第31話

 幸福と失望を往復する日々は、それほど長く続いたわけではなかった。健吾が沙織の連絡を未だ諦めていないうちに、その変化は訪れたのである。

 季節が夏に移り変わっているということを強調するような、煩わしい朝のことだ。健吾は松原がまだ寝息を立てているうちに自宅を出て、会社へ向かった。

 沙織と連絡が取れなくなってから、半月も経っていないだろう。しかし彼女に連絡を試みる定期的な活動は続けていたし、実を結ばないのも変わっていない。彼女の住まいに足を運んでみたこともあったが、既に引っ越していることがわかり、その断絶はある種決定的なものになっていたのだ。

 それは破局と同義とも言えたかもしれない。しかしそれでも健吾がまだ完全には未練を断ち切れずにいたのは、自分自身でも不可解だとは感じていた。無理矢理に多少なりとも合理的な考えによってそれを解釈するなら、ハッキリと別れ話をしておきたいというものか、奪われたという意識が生み出す口惜しさや、独占欲の類といった辺りだろう。

 ただ、健吾の奥底にはもっと違う、想像力のたくましい奔放な夢想家、あるいは極端に自意識過剰で一種の選民思想を持つ者が陥るような、非合理的な抑止力が働いていたのである。つまりは、ここで彼女と別れることがなんらかの大きな過ちを生み出してしまう、というものだった。

 いずれにせよ、健吾はそうした思索の苦悶に苛まれ、加えて抜け切れていない疲労によって歩を遅くしながら、結局は他の者たちよりも遅れる形でようやく会社に辿り着いた。

 しかしそうして陰鬱な気持ちを引きずりながら自らの属する課のオフィスへ入ると、奇妙というか、不可解な現象が起きた。既に出社していた十名ほどの同僚が、一斉にこちらを向いたのだ。

 健吾はそれに気付いて不可解そうな視線を返すが、彼らは誰しも、それが自分へ向けられる前にさっと目を逸らし、通過した後にはまたこそこそと見つめてくるのだった。彼らのそうした目に篭る感情はいくつかに分類でき、一つは嘲るもの、一つは感心するもの、そして最も多いのは忌避するものだった。

 奇怪にもそれらに晒されながら、健吾はともかく自らのデスクに着こうとしたのだが、奥に座る上司から名指しで呼び寄せられ、そちらへ向かわなければならなかった。健吾はまたしても不可解な思いを抱きながら、仕事上ではなんらのミスもないことを頭の中で確認していたのだが、上司が向けていた目は同僚たちのものとはまた少し違う、呆れと困窮のものであり、なおのこと健吾を混乱させた。

 とはいえ最も混乱し、絶望したのはその直後のことに他ならない。上司はデスクの前に立つ健吾をしばし見据えた後、無言のまま一枚の紙を差し出してきたのだ。それは一般的なファックス用紙のようだったが……そこには、健吾が松原を自宅に招き入れている姿が大写しになっており、横には強い筆圧を持った感情の明確な太字で、健吾が浮気し、女子高生と関係を持ったことが告げられていたのである。

「この写真や文面だけで、君が即座に前科を持つということにはなり得ないがね」

 と告げてきたのは上司であり、彼は明らかに陰鬱で、憤懣やるかたない厄介者の処分を思案するような声音だった。

「例え法に抵触しなかったとしても、社会人としてのマナーがある。これは君の行いに対するものでもあるが、それ以前に社に所属する人間としての立場の話だ。社のイメージを損なうような行いをするべきではないし、それをこういった古典的な手法によってでも広められるべきではない。君が持っていなければならない責任ある社会人としての自覚の中には、それらの管理も含まれていることを理解してほしい」

 健吾は無言だったが、彼は続けた。

「君は今のところ優秀な成績を収め、取り立てて大きなミスもないため、今後なんらかの役職を与えることも検討されていた」

 そうとだけ告げると、それで意味は通じただろうという目を向け、健吾に対して自分のデスクに戻り、速やかに通常通りの業務をこなすよう促してきた。

 健吾は当然、それに従った。しかしその心中にあるのは、やはり混乱と絶望、加えて悔恨や怨嗟といった類のものであり、また同僚から向けられる視線――あくまでも視線だけであり、その日のうちに誰にも言葉を掛けられることはなかった――の中で身を焼かれる心地を抱きながら、一日を過ごさなければならなかった。

 加えて健吾は、夜になって仕事を終え、自宅に戻った際、もう一つの嫌な予感を抱かざるを得なかった。なんらかのきっかけがあったわけではないが、仕事という縛りから解き放たれ、思考を全て今日の出来事に費やすことができるようになったためだろう。健吾は予感を抱くと同時に、無人であった自宅の明かりを点ける時間も惜しむように、すぐさま松原に連絡を取ろうとしたのだ。

 しかし、そうした健吾の予感はまさしく的中したのだと言える。彼女の携帯電話に何度連絡を取ろうとしても、電源が切られているのか、あるいは着信拒否されているのか、呼び出し音もなく、根本的に繋がる気配を見せなかった。

 それによって健吾は、松原のもとにも会社に送られたのと同様のものが渡ったのだろうと推測できた。ひょっとすれば文面くらいは違ったかもしれないが、それはますますもって事態を悪化させたに違いない。

 彼女の心中は、現在こうして連絡を絶ったという時点で明白だった。

 次いで、すぐさまこうした悪行に手を染めた犯人への連絡を試みたが、

「くそ!」

 健吾はやり場のない怒りを吐き出し、携帯電話を放り投げた。

 画面には沙織の名前が表示されているものの、呼び出し音もなく、松原と同様の機械的なアナウンスが流れているだけだった。

「沙織の奴……」

 怨嗟の声を発したところで、しかしそれがどうしようもないものであることは、既にわかっていた。どれほど恨みを抱いても、自業自得と言われればそれまでだし、言われずとも理解できていたのだ。だからこそ発散する場を閃くことができず、一瞬にして心の拠り所を全て奪われた心地であり、頭を抱え、のた打ち回ることしかできなかったのだ。

 しかし同時に、それでも沙織だけは今も平然と日々を過ごしているのかと思うと、やり切れない理不尽な苛立ちが込み上げてくるのだった。先手を打たれた今、同じ仕返しをしようとも無意味であることが理解でき、それもまた苦悶の一因となった。

 自業自得ではあるが、同じ沼に足を沈めた者同士、地獄に落とされるのであれば彼女もまた共にあるべきだと思うのは、ある種の未練を示しているのかもしれなかった。

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