第29話
彼女に悪辣な意図があったわけではないだろうし、健吾も最初、それが恐るべき、取り返しのつかない事態を招く落とし穴を思わせる罠の類だなどとは考えもしなかった。
唯一、ほんの微かながらも、後から予兆だったと考えられるものを探すとすれば、その時は珍しくも松原から誘いが来たということである。全く無いことではないが、彼女が自ら行きたい場所まで指定し、既にその準備を整えていることを明かしてきた時には、健吾は多少なりとも驚いた。
ただ、それはあくまでも松原が心を開き、己の希望を告げてきただけであり、その時の健吾には彼女の成長を純粋に喜ぶだけの余裕があったし、浮かれていた。それは彼女の誘ってきたものが恋愛映画であり、まして沙織が好みにしていた作品の続編であったとしても、全く気に留めないほどだったのだ。
当日――雨の多い時期だけあって、その日も急な雨宿りや傘が入用になる天候であった。そのために松原が待ち合わせに少し遅刻し、館内に入ったのが映画の始まるギリギリの時間であったことは、むしろ幸運に分類するべきかもしれない。
通路を挟んで縦横に三つずつ分かれ、それぞれのブロックに三十人ほどずつが座れるようなった劇場は既に薄暗い中、こそこそと指定の座席を探す必要があった。それでも巨大なスクリーンには別の映画の予告編が始まったばかりという頃であり、同様の客も何人か見受けられ、それほど奇異にも、迷惑にも取られなかっただろう。ふたりはスクリーンからの明かりを頼りに中央のブロックへ進み、やや左寄りの席にようやく腰を下ろした。
「間に合ったね」と言い合う声を潜め、わざとらしくお互いに人差し指を立てて、小さく笑う。そうしてから、健吾はまだ映画の本編が始まるまで少しの時間がありそうなことを利用して、ぐるりと周囲を見回してみることにした。客入りは七分ほどといったところだろうか。スクリーンの光は、まばらな空席を目立たせていた。
そして気付けば健吾の右隣も空席だったが……そのさらに奥を見た時、健吾は喫驚し、思わず悲鳴めいた大声を上げそうになってしまった。慌てて口を覆うが、その動作が大袈裟過ぎた気がして、咄嗟に反対の方に向き直ると、そこに座っている松原はきょとんと不思議そうに首を傾げた。ただ、「どうしたんですか健吾さん?」と問いかけようとする口を、自分と同様に噤ませる。松原がそれに驚き、ますますもって不審そうな顔をしたのを見て、健吾は咄嗟に「もうすぐ始まるから静かに」と付け加え、スクリーンの方へ注意を向けさせた。
そこでは実際に映画開始直前を知らせる、盗撮防止の映像が流れていた。しかし健吾の方はもはやそれを純粋な気持ちで待ち遠しく思いながら見つめることはできなかった。そもそも、健吾の注意はスクリーンではなく、空席を挟んだ隣の席に向いてしまっていた。
そこに座っていたのは、一組の男女である。いかにも親しげに、先ほど健吾たちが交わしていたのと同じような会話を囁き合っているのがわかる。しかし問題はそこではなかった。彼女らの会話は騒音ではなく、むしろ全く聞き取れずに困るほどである。手前にいる女が男の方へ頭を預け、甘えるように身体をくっ付けている姿は、問題ではあったものの、その意味は他者とは大きく異なるだろう。
そこにいた女は紛れもなく、恋人である沙織に違いなかったのだ。
健吾が受けた強いショックは、ともすれば御門違いとさえ思えたが、それでも感情を覆すことはできなかった。根幹を辿れば、それはある種の独占欲の仕業だったかもしれない。今までならばさほどでもなかっただろうが、松原と出会い、交流することによって沙織に対する感情が再燃し、それが皮肉にも健吾に与えられるショックを大きなものにしたのだろう。もちろん、同時に感じる後ろめたさもあり、それも加味されたものだと言えたが。
「大丈夫ですか?」
と聞いてきたのは他ならぬ松原で、彼女は健吾が必死に顔を背けようとしているのを不審がったのだろう。
どこか照れた様子でいるのは、そうやって背けた顔の先がまさしく松原の方向であるため、健吾がなんらかの行為に及ぼうとしているように思えたからかもしれない。
健吾はそうした誤解をあえて解こうとはしなかったが、彼女の期待に応えることもできず、ただ慌てふためくのを隠しながら、「なんでもない」とだけ答え、再び映画に集中するよう促した。自分も共にスクリーンへと視線を移すが、少しすればどうしても沙織のことが気になってしまい、彼女に気付かれないようにしながら、また松原にも不審がられないようにと思いながら、ちらちらと目を動かしてしまうのだった。
おかげで映画の内容はほとんど頭に入らず、それよりも上映が終わり、劇場内の明かりが点くタイミングを見計らうことに熱心で、その瞬間が訪れた時には、まだどこか余韻に浸るような松原の手を取って素早く立ち上がらせたほどである。
彼女が再び驚いて「どうしたんですか?」と尋ねてくると共にこちらの名前を呼ぼうとするが、それを止めて急ぎ通路へと出る。
健吾はそうして劇場の出口へ向かう途中、改めてちらりと沙織たちの方へと目を向け、それが紛れもなく沙織本人であることを確認した。と同時に、彼女がしな垂れかかる男の顔を目に焼き付けようとしたのだが……
それを見た時、健吾は再び驚かされることになった。
沙織たちは、こちらが劇場の出口に近付いたところでようやく席から立ち上がるほど、甘い余韻に浸っていたようだが、そうして遂に顔を見せた男にも見覚えがあったのだ。
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