六章

第34話

■6

 松原が彼と出会ったのは、北信州大学の学園祭でのことだった。

 いい思い出の多くない母校である。できれば近寄りたくもない場所ではあったが、そこへ行くよう薦められたと言うべきか、強制されたと言うべきか、ともかく松原は嫌がりながらもひとりで母校を訪れなければならなかった。

 しかし実際に訪れてみても、やはり気が進まないのは変わりない。自分が通っていた頃と同じ、伝統という名のただ古ぼけた入場門の飾りを見上げながら、松原はそれをくぐるべきかどうか悩み、門の傍らで不審に前進と後退を繰り返すほどだった。

 まさしくその時が出会いである。最初の印象は全く良くなかった。どころか松原は恐怖すら感じたかもしれない。なにしろ後ろから払い除けられたのだ。

 キャンパスを囲う塀に叩き付けられ、松原は痛みと驚きとに短い悲鳴を上げた。周囲にいた学園祭目当ての客やそれを案内する学生、あるいは単なる通行人などが一瞬ざわめくのを、松原は自分の声の中に聞いた気がする。

 ただそれがすぐに収まったのは、払い除けた張本人が松原のもとに歩み寄り、手を引いて立たせたためだ。その時に、松原は相手の顔を見た。

 短く切り揃えた金茶色の髪――染めたものだろうか――に、刃物を連想させる鋭さを持った双眸、加えてそれらを全て取りまとめ、総括するような厳つい輪郭である。体格もそれに見合うもので、松原よりは頭一つ以上は大きかった。黒く長い髪を束ね、幼い顔立ちをした松原とは、あらゆる意味で対極と言えたかもしれない。

 そしてなにより、周囲がざわめいたのはひょっとすれば、彼が行った暴力的な行いに対してではなく、彼自身を見てしまったためかもしれないと思えたのだが、それは彼がややよれた感のある黒いスーツを着込み、胸ポケットにサングラスを差していたからに他ならなかった。ざわめきが一瞬だけだったのも同様の理由であり、今は誰しもが彼と目を合わさず、足早にキャンパス内へ逃げ込もうとしているように思えた。

 松原も一目見た時だけは、それらと同じ感情だっただろう。しかしなぜか同時に、奇妙に惹かれるものがあった。

 彼は松原が無事であることを見て取ると、小さくだが腹の奥に響くような重低音で「人の邪魔をする時は自分の頑丈さを考えろ」と吐き捨てて背を向けた。

 それに対して松原は黙って頷くしかなかったが、そのうちに急速に恐怖が薄れ、興味を抱くようになっているのを自覚した。全く不可解に、彼がなんらかの催眠術でも使ったのか、あるいは全く別の誰かが操り人形のように自分の感情までをも支配しているのか、いずれにせよ松原は咄嗟に彼を追いかけなければならなかった。

 彼はどうやら学園祭の門をくぐっていったようだが、行事を楽しむのではなく、この大学に関する誰かに対してなんらかの別の用事があったらしい。手近な学生を捕まえては「悟という名前の男がいないか」と聞き、学生が怯えながら知らないと答えるとまた別の学生を捕まえる、という作業を繰り返していた。そしてやがて警備員が現れると、舌打ちしてキャンパスを後にする。

 松原はその一連を見守り、門をくぐって通りへと出た彼を追いかけ――

 やはり何者かに操られているのかと思うほど、自分でも驚くようなスムーズさで男の手を取り、声をかけていた。

「あの! 私……その名前に覚えがあるんですけど」

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