第30話

 その男は中学生の頃に知り合いだった。ある事件をきっかけに疎遠となっており、名前は確か『和久井』といったはずだ。十年以上も前のことであるが、中学生時代の面影をありありと残した厳つい顔は見間違いようもなく、またそれ以上に、何者かにその正答を囁かれたかのような、ハッキリとした確信があったのだ。

 愕然とした健吾は、松原と食事を済ませ、その後もしばし彼女と行動を共にすることになったが、気を揉むようにそわそわして、目に見えぬ何かに追いたてられるような焦燥感を抱き続けており、その辺りのことはほとんど記憶できなかった。夕刻になった頃には、さらに別の場所へ誘おうとしてくる松原に対し、とうとう我慢できなくなって適当な用事をこじつけ、「今日は朝まで一緒にいてくれるはずだったのに……」と残念がる松原と強引に別れることさえしたほどだった。

 そうしてから健吾は帰宅をも待たず、ほとんど駆けるほどの早足になっている帰路の途中で、急ぎ沙織と連絡を取ることにした。彼女が電話を取ったのは、意外にもそれほどの間を置かない頃だった。

「なんなのよ、いったい?」

 と言ってくる沙織の声音には明らかな焦りと苛立ち、怒りめいたものが感じられた。加えて音声を潜め、口元に手を当て、ちらちらと何かを警戒するように周囲を窺っている姿が、電話越しにでもありありと感じられたほどである。

 対して健吾はできるだけ平静を装い、どうとでもふと思い出した話をするだけのような調子で、「和久井という男を知っているか」と尋ねた。するとその途端、沙織は明らかに数秒ほど沈黙を発したのである。そして次には「知らないわよ」と息を詰まらせたような声音で精一杯に早口に言うと、今は忙しいと告げてすぐに一方的に電話を切った。

 切断音の後に聞こえるツーツーという話中音を聞きながら、健吾は当然だが納得することなどできず、半ば確信を得ながらも呆然とする暇なく、次いで行ったのは和久井の連絡先を見つけ出すことだった。そしてそれは帰宅後、彼の実家の電話番号を調べることで追跡することが可能だった。

 そうして和久井本人に直接連絡を取ったのは、完全な深い夜を迎えた頃ではあったが、健吾は構わずに電話を掛けた。彼は沙織と違い、数コールと待たずそれを取った。加えて健吾が自分の名前を明かすと、旧友との思いがけない再会に驚くように、声音を大きくした。健吾にとってそれがどこか白々しく感じたのは、自己の思い込みと共に、和久井の声音が以前と変わらぬ尊大そうなものであったためだろうか。

 いずれにせよ健吾は懐かしむ会話を重ねようとする和久井を制し、「沙織という女を知っているか」と尋ねることを優先した。

 すると彼は声音を一段変え、奇妙なほどニヤニヤとした嫌味ったらしいものにしながら、「知らないということになっている」と告げてきたのだ。

 健吾は沙織の時と同じく、相手が視線を動かしているのが電話越しにも感じ取れ、その先にいる人物のことも、自分の視界であるかのように映し出すことができた。そしてその紛れもない確信に呆然としていると、和久井の方から「今から忙しくなるんだ」と言われ、電話を切られた。

 それから健吾が一種の正気を取り戻すのに、またしばしの時間が掛かってしまった。時間は明らかに、和久井が暗示した”多忙”の最中に違いないことを示しており、沙織に連絡を取ろうとしても無視されることになってしまった。そも、その日は携帯電話の電源が切られていたようだったが、翌日以降も全て同じように無視されるか、呼び出し音の最中に取られないまま切られるかした。健吾はそれほど酒に強い方ではなかったものの、度数の高い酒を買ってきてはそれを開けることが多くなった。

 ただ、その間も健吾は、松原を会うのを止めることがなかったが、それは彼女と会うことがある種の心の平穏をもたらすために他ならなかった。

 自分勝手にも傷付いた心は、しかし彼女と会っている時だけは不可解なほど満たされ、まるで現在の悩みや、今までの身悶える出来事がなんらかの間違いであったかのように、松原と過ごす時だけが至福の時となっていた。

 彼女の儚げな心を支えている時だけが正しい時間であるかのように感じられたのだ。

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