第68話 もう、三人で楽しくはできないのかな

*68*


 チュンチュンと朝の小鳥に射し込む朝日。今日はとてもお天気がいいらしく、母親がパタパタと走り廻る音も軽快に聞こえる。


 萌美はもぞ……と白いベッドの布団に潜り込んだ。眠れたようで眠れていない。目を瞑ると涼風の言葉と、蓼丸の泣き顔が瞼の裏にちらついて、辛くて寝返りを打つ。


すると、今度は蓼丸の言葉と、涼風の大泣きした後姿が浮かんでくる。


***



 泣き止んだあの後――。



 時間は気付けば夜の九時を回っていて、演劇部に衣装を返して蓼丸と学校を出た。


 講堂のほうもそろそろケータリング撤収らしく、業者さんの車が止まっている。


「あはは。まだ男子が食べ物狙ってるよ」


 二人でひとしきりの戦場だったグラウンドを眺めた。手は、繋がなかった。


 蓼丸は「送るよ」といつも通りに告げた。「うん」と萌美も返事をして、本館を見上げると、一階と三階はまだ電気がついていて。


 ――マコがいるのかな。


 遠くなった背中を思い出すと胸が痛い。せっかく選んだのに、もう遠くに行っちゃって。


(やっぱりあたしを好きなんて)我が儘萌美を押し込めた。


 ――いつだって泣くんだから。織田会長に笑われながら、動物園に連れていかれちゃえばいいっ。


 ……好きだって。あんたがあまりに言うから、好きの言葉が全部マコの声で口調で聞こえて来る。何を読んでも、聞いても。


 ……もう、三人で楽しくはできないのかな。


「蓼丸」「ん?」蓼丸はどう思っているのかなどと聞けない。

涼風の手を掴んだ。その時の蓼丸は顔を背けていた。裏切ったんだ、あたしは……。


 今更、甘えたら、いよいよ恋愛でも赤点になっちゃう。



「好きになって、ごめんね……ごめんね、蓼丸……っ」

「それなんだけど」


 蓼丸は「情けないが、泣きすぎて目が痛くて、家に目薬置いて来た」と右眼を押さえた。


(そっか、織田会長に眼帯投げつけちゃったから、痛いのかな。そうだよね、何か辛いから眼帯してるんだもん。それをぶちっと切っちゃって……)


「うん、これ以上の迷惑はかけないから」


 蓼丸は表情を強ばらせようだった。暗がりで見えなくて、月明かりが再び蓼丸を逆行で照らし上げた時、蓼丸はゆっくりと微笑んで「また明日」と告げて――。


***


「萌美、学校遅刻するわよ」


「うん……ママ、お腹痛い」


「あらまあ。体育祭張り切りすぎたの? そろそろ蓼丸くんとマコちゃん来るんじゃないの? 王女さま」


「今日は王女さまはお休みする。……ひとりに、して」


 母親は「あら」と階段を降りていったが、もう誰も迎えには来ない。涼風は夢を選んで、あたしは応援するって言った。付き合おうとも、何も言われてない。


 蓼丸は多分、来ない。


 ――眠りたいよ。ぐっすり。……そうして日々が流れればいい。もう、疲れた……。


 また布団に潜り込んで、また目から水分が出て、枕のタオルを投げた。背中を向けて、肩を震わせる。


「みんな、いじめないでよ」そんな恩知らずの言葉の合間に、「今日は休ませるから、ごめんね」と母親の声。


「そうですか」とかすかに遠く、優しい声が聞こえて消えた――。


***


〝動物って、落ち込むと丸くなって、食べないんだってさ。おーい、おまえ丸まってっけどどうした?〟


〝おでこが痒いの! かゆいかゆい!〟

〝なーんだ。こんなもの、俺が退治してやる!〟


 おでこのぷっくりを潰された。


 嫌な夢を見て飛び起きると、外はすっかりお日さまが傾く時間になっていた。


 ――4時……。最悪な一日。さすがにお腹が空いたとリビングに降りると、母親はいなくて、サンドイッチが1つ。でもスープは自分で用意しなきゃいけなくて。


 今度はポットの栓が見つからないので、仕方なく牛乳。余計寒くなってサンドイッチを胃に詰めた。


「酷い、あたしが落ち込んでるのに、みんなで一人にする。いいよ。洋画でも観るし!」

 笑えるものがいいとコメディを選んだが、ひとりぽっちが辛くて、つけたままソファに横になる。


 世捨て人の気分ってこんなかな。


 ――こんなことなら、学校に行けば良かった。学校に行って、ちゃんとマコと話すべきだった。蓼丸ともちゅうぶらりんになっちゃった。


 惨めな桃色鼠はお布団に戻ろう。今は、明るくいられない。――と、チャイムが鳴った。宅急便かと思ったら、眼帯のない蓼丸だった。しかも服装がいつにもまして緩い。


 頬も少し擦りきっているし、髪もぼさぼさ。唇も見れば小さく切れていて。


(え? 時間? まだ学校じゃ……っ。また乱闘した?!)


 蓼丸は眼帯を外すと海賊行為をする。騎馬戦で箍が外れたのか。


『桃原さんのお宅ですか?』ぼけっとモニターに立っていると、『そのパジャマ、可愛いな』と言われて慌ててガウンを取り出した。


(寄りにも寄って「ピンクキャット」のパジャマ。耳つき帽子付きだし!)


「あ、あの……っ。蓼丸、学校……あと、眼帯してないの?」


『そんなもの自主的早退。堂々と言ってやったよ。先生に。『気になる子が不登校なので、次期生徒会長としては見逃せません。様子を見て来ますので帰ります』ってね』


 ――気になる子が不登校。はい、ひとりで、いじけて寝ていました。


『俺もお昼まだなんだ。喉を通らないなら、桃原と一緒に食べようと思って。ホットコーヒーとバーガーセットだけど、どうかな。このドア、開ける気にはならない?』


 萌美はそわっと蓼丸の背後を伺った。思考を読んだように、優等生早退の蓼丸は「俺一人だよ」と含み笑った――。


***


「やだもう。来るなら知らせて欲しいのに。今、ママ留守なんだけど」


 蓼丸は少し考えたようだが、「上がっても構わないか? 玄関でいいから」と玄関に座った。「何がいい?」といくつかパンが出て来た。


「好み、判らないから、1種類ずつ。残りは俺が食うからいいよ」


「……あ、じゃあ、チェダーチーズの……」


 もふっとハンバーガーを玄関先で広げていると、蓼丸が「ピクニックみたいだ」などとのんびり言う。


 なんだろう、気が抜ける。


「女の子にはショックな話だろうな……色々聞きたいこともあったろう。だから、生徒会も授業も後回し。桃原、寝てた?」


「……うん。何もやる気起きなくて」


 蓼丸は「そうだろうな」と目を遠くにして、「少し涼風が羨ましいんだ」とぼやいた。


「あそこまで、好きな子の恋を実らせてまでもやりたいことがあるってスゴイよ。俺はせいぜい眼帯のトラウマを乗り越えたくらいでね」


 ――眼帯のトラウマ。


「そういえば、今日、蓼丸眼帯してないね。ねえ、また、騒動起こしてない? 織田会長と決闘とか、男の子と乱闘とか」


 蓼丸はあっと言う間にバーガー1つを食べ終えると、にっこりと微笑んだ。


「その必要がないんでね。今は、隠してたこっちの目を慣らすことにしてる。なあ、桃原、俺の眼見て、どう?」


 唐突な質問に、萌美はフワッとした気持ちで、蓼丸の目を見詰める。最初に眼帯を毟った。その時と少し違う気がする。……ちょっとだけど、色味があるような……?


「変わらず、綺麗だよ。でも、ちょっと色が変わった?」


「俺の眼はね。オッドアイなんだが、凍り付いていたんだ。ちょっと話してもいいかな。気晴らしくらいにはなるだろ。言葉が足りないってこれ以上言わせるつもりもないし」


 蓼丸は自嘲的な笑いを零し、俯いた。


「うん、聞く。……蓼丸のことも知りたかった。だから、聞く。都合いいかも知れないけど……」


 蓼丸は片膝を立てて、考え込んでいる。まるで借り物競走の命令を見た時と同じように。



「俺はクォーターでね。知ってると思うけど、祖母の血が色濃く出てるせいで、左眼がダークブラウン、右眼の色がダークブルーで産まれたんだ。一見見ただけでは判らないくらいだった」



(えっ?)


 蓼丸はふふっと笑った。


「物体が凍れば、表面に霜がかかる。目も同じなんだな。凍ると、白いフィルターがかかる。……苛めだよ。目の色が違う、自分たちと違う、いつからか判らないが異端だと騒がれてね」


 蓼丸は告げると、顔を上げた。


「涙も出ない。究極の無感動状態。俺の眼はどんどん色を失っていったの。だから眼帯は絶対に外さなかった。外すとまたこっちの目が疼いて、歪んで全部荒海に見えておかしくなるから。でも、春に変な子が来てね、「顔が見えない」って俺の眼帯を毟って……俺の彼氏にしろって……一瞬理解不能」


 蓼丸はクスクス笑いながら、続けて行く。


「想像もしていないよ。突然眼帯毟られたんだぞ? ずっと強ばっていた目に光が当たった。暗い海に桃色の光。ほんとうにね、桃原が桃色に見えたんだ。見て欲しいって思ったし、見たいと思った。その時から、右眼が疼き始めたわけだ」


 萌美はおずおず、と手を蓼丸の右眼に翳した。


「あたしの、お馬鹿な言葉のせい……? うん、あたし言ったね。あの時からバカさらけ出しすぎ!」


「そうだな」と蓼丸は笑って、「落ち着いた?」と頬に手を伸ばしてくる。


「うん、ごめん、蓼丸……あたし、でも、マコを選んだから。逢うことも出来ないって思ってて……」


 もう押さえきれない。萌美は広げた蓼丸の腕に飛び込んだ。泣いてばかりの時間が過ぎる。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ……あの、素敵な彼女……」


「涼風、そこの公園まで連れてきてるけど、話す?」唇にひとさし指を押さえられて、萌美はひくっと目を瞠った。


「――俺と付き合うなら、ちゃんとしたほうがいいだろ」


(あの……)

 おはなし、聞いてますか? 蓼丸。


「あたし、マコを選んだって……」


「うん? だからちゃんと話しておいでって言ってるんだよ。玄関散らかしちゃったな。掃除道具どこ?」


「あ、そこのストッカーにモップが」


 狐に摘まれたようで、萌美は呆然とモップを取り出した蓼丸を涙目で見つめた。学校さぼっちゃって、生徒会も投げちゃって、桃色のお馬鹿を選んで、家来てモップかけて。


 ――ああ、蓼丸って……こういう性格だった。動じない。その強さが好きなんだ。だから何でも頑張れた。蓼丸のためならって。


 ――あれ?


 ……なんか、引っかかる。


「ほら、綺麗になった。桃原、外は寒いからガウン着て。涼風には体に叩き込んで、話しておいたから」


 ――うん?


 蓼丸はにっこり笑ってぽき、と骨を鳴らして告げた。


「「桃カレは俺です」って。涼風のボロボロ具合見て、驚くなよ? サルと狼が二匹でじゃれ合っただけだから。


自然享受権の協定は今日を以て眼帯と共に破棄する。――約束通り喧嘩しただけだ。俺は男には容赦しないって知ってるだろ」

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