのにも時間がかかって、一人で迷子になってました」
あははっ、と楽しそうに話してくれたが、全然内容は楽しくない。
あまりにも不憫で、逆に二人はかける言葉が見つからなかった。
だが気にせずスガタは立ち上がり、「そろそろ言わないと時間がないので……」と二人の傍まで寄ろうとした。が、次の瞬間、どこからともなく飛んできたお盆がスガタの顔面に命中した。
((どこからお盆がっ!?))
シャナンとニストは、今まさに怪奇現象でも見たような顔でツッコんでしまう。
ボンッ! と派手な音を立て、思わずスガタは倒れてしまった。
その音に気付いたのか、ルベンダとティルズはこちらの存在に気づいた。特にシャナンとニストがいると分かると、眉を寄せながら聞いてくる。
「…………二人とも、なんでここにいるんだ?」
「あら大変。逃げるわよ」
「えっ」
「あ、こらっ! 待てっ!」
シャナンが平淡な言い方でニストの腕を掴み、そして引っ張る。
ニストは来る時と同じようにされるがままになる。一方ルベンダは、ティルズとスガタのことなど頭に吹っ飛び、いつも何か企んでいるだろうシャナンに狙いを付けた。
そしてそのまま三人は、どたばたとその場から走り去ってしまう。
「いたたたた……」
もろに当たってしまって顔を抑えていると、上から淡々とした声が降ってきた。
「お前の不幸体質はここでも発揮されるんだな」
遠慮のない同期の言葉に、スガタはあははっと笑う。
まった気にしない、楽観的な性格の持ち主の様だ。
「いつものことだから慣れてるさ」
「で、何か用か」
「ああ、そうだった。団長から伝言。今日の夕刻、部屋に来てほしいって言ってたぞ」
「そうか」
それが命令ならば断わる理由はない。見ればスガタは、先程の三人が向かった方角を眺めていた。そしてティルズに顔を戻す。
「ここのメイドさんは美人や可愛い人が多いけど、さっきの赤髪のメイドさんは特別綺麗だったなぁ。こう、周りとオーラが違うというか」
「……スガタ、褒め言葉は軽々しく言わない方がいい。問題はないだろうが、面倒なことに巻き込まれないためにもな」
「え? ああ、うん」
ティルズとしては、そういう褒め言葉は生涯のパートナーだけに言え、と助言したつもりだった。だが返事をしたスガタはおそらく分かっていない。本心から思っていれば、誰にでも優しく褒めてしまう男だ。この寄宿舎にいる間、本人が意図しない中で規律が破られないか、少しだけ心配になる。
「そういえば、知り合いだったのか?」
「ああ」
「へぇ、どんな関係なんだ?」
「おもちゃかな」
さらっと言った言葉に、スガタの目は点になる。
(……おもちゃ? おもちゃって、それは、子供が遊ぶようなおもちゃってことか? そ、それとも、えっと、その、も、ももももももももも…………!?)
スガタは頭の中で必死に考えていたのだろうが、口からただ漏れでティルズには聞こえていた。半眼になりながら冷めた目で見てしまう。正直、遊ぶと面白い人物、というだけで、冗談のつもりだったのだが。
「別にそこまで深く考えなくていい」
目をぐるぐるとさせていたスガタは、きょとんとする。
「え? あ、そっか。そうだよな! あははははっ!」
どこまでも単純な頭に、ティルズは遠慮なくため息をついた。
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