第32話
健吾はその後、松原の通っているはずの高校を訪ねたが、彼女を見つけ出すことはできなかった。学校自体からは「個人情報を教えることはできない」と言われたのは、当然のことと言えるだろう。
しかしそうした中で不可解だったのは、手当たり次第に同学年の生徒に聞いて回っても、松原という名前に思い当たる者が誰ひとりとして存在しなかったことだ。テニス部の生徒を見つけ出し、詳しく話を聞いたとしても、彼女のことは全く知らないようだったし、ましてそれは単純に退部したということではなく、一年前であれ二年前であれ所属していた記録がないという事実だったのだ。
それは彼女のなんらかの嘘を示す証拠なのか、あるいはもっと別種の恐るべき事実を暗示しているのか。健吾にはわからなかったが、いずれにせよそうした不可解な事実に直面してもなお、健吾は不気味がるどころか、彼女に再会した時の会話の種や、彼女の支えとなる手がかりを一つ手に入れたという程度にしか思わなかった。それほどまでに、健吾は松原との再会を熱望していたのである。
例えその先に何があるわけでもないだろうとわかっていても、あるいは再会したところで落胆させられるだけだろうと推測できたとしても、健吾にとっては残された希望として、すがり付きたい存在だった。罠に落とされ、突然に支えを失ってから、松原と過ごした日々が思い出され、その甘美な幻想が麻薬的に健吾の頭を支配していたのだ。
そのため、健吾のもとにそうした支えを失わせた張本人、罠にかけた憎むべき恋人から不意に連絡が入った時には、全く当惑したものだった。
それは休日の夜であり、その日も松原に関するなんらかの手がかりを見つけ出せないかと走り回り、しかし結局は成果なく、家のベッドに座り込んだ時のことだ。もはや諦めるべきか、それとも……と考えている最中で、健吾は携帯電話に表示された名前に喫驚し、一瞬には眩暈のように視界が大きく揺さぶられ、深淵から湧き上がる黒々とした触腕のような、おぞましい怪物を見たようにすら感じたほどである。
恐る恐る通話すると、紛れもなく声の主は沙織だった。
しかし奇怪なことに彼女の声音は焦燥というか、狂気とした熱を持っており、吐き出される荒く深い息の雑音によって、電話口からでも彼女のおぞましく見開かれた目や、凄絶に歪んだ口元が見えてくるようだった。
そして彼女は、その異様な迫力を含んだ調子で、あろうことか「和久井のことを知っているか」と聞いてきたのである。
以前と全く立場を入れ替えたような問いに、健吾はしばし言葉を失った。
彼女が何を思い、どうしてそのようなことを、まして自分に聞いてきたのか理解しがたく、混乱すると同時に怒りを覚える。健吾はその感情を隠すことができなかったし、そうする必要も感じなかった。
「どうして俺に聞く? 何を考えているんだ、お前は」
「いいから答えて! 知ってるんでしょう……知ってるはずなのよ!」
耳鳴りを起こされるほどの音声で、彼女は健吾以上の苛立ちを含んで怒鳴りつけてきた。健吾は思わず電話口から耳を少し離してしまったほどで、当初はまともに取り合わず、それよりも勢いに任せて彼女になんらかの苦情を申し付けたり、別の会話へと入り込もうとしていたのだが、そうすることが得策でないことを悟った。
正直に、そして彼女の望む答えを返さなければならない気がして、健吾は自由にならない激しい憤りを抱きながらも首肯した。
「……当たり前だ。なんのつもりだ、何が言いたいんだ」
しかしそう返した時、それもまた全く正しいことではなかったと理解した。彼女は答えを聞くと、一瞬の静寂の間を置いて、唐突に笑い始めたのだ。嘲るものではなく、微笑むものでも、可笑しな話を聞かされたというものでもなく、昂ぶりの頂点を極めた快楽のような、人間外を思わせる凄絶な大笑だった。あるいはその場で転げ回っているのではないかと思うほど雑音混じりに、彼女は笑いながら何かを叫び散らしていたのである。
「やっぱり、いたのよね! 間違いなくいた、彼は存在していた、私は間違っていない! 彼はきっと今もどこかにいるのよ!」
「なんだ? どうしたんだ、沙織。何があったんだ」
「私は間違っていない。彼は私を救ってくれる。どこかで私を待っていてくれる!」
健吾は憤懣を抱きながらも、同時に明らかに異常な沙織の身を案じたが、彼女は全く聞いた様子もなかった。
聞こえてくる呪詛のような叫びも、健吾に向けたものではないのだろう。
事実、彼女はすぐに電話を切ると、やはりそれきり連絡は取れなくなってしまった。
いずれにせよ――彼女の頭に、もはや和久井のことしかないというのは明白だった。ひょっとすれば彼女は、健吾とどのような間柄であるのかすら、もはや理解できなくなっていたかもしれない。でなければあのような態度は取らないに違いない。
そして健吾もまた、そんな彼女に対して人間的な同情や、人の崩壊を間近に見た心配こそあれ、己の精神を満たしてくれると思える安堵感を抱くことはなかった。
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