第36話

「それじゃあ誤解も解けたことだし、その椅子を使うとするか。時間も丁度いいしな」

 暗示したのは夕食のことだろう。松原は彼に釣られて時計を見やり、その針が示すものに気付くと、慌てて立ち上がった。

「あ! それなら私が作るわ」

「客人に働かせるわけにはいかないだろ?」

「いいのよ。それに……お客さんってだけじゃない方が、嬉しいから」

 言葉の意味は通じただろうかと、松原はほんの僅かにだが心配した。さらには通じたところでどう返されるのか、と。しかし不安はそれ以上には大きくならず、直樹は一瞬の間だけきょとんとしてから、困ったやつだとでも言うように肩をすくめ、キッチンへ入ることを許可してくれた。ただし同時に、不安を”解消”させることにもならなかったが。

 松原はひとまずそれを受け入れるのみに留め、「ありがとう!」と喜ばしく感謝を告げて、早くも食卓に着く直樹の横を通り抜けていった。

 すると、彼の声が背中を追いかけてくる。

「使い方のわからない器具は――まあ、ないだろうな。包丁やフライパンは下の棚、調味料は後ろのカゴだ。他に必要なものがあれば聞いてくれ。食材は冷蔵庫の中にあるものを好きに使っていいぞ」

「大丈夫なの?」

「冷蔵庫を空にするんでもなけりゃ構わんさ。今から買いに行くのも面倒だろ?」

「わかったわ。それじゃあ遠慮なく漁ってみるわね」

「ちなみに言っておくが、そこをどんなに漁ってもエロ本は見つからんぞ」

「そんなの期待してないわよ!?」

 からかわれて、松原は口を尖らせながら、エプロンを探し出して身に着けた。元々それほど念入りな服装をしていたわけではなく、春先の女子大生めいたものでしかないが、エプロンを身に着けるという行為がなによりも重要だと思えた。

 そうしてから冷蔵庫を開け、中を探ると、卵や出来合いの惣菜、アルコールを筆頭とした飲み物の他に、とりわけ冷凍庫の方には、流石に豪胆な男性とでも言うべきか、まさしくそれを強く象徴するように、いくつもの肉の塊が押し込められていた。袋詰めしており、それぞれ牛や豚、あるいは鶏などの種類別に整然と区画を分けられている辺りは、几帳面さも窺わせる。

 肉はそれぞれにかなり濃い赤みを持つものから、反対に色味の薄いもの、あるいは鮮やかなピンクや朱色に見えるものと個性に富み、冷凍だが新鮮さを感じさせた。一部には血の滴っていたものもあるようだったが、それは仕方がないのだろう。いずれにせよ冷凍された肉の塊たちは、表面にいくらかの氷を纏い、自らがその地獄めいた監獄から解放される時を今や遅しと待ち侘びているようでもあった。取り分けブロック肉はその主張が激しく、血を垂らしていたものその肉である。ステーキ用だろうか、三等分されているが大振りで、分厚い。縁を彩る白い脂身はナイフの刃のようでもあり、まだらな赤身はその返り血とでも言うべきだろうか。

 氷点下の世界で呆然と伏すそれに、松原はふと無感情に触れてやった。当然だが硬いものの、同時に柔らかさを想像させるものでもある。松原はその感触をしばし指先で味わって、しかしあまりにも強く押し込み、ほとんど爪を食い込ませ、自らの指をねじ込もうとするほどになっていると気付き、慌てて手を引いた。

 結局、松原は全く無関係なバラ肉といくつかの野菜を取り、料理を始めることになった。

「お前って、料理が得意なのか?」

 カウンター越しに、何気ない様子で直樹が尋ねてくる。松原は包丁を用意しているところだった。照れながら、謙遜の調子で言う。

「わざわざ得意って言うほどじゃないわよ。でもまあ……ひとり暮らしだから、それなりにはできるつもりよ」

「へえ。自分から料理させろなんて言い出すくらいだから、てっきり今までの『元彼』も料理で落としてきたのかと思ったんだけどな」

「……!」

 瞬間、松原はほんの僅かにだけだが硬直した。まな板の上に野菜を寝転がせようとする手が止まり、息を呑む音が聞こえたかもしれないと心配する必要があった。もっともそれは杞憂に違いなく、松原はすぐに正気を取り戻すと、慌てて答える。

「べ、別にいいじゃない、そういう話は」

「俺はつい聞きたくなるんだけどな、『元彼』の話ってのをさ」

 料理に集中しようとする視線によって、直樹の方を向くことはできなかったが、彼の声は明らかにニヤニヤとしていて、意地悪そうなものだった。彼にしてみれば、それはちょっとした冗談や、悪戯心のようなものかもしれない。しかし松原はその言葉が強調させるたび、びくりと心底が震え、息苦しさを覚えていた。

 直樹の方を向くことはできなかった。彼はその心中に気付いているのかどうかもわからない。ただ、全てを見透かされている気がしてしまうのが、それはひょっとすれば彼が常に纏っているある種の迫力のせいかもしれない。

 松原は、今度は答えることができなかった。あえて口を閉ざし、料理に熱中する振りをしてやり過ごすのが精一杯で、それを直樹が許可してくれるのを祈るばかりだった。

 だから彼が再び「なあ」と短くでも話しかけてきた時、松原はトマトに包丁の刃を触れさせた格好で、今度こそぴたりと硬直してしまうほどだった。

「今から作るのは夕飯だよな? メニューはなんなんだ?」

「え? えぇと、豚肉とトマトの炒め物を作ろうと思って……」

「創作か?」

「ううん。この前、ちょっと見たのよ。それが美味しそうだったから」

「ここで実験してみようってことか」

「そ、そんなんじゃないってば!」

 赤面して言い返しながら、けれど松原は安堵していた。直樹の振ってきた話題は紛れもなく今までのものとは無関係な他愛ない話で、首を絞められるか、あるいは眼前にナイフを突き付けられるような恐怖を味わわなくても済んだのである。

 ふたりで小さく笑い合うと、松原は一度ゆっくりと息を吐いてから頬の力を抜き、改めて料理を再開することができた。

 直樹が普段から愛用しているのだろう、柄の部分まで銀色をした包丁は、極めて切れ味鋭いもので、今のところどのような野菜を切るのにも苦労する必要がなかった。通信販売などによって切り辛い野菜の代表格とされたトマトも、特に意識することなく切断できる。刃の先端を使ってヘタを抉り抜くと、中央から縦に真っ直ぐ両断する。力も技術も必要なく、皮ごと二つに分かれた身を、さらに半分に切っていく。くし切りにされると、身は皮以上の鮮やかな赤色を晒しながら、種を擁するどろりとした液体めいたゼリーを垂らし、刃やまな板を汚すのだった。

 松原はそれを無感情に見下ろしながら、もう一度ずつ刃を落とすことによってさらに小さく分けていった。気味の悪い柔らかさを持つゼリー部分も含め、包丁は紛れもなく切り裂いて、松原の望むままの大きさに変えていく。そうして、やがてまな板の上は細切れにされた赤い果肉が敷き詰められ、ボウルに押し込まれる際には、いくつかが潰れ、無残にも形を変えたかもしれないが、松原はそれを気にすることもなかった。

「どれくらいで完成するんだ?」

「え? あぁ、そうね……あと二十分もあれば大丈夫よ」

 問いかけられて、ハッと顔を上げて答える。カウンター越しに直樹の顔を見たのは、その時が初めてだったかもしれないが、彼はそのどうということもない質問の時ですら、奇妙な迫力を持つ薄ら笑いを浮かべていた。

 料理は松原の言った通りの時間で完成し、その頃には早くも空は夕刻から夕闇、あるいは夜に変化しており、カーテンが閉められた代わりに照明が点けられることになった。そうして松原の想像通りの美しい明かりの下、ふたりは夕食を済ませた。

 ただ、味については概ね好評だったものの、直樹はそれによって「これなら確かに、”元彼”も満足しただろうな」再び話題を蒸し返し、松原はどうにかして話を逸らすことに熱心になった。

 直樹はその反応を愉しんでいる様子だったが、向かい合った状態では冗談めかしているというよりも、もっと深い、なんらかの思惑があるように感じられてしまい……松原は後ろめたい不安を抱えなければならなかった。

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