名前を呼びたいだけのひと

「大変です!ゲロルシュタイナー博士。どうぞ早く。こちらへ」

「何事かね、ボードウィン君」

けたたましいサイレンと赤色灯の明暗転に自分の立っている場所が、わからなくなりそうだ。

「ゲロルシュタイナー博士、これをご覧下さい」そう言ってボードウィンと呼ばれる青年が年老いた老人に向けてなにかを差し出す。「ふむ」渡された板上のものに映し出された、線や文字といった情報を読み取りそれらを指で弾いては新しい情報に目を通していく。どうやら、これはタブレット端末と言うものらしい。流し目で一通りの情報を理解し終えたゲロルシュタイナー博士と呼ばれる老人は深い、ため息をつきボードウィンに向かって、こう話す。

「ボードウィン君、落ち着いて聞いてほしい。いや、この状況で落ち着けと言うのも無理な話ではあるが、この状況ゆえに君も察してはいるのだろう。だがしかし、これから話すことは君の想像以上に恐ろしいことであると。まず、前置きをしておかねばなるまい。心の準備が出来たら、わたしに声をかけてほしい。なんせ最悪の出来事だ。わたし自身も少しばかり気持ちの整理をつけたい。だからゆっくりでいい。気の収まることはないだろうが、少しでも話を聞こうと思えたならば。わたしの書斎に来なさい。そこで話をしよう」

そういってゲロルシュタイナー博士は近くの機材を操作して。緊急事態を告げるコンピュータをなだめる。そして、最悪の宣告を受けたボードウィンは、書斎へ戻って行く博士の背中をただぼんやりと見つめるしかなかった。「ゲロルシュタイナー博士……」


あれから1時間。焦らなくても良いとは言われたものの。青年には、まだ決心がつかなかった。「ゲロルシュタイナー博士。この僕、ボードウィンにはどうすればいいかわかりません」ここにゲロルシュタイナー博士は居ない。ボードウィンは虚空へとただ呟くのみ。ゲロルシュタイナー博士の身体は、確かに、ここにある。だが、その魂は今は、もうここにはない。ゲロルシュタイナーと呼ばれた老人の意識は、もうここには無いのである。生前のゲロルシュタイナーを知るのは、今やボードウィンただ一人。ゲロルシュタイナー博士の存在を知ることは出来ても。彼がどのように考え、どのような言葉を綴るのか。それはもう、ボードウィンの頭の中で空想を巡らせる他に無いのである。可哀想なゲロルシュタイナー博士。彼は最悪の真実に耐えられなかったのだ。床に転がる万年筆と抉られた喉元から書斎一面を彩る鮮やかな赤。トクトクと流れ出る鮮血は今はもう勢いを無くしてただ重力の成すがままに下へ下へと。首を伝い、机に広がり。やがてポツリポツリと床に滴る。可哀想なボードウィン。彼はもはや、これ以上知ることは許されないのだ。これから起こる最悪を前に。彼はただ、恐怖に怯えて、その時を待つ他に術は無いのだ。

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