恐怖と決意
警備隊が使っている訓練場を利用して、二十二時からの六時間継続戦闘訓練――。
ゆっくりと夜が白色に変わり始める時間帯、疲労によって一歩も動けなくなった藤崎デディを、いつものスーツ姿でファゼットが見下ろしていた。
唐突に言い渡された訓練であるため、もちろん早朝から走り込みなどをしていたデディは、準備など一切していない。だがそれはファゼットだとて同じであり、この日、痛烈なまでに実力差を明白なものとして提示された。
罠を作っておいて誘導、休もうとしたタイミングでの襲撃、反撃の潰し方、それらの対応――結果だけ言えば、徹底して追い込まれ、休憩など一切できず、デディはずっと死の味を感じ続けて、今も会話ができるような状況ではない。
ただ、倒れたまま、煙草に火を点ける音だけが耳に届く。
「はい、お疲れ様。エミリー、今日と明日、屋敷には近づかないように」
「……得点は?」
「甘く見て五十五点。〝殺さない〟ことは苦手みたいね」
「獲物で遊ぶ趣味はない」
「良い返事。あとは任せなさい」
「次は御免だ」
「それを選択できると思っているの?」
「あんたいい死に方しねえよ」
「知ってるわ」
気配が一つ遠ざかるのを感じて、ようやく、デディは思い切り肩を動かすようにして呼吸をすることができた。
荒く、呼吸を繰り返し、ずるずると躰を引きずるようにして、手近な木に手を伸ばし、震える腕を動かしながらも躰を起こす。
足は動かない。
動かそうという気持ちばかりが空回りだ。
「やり方は乱暴。人の追い詰め方を知らない――どうしたって、魔物が相手の経験だから。けれど、だからこそ知っている。気を抜いたら殺されるのは自分だと。油断はない、そして余裕もない。ただ、私が〝殺し〟だけを禁じた」
「はっ、はっ、……はっ」
「水よ」
手渡されたボトルを、震えた手で開けようとするが、開かない。焦って気ばかりが先行し、泥にまみれた手は滑ってしまう。
それを鷺花は、見ているだけだ。手伝いはしない――そして、どうにかして開けて、水を飲めば、会話が成立するのだとわかっているから。
「は――……、ファゼットは、……本気、だったんですか」
「少なくとも遊んではいなかったわね」
「……」
「冒険科でも、ここまでは教えない。わかるでしょう?」
「そもそも……耐えられない」
「だから外に出て、生き残れる連中は限られる。休むだけで気が抜けて、水場が目に入れば安堵する――」
「そこを、狙われる」
「人も魔物も同じよ。食べている最中が一番油断しているし、寝ている時に襲って片付ける。そのための対策をしておく。そして、そんな想像も、対策もしていなかった間抜けがここにいるわけ」
「……はい」
「〝外〟は、今回の訓練と比較して、どれくらい辛いと思っている?」
「――」
「訓練と呼ばれるものは、常に、実戦を想定して行われる。けれどいずれも、実戦に勝ることはない――と、されているわ。何故?」
「……命の危険に晒されないから、でしょうか」
「エミリーは怖かった?」
「はい」
手の震えは、決して疲労だけではない。
「あの子は〝いつも通り〟の結果を見せた。私との訓練では常に、そう。技も、動きも、術式も、その全てが一つの結果に吸い込まれる」
「殺す、ということですか」
「違うわ。――生き残る、ということよ」
「――」
「これまで通り、いつも通り、私は何も言わない。現実を噛みしめて歩く先を示すほど、私は甘くはないの」
水のボトルが二本と、携帯食料が入ったバッグを、デディが背もたれにしている木の上から取れば、それを足元に落とした。
「明日の同じ時間、迎えに来るわ。山頂には小屋があるから好きに使いなさい。命令は一つ、時間内には、誰にも逢わないこと。顔を見せるような馬鹿がいたとしたら、敵だと思って対処なさい。――質問は?」
「ありません……」
「結構」
ふわりと、一瞬にして消えてしまうが、その行為にはもう慣れた。デディは一本目のボトルを空にすると、携帯食料を取り出し、かじりつく。保存のため塩気が強いが、何よりもそれが心地よかった。
六時間、ろくに飲み食いしていないのだ。
――いや、できなかったと表現すべきだろう。そんな隙を見せれば襲撃され、確保しておいた食料など簡単に奪われる。だからといって強い警戒を張っていれば、ここにいますと宣言しているようなもので、遠距離から狙われるだけ。
どうしようもなかった、なんて結論が出る時点で、六時間の内容も窺えよう。
そして今。
恐怖に躰が震えていて、それ以上の疲労があっても、一切の眠気が訪れない。まばたき一つするのに注意深く、軽く瞳を閉じた瞬間に殺意を思い出して震え上がる。
何度殺されただろうか。
怖くて、そんな質問ができなかった。
「――はあっ」
太ももを叩くようにして、よろよろと立ち上がり、バッグを肩にかけて、一歩でもいいので傾斜を上がる。何度も訓練で使っているためか、踏み均された道というのがなくなってしまい、だいたいの感覚で頂上を目指すしかない。
獲物を狩るための罠。
そこへ誘導する技術。
決して、今までの訓練で得た躰の動かし方とは違う、状況は当然として、場を動かすやり方を、デディは覚えなくてはならない。それを知らなかったから、警戒の仕方が甘くなったのが現実だ。
あるはずがないと思い込むような罠――そして、罠に気付かせる罠。
心理の裏を搔き、裏を読むようになったら表で引っ掛ける。疑心を抱いた瞬間に、誘導を混ぜて、今度はわかっている罠におびき寄せる。
必要なのはまず、地形の把握速度と、状況の想定範囲。仕掛けられるのならば、それは回避できることにも通じるのは、今までさんざん殴られて覚えた。返し技など、覚えて当然。相手が同じことをしてきた時の対処と同じ。
――何より。
一撃で仕留めるという意志だ。
それが、生き残るためなんて大前提のためだなんて。
そんな当たり前の思考すら欠落するほど、今のデディは、ぬるま湯に浸かっていたのだ。
恨みはない。怒りはあった――けれど。
――いつも通り、そう言った鷺花の台詞で吹き飛んだ。残ったのは悔しさだ。
ファゼットは普段と同じことをしただけ。それに適応できなかったのはデディ自身。であるのならば、忸怩を向けるのは己だ。
「――クソッタレ」
拳を木に叩きつけ、大きく息を吸って。
「クソッタレ!」
情けないと、己に言い聞かせる。鷺花の戦闘訓練を経て、多少は成長したと思っていたのにこのザマだ。
――ならば。
どうする?
「決まってるだろ」
今からまた、成長するしかない。
小屋が見えた時点で、腰裏の拳銃を引き抜く。結局、六時間で五発しか撃てなかった事実を噛みしめながら、周囲を見渡してから走って小屋に近づき、背中を預けた。
大きな小屋ではない。そもそも、食料やキャンプ用のテントなど備蓄しかなく、寝泊まりはできない。
心音が跳ね上がる、うるさい。
右手に拳銃、左手をそっと扉に当て、一気に回してから中へ。誰もいないことを確認しながら、開いた扉側――外を警戒。
鷺花が何かを仕掛けている様子はないと思う。だが、思っても、ごくりと唾液を飲んだデディは、拳銃を握ったまま備品を放り捨てるよう外へ出す。缶詰などを予想していたが、生鮮食料などもあった。鷺花の配慮だろう。
外に出て扉を閉め、大きく深呼吸をしてから、腰に拳銃を戻した。
どうすればいい?
考える。ファゼットならばどうする? 否、どこからの襲撃を考える?
ここは、安全な場所か?
「……」
違う。
思い出せ、ファゼットの部屋の簡素さを。〝自室〟なんてものは不要と、そんな体現をしていた場を。
――それは、どこでも同じだという、証左のはず。
安全な場所などない。
今から、作るしかないのだ。
※
下山して警備隊の詰所を過ぎたところで待っていたのは、久しぶりに顔を見るエレット・コレニアであった。珍しく侍女服を着ていなかったので足を止めたが、先に歩き出したのでついて行く。
「ご苦労じゃったな、ファゼ」
「ああ、まったくだ」
「む? 疲れておるのか?」
「疲労よりもむしろ、俺のアドバンテージが一つ失われたってことがな」
経験に勝るものはなし、とは言え、生き残るために殺すこと――外の生活で培われた思考は、今までのデディにはなかったものだ。けれど、前向きに学習して身に着けることなど想像に容易い。
「戦術そのものが多様化して、平面から立体の意識が強くなる。何よりもこいつが厄介だ」
「お主の把握能力も随分と向上して、娘たちが頭を抱えてはおるがのう」
「そうなのか? 俺としちゃ、後ろばかり気にしてるから、そっちはよくわからん」
「成長を実感しておらんのか」
「鷺城は常に、俺らの前にいる」
であればこそ、底が知れない。遠くに、見えないほど遠くにあるのならば、実力差を痛感できる。けれど、どれほど成長しようとも、数歩前に彼女はいるのだ。
「夜間の追い込み――じゃったな」
「本気でやった。もっとも、かつても今も、俺は獲物で遊ぶ趣味はない」
「どうした」
「もう一人のデディが横にいると想定して、そいつを殺し続けた。五十五点だと」
「鷺花が? ――随分と高い評価じゃのう」
「残り四十五点は、鷺城に追い立てられろってか? 冗談じゃねえよ」
「その場合、知ることができるのはなんじゃ」
「俺一人でやれることの限界ってやつ」
「ははは、わかっておるのならば必要あるまい」
「……俺みたいなのは、俺だけで良いと思ってたんだけどな」
「なんじゃ、藤崎が経験したことに否定的じゃったのか」
「俺の勝手な意見だってのは承知してるさ。加えて、必要なのもわかってる――少なくとも、外に出るのならな」
「うむ、まあその話も少し、しておこうと思ってのう。まずは飯じゃ、構わんな?」
「おう、どこよ」
「場末の酒場じゃ」
「エルギ兄んとこか。兄さんの顔を見るのも久しぶりだ、いいね。徹夜明けにはちょうどいい」
エレットの顔を見てから、眠気が出てきている。身内を見た時の安心が原因だが、それを表に出すほどでもない。デディとは違って空腹はそれほど感じていないのが、まだ良い方か。
基本的には、デディが休もうとする時に襲撃し、その後が一番簡単に休める時間になる。特に敗走時というのは、追撃をかけない側は実に楽だ。
まだ早朝の時間に近いが、街の出入り口――外に近い場所は既に活気がある。何故なら冒険者が集まるこの区域には、そもそも、時間が関係ないからだ。夜間行軍は危険だと言われているが、彼らにとっては必要なスキル。帰還のタイミングだとて、ばらばらだ。それどころか、外で得た食料などを売る際は、早ければ早いほど良いということもある。
その一角にある広い酒場――というか、軽食屋に顔を見せた二人だが、中には三人二組の客しかおらず、空いているテーブルに腰かけ、軽食を注文した。
「おごりじゃ」
「喜べってか? お袋の場合、俺に支払いを求めたことねえだろ。あんまり甘やかすな」
「ではお主、リリと一緒に食事をする際、支払いはどうする?」
「忘れてくれ。すげー嬉しい、ありがとうお袋」
「ははは、撤回が早いのう」
冒険者が集まる店なので、食事もすぐに出てくる。運んできたウエイターは、白髪が混じった初老の男だ。
「お待たせしました」
「エルギ兄、おはよ。久しぶり」
「馴染んでおるのう……」
「おはよう、ファゼ。噂はいろいろ聞いているぜ。あとエレ、お前はファゼを甘やかし過ぎだ。かわるがわる、毎日のように妹たちが愚痴を言いに来る」
「慕われておる証左じゃ」
「俺のな。ま、ゆっくりしてけ」
「おう――ああ、気付かれた」
実は入店した際にわかってはいたが、隠していなかったのですぐに発覚する。
その男は、断りを入れて席を立つと、こちらに来る。知っている顔だ――何しろ、ファゼットが助けた男だったから。
「藤崎――」
「訂正を入れてやる。俺はエミリーだ。藤崎デディは、まあ、仲間だな。情報は仕入れてるはずだし、わかるだろ」
「――ああ、そうだったのか。いや、まずは、すまないと言うべきか。相方がもうすぐ完治するから、挨拶はその時にと思っていたんだが」
「いいさ、こっちは慈善事業だ、見返りなんぞ求めちゃいねえ。何故学生がと、そんな疑問は口にするな。説明が面倒だし、女を口説く文句の方が饒舌になる」
「はは、そうか」
「あんたは、続けるのか?」
「あんな目に遭ったのに? ――当然だ。それが俺にとっての生き方で、仕事だ」
「だろうよクソッタレ。〝次〟の時に俺はいねえ、わかったんなら回れ右だ。挨拶もいらねえよ。それとも何か質問が?」
「――いいや。鷺城室に手を出すな、その言葉通り俺らは何もしないさ。邪魔したなエミリー」
「その言葉、はやってんのか?」
「知らないヤツはただの〝間抜け〟さ」
「知ってる馬鹿は?」
「少しだけマシな間抜けさ。やあコレニアさん、邪魔をしました。ここの料金は俺の持ちで?」
「その金は復帰する彼女へのプレゼントで使うんじゃろ」
「――違いない。では失礼します」
頭を下げて下がる彼から視線を外し、パンに手を伸ばそうとすれば、いつの間にかファゼットの皿のパンが増えている。食べられないから押し付けるのはわかるが、一言あっても良いと思う。
まあいいかと、食事を開始した。
「……外に、行くそうじゃな」
「まだ半年後の話だろ。仮に現状の判断だとして、俺にできる仕事は?」
「若手の教育」
「八割壊しても良いって証文を用意しておいてくれ」
「二割は教育できるか?」
「俺が二割ほど成長はできるだろうな」
スクランブルエッグにフォークを刺したエレットが、吐息を一つ。
「お主、鷺花に影響を受け過ぎじゃ」
「鷺城に教育を受けてる俺が、誰かに教えるなんてお笑い種だぜ」
「可能性は残してある――鷺花はそう言っておったが?」
「選ぶのは自由? 俺が
「……儂の心配をしておるのか」
「心配はしてねえよ。だが、俺は以前言ったよな――あんたのために生きたいと」
「その時の返事を覚えているか」
「必要ない。自分のために生きろ」
「そうじゃ。そして、今も儂は意見を変えん」
「俺もだ」
しばらく、無言で食事の時間が過ぎた。パンを終え、スープを飲んで、テーブルは片付けられて――食後の珈琲がやってきて。
「だが」
そこでようやく、ファゼットは。
「この前、外に出て思い出したこともある」
「なんじゃ」
「――〝
珈琲を置いて、エレットは足を組む。ああ腕も組んだのか――ウエイターの仕事を放棄したエルギが、彼女の背後に仕えた。
酒場の中に静寂が落ちる。
殺意ではない。ないが、ある種の威圧でもある。
エレット・コレニア――二百人の侍女や執事を従える、
一言。
その間違えが、ファゼットの命を奪う。
「俺を拾ったクソ野郎に、一発入れ忘れてる。それが俺の理由だ」
「どこにいるかもわからん相手を探して来る――そう言うのじゃな」
「違う」
かつては、この雰囲気が苦手だった。冷徹な判断を下す、組織の主としての顔を前にすれば、緊張で口が乾き、いつだってごくりと唾液を飲み込んでいた。
けれど今はどうだ。
少なくとも怖さは感じなくなった。
「探して殴る。――俺は戻れない」
「……」
視線が合えば、空気が更に緊迫する。冒険者たちもこちらを見ながら、何一つできていない。
返事は。
「――許さん」
短く、強かった。
「ファゼ、帰ると言え」
「……」
「言え」
「――、……生きている限り、戻ろうと努力する」
「ファゼ」
「帰りたい。言うのは自由だ、思うのも」
「現実は違う? 当然だ、意志が伴わなければ」
「いいのか」
「言え」
「……」
「言えファゼ」
「帰ってくる。――いつか、必ず」
「誓うか」
「いつも、俺はそうしている。違うか?」
にらみ合うような時間が続き、やがてそれも、ふっと消えた。その合図になったのが、緊張から解かれた吐息だ。
酒場に居る、当事者以外、全員の吐息。
「かつて言ったじゃろ。儂は、家族を手放すほど冷たくはないと。基本的には過保護じゃ」
「知ってるよクソッタレ」
「なんじゃ、試されたことに怒っているのか?」
「わかりきった返答を強要するなんてのは、お袋が好むところだろ。そして、俺は嘘を吐かない」
「わかっておるわ」
「明日まで屋敷には戻らない。部屋を用意しておいてくれ」
「まったく……」
可愛くなくなったのう、なんて、馴染の台詞をまた言われた。それこそが鷺花の教育の成果である。
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