第33話
やはり沙織ではダメなのだと、健吾は強く理解した。
松原でなければいけない。彼女でなければ自分は癒されないのだと、元の彼女の電話によって、それがますますもって強く意識させられるのだ。そして怒りと苛立ちのままに、健吾は沙織の連絡先を消去することにした。
ただ……それを確定させる瞬間のことである。
健吾は不意に指が震え、強い嘔吐感が込み上げ、一瞬だけ平衡感覚を失うような不快感に襲われ、自分が恐るべき冒涜的な禁忌を犯そうとしているような、暗澹たる不安や恐怖に苛まれた。
沙織と話す直前のようにまた視界が揺さぶられ、直後にはベッドやタンスなどの家具が、さらには狭い寝室自体が大きく歪み、全ての角度という角度が変化、異常化し、何一つとっても平行にならず、さらには見るたびにそれを変化させるような、全く未知の、別次元の恐怖を暗示するような幾何学的な角度の群れとなって健吾に襲い掛かってきた。色彩も同様に狂い回り、白かったはずの壁紙はエメラルドを悪意的に変色させたような緑青色となり、樹脂の貼られた扉は滴る血を思わせる赤錆色となり、フローリングの床は白骨の悪臭を想像させる恐るべき白黄色へと変貌した。窓には時間を逆行、あるいは跳躍したような、見たこともない様々な風景が次々と映り込み、時間の感覚をも狂わせられたのだった。
健吾は喫驚して、思わず携帯電話を手放したが、その瞬間、全ての変化は幻覚であったことを示すようにすぐさま消失し、元の静寂とした照明も点けていない寝室へと戻った。
それは全く混乱させられる、驚くべき一瞬の変貌であり、健吾は暗い室内で目を丸くしたまま額を拭ったが、そこには冷や汗もなく、どころか血の通わぬ死者を連想させるほどに凍て付いていた。
理解を超えた不可解な現象に、健吾は少しでも現実の存在を感じたいと思ったのかもしれず、そのために恐る恐る、漠然と部屋の中央を見据えたまま、ベッドの上に放られた携帯電話に手を伸ばした。
そして改めて、中断されていた連絡先の消去を行おうとすると、今度はなんらの変化も生じることがなく、部屋はただ部屋のままとして、静かな黒さを湛えていた。実行しようとする直前にも、部屋の角度が歪んで恐るべき圧迫感を生み出すことはないし、恐怖に渇いた口が異議を唱えることも、震える指がその実行を止めようとすることもなく、それが真に行われる瞬間を見つめていたのである。
そうして健吾はほんの短い、たった一度ボタンを押すだけという重労働を終えると、途方もない疲労感を覚え、ベッドに倒れ込んだ。健吾は急速に襲い来る睡魔の中、閉じかけの視界の端に立つ白衣の裾を見た気がしたが……
彼が全てをやり遂げたような勝ち誇る顔をし、消え去るところまでは、見届けることができなかった。
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