第35話

 直樹という名前らしいことを、松原は彼と共に入った喫茶店の中で、少しの間だけ迫力ある詰問を受けた後に聞かれた。

 松原が思い当たっていた人物は、直樹の探していた相手とは別人だったらしいが、彼をそのことについて多少の落胆こそ見せたものの、さほど気にした様子もなかった。それよりも、ああいった出会いをしたにも関わらず友好的な姿勢を見せてきた松原に対し、興味を持ったらしい。彼は自分の行いに謝罪するわけではなかったが、「走って追いかけてきたってことは、怪我はしていなかったってことか」とぶっきらぼうに確認することはした。

 そうやって直樹が、目的の情報を得られないとわかってもすぐさま立ち去ろうとしなかったため、松原はさらに積極的に彼の話を聞こうとした。ただ、最初に尋ねる内容については思案しなければならなかったが、それは話の取っ掛かりについて最も簡単なものが職業の話だったからに他ならない。松原はそれを尋ねてよいものか、あるいはさらに悟という人物を探している理由についても、場合によっては職業の話に関連してしまう可能性があると考え、躊躇したのである。

 しかし意外なことにと言うべきか、逡巡してまだ何も尋ねていない松原に対し、直樹は自主的に答えてきたのだった。松原の心中を見透かし、あるいはそういった戸惑いや躊躇いを受けるのに慣れているのだろう。彼は皮肉げに口の端を吊り上げて苦笑のように見せながら、真っ先に自分がなんらかの危険な稼業を行っているわけではないことを明かした。

 そして人探しは単に、その相手が直樹のバイクを――しばらく乗っていなかったとはいえ――無断で借り、それをいつまでも返却しないために、直接出向いて話をつけようと思っただけのことらしい。粗野な言動だったのは生来の性質であると同時に、そうした怒りが加わっていたためのようだった。

 松原はその話によって誤解を解けさせ、安心して直樹と話ができるようになった。そして打ち解けてみれば彼は迫力ある部分こそ確かに存在するものの、最初の印象などより遥かに気さくで好意的だった。もっとも彼自身、意図してそうした恐ろしさを演出している部分があったようだが、それもわかってしまえば彼なりの茶目っ気に他ならないと感じられたほどである。

 実際、直樹はぶっきらぼうでこそあるものの、珍妙な冗談や機知に富んだ話し口で、松原を大いに笑わせてきた。加えて時にはロマンチストに、自分は時空を超えた存在で、松原に会うためにこの時代に戻ってきたとまで口にするほどで、それによって松原は表層では可笑しな冗談だと笑いながら、心中では妙に心騒がせられるものを感じたのだった。

 そしてその心底が脈打つような感情が好意、さらには情愛めいたものに違いないと自覚したのは、その後も彼と頻繁に落ち合うようになった頃だった。

 もっともそれはまだ出会ってからほんのひと月か、ふた月か、その程度のものだっただろう。しかし松原はその間に、直樹とふたりで様々な場所へ赴いた。一般的なものとしてテーマパークやアクアリウムの類、あるいは買い物を楽しんだり、景色を見て歩いたり、松原が元々サークルに所属するほどテニス好きだったため観戦に行くこともあり、親密の度合いを深めていった。

 それと同時に、松原は直樹についていくつかの話を聞くことができた。彼は医学者――正確を期するならば医学研究者であり、取り分け精神医学の研究をしているらしく、やはり少なからず最初の印象とは異なる聡明で穏健な人物であることは明白で、松原はなおさら彼に対して心を氷解させていった。

 そうするうちにさらに時間が過ぎ、そしてさらに親密になると、直樹の家へ出向いて手料理を振舞うほどにもなっていた。

 直樹は松原の住むアパートからは少し離れた、繁華街を見下ろすマンションの一室を借りており、ひとり暮らしにしては広々とした、裕福そうな部屋を見せてきた。

 灰色の外観とは裏腹に、中は清潔感のある白い壁紙が目立った。縦長の部屋らしく、玄関から真っ直ぐに廊下が伸びている。手前から、左右には二つの部屋があり、一方が和室、もう一方が洋室となっているらしい。その奥にはさらにもう一つの部屋と、トイレや脱衣所などの小さな扉が見えた。廊下を進んだ最奥にあるのはリビング・ダイニングであり、キッチンも併設されている。食卓はそこにぴったり隣接されていて、部屋の奥にソファーとローテーブルが置かれていた。

 案内されたのはそのソファーの方で、直樹は黒いスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら、「狭いことには文句言うんじゃねえぞ」と冗談めかしてお茶を出してくれた。実際それほど広いわけではないが、狭いとも思えない部屋である。少なくとも、彼ひとりでは持て余すのではないかと思えたが。

 松原は部屋を褒めながら、改めて内装を見回した。小物の類はほとんどなく、家具の類も最低限といった具合で、一応はソファーの正面にテレビが置いてあるだけである。

薄く白いカーテンの掛けられた、壁一面とも思う掃き出し窓からは、夕刻の日差しが惜しげもなく入り込み、部屋を明るく照らしている。部屋は九階にあるため、ベランダに出れば町をかなりの範囲で見下ろすことができるようだった。

 探せば極小さな、時折苛立った時などに靴の爪先を捻らせてすり潰される運命にある蟻や小虫のような、矮小な存在に見えるべき自分の勤める会社が見つかるのではないかと思ったが、そんなことに時間をかけるのも惜しく、また心惹かれる直樹の部屋へと目を直した。高い天井にはシャンデリアとまでは言わないが、装飾の施された照明具があり、間もなく迎える夜の時間には美しい光を発するだろう。

 しかしそんな時、松原はふとあるものを発見し、首を傾げた。キッチンに隣接した食卓で、椅子が二つ向かい合っているのだ。直樹はひとり暮らしだと言っており、さらに実のところ彼は、部屋には自分以外の誰も客人として入ったことがないと言い、松原が特別な存在であることを仄めかしていたのだが。

 真っ先に松原の頭に浮かんだのは、直樹に別の、明かされていない女がいるのではないか、ということだった。もっとも、松原は直樹と正式な交際をしているわけではなく、松原がそれを積極的に要求しながらも彼の方がそれを拒んでいた、ということなどないのだが……それでも別の女の存在をあえて隠すというのであれば、そこにはなんらかの後ろ暗いものがあるのではないかと思えてならなかった。

 ただ、松原はあえてそれを指摘しなかった。しかしそれは直樹に対する信頼だとか、彼をなんらかの罠に落とそうというのではなく、松原自身にも、とある”後ろめたさ”があったためなのだが――

「これはお前が来るから用意したものだ。いくつかある予備の一つを引っ張り出してきただけ、とも言うけどな」

 松原の視線を見破り、心中を察したのか、直樹は面白がるような皮肉っぽい笑みを浮かべて言ってきた。おかげで松原は見透かされた恥ずかしさと、失礼な誤解を抱いてしまった申し訳なさに加え、彼を信じられなかった自分への叱咤とに言葉を失い、赤面することになったが、直樹はその姿に愉快そうな笑い声を上げてくれた。

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