作中の「わたし」の気持ちを25文字以内で答えよ

「うーん、雨やまないね」

 窓の外を眺めながら彼女はそう呟いた。


 夏休みに入ってからしばらくは、お互いに予定があったりして会うことが出来なかった。だからこうして彼女の顔をみるのは終業式のあと、ふたりで立ち寄ったファミレスでの談笑以来、二週間ぶりのことだった。久しぶりにみた彼女の様子は至って変わりなく、この天気であってもその活発さは損なわれることがなく、夏休み前よりも少しだけ伸びたように思えるショートカットの黒髪がそのハツラツとした雰囲気をいっそう引き立てていた。

「そうだね。せめて帰りまでにやんでくれるといいけど」

 わたしも窓の外を見遣り、そう応える。

「自転車、外に停めてきちゃったから雨やんでもサドル濡れてるかもー。タオル貸してぇ」

 すこしわざとらしく、なよなよとわたしのほうにもたれかかり情けない声色で助けを求めてくるのは彼女とわたしのやりとりのなかではよくみられる光景らしく、ほかのクラスメイトに何度かいじられたことがある。とくに意識したことはなかったけれど、たしかに端からみればこの距離感はそう勘違いされてもしかたのないものかもしれない。わたしは彼女の身体を軽く受け流しつつテーブルの上に置かれたコップに手を伸ばした。麦茶の注がれたそれは、ほどよくクーラーの冷気の漂う室内にあっても表面にじんわりと水滴を纏って 、コップに触れたわたしの指先に吸い付くようにそれら無数の水玉が形を変え指紋の隙間へ、そして指の隙間へと入り込んでゆく。

「うにゃあぁー」

 受け流がされた彼女はわたしの肩から滑り落ちるように胸元を伝い、テーブルとわたしのお腹との間を器用にすり抜けて、そのままなだらかな動きで太ももに頭を預けた。わたしは構わずコップを手に取り、その縁に口をつけた。すこしばかりつよい渋味を舌の上に感じたけれど、飲み慣れたその濃さに、わたしが違和感を覚えることはなかった。

 彼女のほうから今日になって突然、遊びに行ってもいいかとLINEで尋ねてきたので先日までの多忙なスケジュールもちょうど一段落して、この日はとくに予定の入っていなかったわたしは既読をつけてからすこし間を置いたのち、了承する都度の返事を返した。それから間もなく玄関のインターホンが鳴ったため玄関にでると、そこには夏休み前と変わらぬ笑顔を湛えた彼女が暑すぎるくらいの日差しを携えて佇んでいた。薄い布地の真っ白なギャザーフリルブラウスが汗ばんだ彼女の肌にしっとりと張りついて、その下に隠れるこの季節には到底似つかわしくないとも思える白妙で華奢な柔肌を露にする。こんなに白い身体をして。空白の二週間、彼女はわたしの知らないところで、その夏をどのようにして過ごしていたのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。開け放した玄関から彼女越しに夏の湿気を帯びた風が、夏らしい爽やかな薄浅葱色のフレアスカートを撫でながら吹き込む。その風はわたしの鼻腔に、彼女のもとを離れた彼女の一部を運んできてくれた。

「ひさしぶり」

 それに対してわたしは

「いらっしゃい」と答えて彼女を太陽の熱の届かぬ庇護下へと招き入れる。

 久々に会った彼女との会話はとても当たり障りのないもので、今年の夏は暑いだとか、宿題が終わらないだとか。わたしはといえば、玄関で彼女をみたときに浮かんだ疑問を、久しぶりに会ったもの同士、一番ありふれた話しのタネとなり得るであろうその話題を彼女に振ることができずにいた。けっしてなにか思惑だとか、聞いて困るような話でもないのに、わたしの心はその話題を口にすることを阻んでいた。理由はわからない。そして彼女のほうも、わたしに対して同じ質問をすることはなかった。テーブルの上に置かれた麦茶の入ったプラスチックのボトルが、その表面の結露を再び空気中に還元して、冷蔵庫のなかでじっくりと芯まで冷やされたはずのその中身も既に冷笑とも冷淡ともとれる態度をすっかりと失い周りの熱に溶け込んでからしばらく経つ頃。

「お、おぉ」

 それまでだらりと脚を投げ出して、まるで夏バテの患者を彷彿とさせる怠惰をさらけ出していた彼女が唐突に跳ね起きて、その瞳を輝かせたことに何事かと問おうと、起き上がったばかりのその背中に目を向けようとした瞬間。わたしはそれよりももうひとつ先。反射的に目を細めながらに見つけたのは、彼女の影に半分は遮られた窓枠と、そのなかに写された雲ひとつない青空だった。まるで霹靂に青天を滴下したようなそこにある光景は、ただ森閑と、冷気に晒されるがままのわたしたちに夏を語りかけるようだった。つかの間の静寂を打ち破り、気がつくと蝉時雨がモルタルの壁を激しく叩いていた。

「それじゃー、そろそろいこっかな」

 分厚い雲とともに気だるさもどこかへ飛ばしてしまったのであろう彼女はハツラツとした声でわたしに呼び掛ける。

「そうだね」

 そういって白い毛布の敷かれたベッドの上に置いてある生成色をしたリネン地のトートバッグを手元に寄せる。亜麻色の持ち手に手をかけると、柔らかな肌触りの牛革がよく馴染む。 これは彼女の持ち物だ。玄関で迎えたときに彼女の両手に握られていたもの。自然色を纏った姿はとても彼女らしいと思えた。

「はい、これ」とバッグを手渡す。交わした言葉はそれほど多くなかったけれど、わたしたちにとってはそれで十分だった。青空と青空の隙間の時間だけ。そして部屋を出る彼女。そのあとに続いてわたしも歩き出す。玄関先で彼女を見送るためだ。階段を降りる彼女を上から見下ろす。重力と空気抵抗の相互作用に弄ばれる艶やかな黒髪がふさりふさりと彼女の身体よりも少しだけ遅れて揺れる。一瞬、また一瞬。その黒色の間に白いうなじが見え隠れする。数時間前まで汗をかいていたとは思えないほどにさらさらと滑らかに揺れる髪。無意識に触れようとして伸ばしたその手を制する。そんなことをしたら、彼女は驚いて階段から脚を踏み外してしまうかもしれない。彼女の身体に傷をつけるなんて許せないし、ましてやそれが自分の行いによって引き起こされようものなら......その先は考えたくもない。

 わたしが彼女の後ろ姿に気を取られているうちに、彼女の足は一階の廊下に着地した。わたしの口からはふぅ、とひとつ短い息がつかれた。

「じゃあね」とわたしに一言、微笑みを添えて告げる彼女に、わたしは無言のまま微笑み返して優しく頷く。それは彼女に対しての返答でもありわたし自身を納得させるための首肯でもあった。多少の名残惜しさは感じなくもない。けれどもそれでわたしが落胆することはない。またすぐに会える。わたしのなかの彼女はそう囁くのだ。そして現実の彼女は身を翻して水溜まりの転々と続くコンクリートに脚を踏み出し、その背中を見送るわたしのほうを時々振り返っては、満面の笑顔で大きく手を振る。その度にわたしも小さく手を振り返す。あと何度、この時間を過ごせるのだろうか。余計なことを考えてしまう。

 やがて十字路を曲がり、彼女の姿は見えなくなった。だがしかし、わたしは確信する。彼女はきっと、またすぐに戻ってくるだろうと。なぜなら──。



 タイトル

『雨上がりのサドルは濡れているから』

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