第28話

 一瞬だけ息を呑んだのは言うまでもないだろう。健吾はその問いに答える術を持たなかった。しかし運良く、それと同時に大会の開始を知らせるアナウンスが響いたことによって、聞こえなかった振りをすることが可能だった。

 健吾がすぐさまコートの方を指差し、並んだ選手たちの方に視線を向けさせると、松原もそれで納得したのか、言われるまま大会へ意識を向け直したようだった。

 ふたりはそれから、ずらりと並ぶ参加選手たちを見やりながら、誰か知っている選手はいないかだとか、どの選手が優勝するだろうかだとかをこっそりと話し合い、あるいは健吾がテニス自体には詳しくないことを明かし、松原に詳しいルールやテクニックについて聞いたり、そして当然として試合の内容に一喜一憂したりしながら、はしゃぎ合った。

 そうして大会の一日目の日程が終了した後、大会と提携しているホテルがあることがわかり、そこへの宿泊も検討されたが、それをしなかったのは松原がまだ高校生であることを理解した上での、辛うじての理性と言っていいだろう。特に提案してきたのが彼女の方であったため、健吾はいくつもの葛藤の鬩ぎ合いに耐えなければならなかった。

 しかしそれ以降、健吾はその代わりというわけではないのだが、まるで思い出を重ね塗りするかのように、沙織と行ったデート場所を、松原と共に巡るようになっていったのだ。

 その熱意はまさしく交際を始めたばかりの男といった雰囲気で、時には以前に陰鬱な気持ちを呼び起こした忌まわしいアルバムを再び本棚の上から引きずり出し、床にその他の本が落ちるのも構わず、沙織との思い出を参考に、松原とのデート場所を模索するようになったほどである。

 そうしてますますもって松原と会う頻度を増させた健吾だったが、同時にアルバムをめくるたび、沙織のことが気がかりにもなっていった。それは彼女に対して抱かれる刺激が再び取り戻されたというよりも、単純に後ろめたさや不安の類と言えたかもしれない。もっとも沙織が連絡頻度の減少について何か言ってくることはなかったが、それがなおのこと危惧を抱かせたのだ。健吾はそれを意識し始めてから定期的に連絡を取り、何度かに一度は必ずデートを申し出るようになったほどである。

 ただ、沙織の反応は奇妙なものだった。

 彼女は健吾の誘いに対し、何度かは渋々のように応じながら、しかし他の時にはあっさりと断り、あるいは明らかに連絡を拒否することがあったのだ。

 それは単純に、彼女が怒りを覚えていたためと捉えることもできそうだったが、健吾は実際に彼女と会った際、さらに不可解な態度を目にしていた。顔を合わせる時、彼女は常に、ここ最近は見せたことがなかったような、わざとらしいほどの満面の笑みを見せてきたのである。しかしそれと同時に、常にそわそわと時間を気にしたり、周囲に視線を走らせ、何かを警戒しているような素振りを見せた。デート場所は基本的に健吾に任せたものの、いくつかの場所は強く拒否したし、許可された場所ですら、時に何かを見つけたように顔をハッとさせると、次の瞬間にはその何かから逃げるように健吾の腕を引っ張っていくことさえあった。最も驚かされたのは、不意に思い出して、すっかり疎遠になっていた記念写真を撮ろうとした時、彼女がなぜか激昂したことだ。

 そうした態度について、恋人であれば疑問に思わざるを得ないだろう。健吾も当然として同様に、明らかな不信感を抱くようになっていた。

 ただし、健吾は深く追求しなかった。それは紛れもなく、自分に後ろめたさがあるために他ならない。追求し、もしその推測が的中していれば、逆上した相手が返す刀で同じ追求をしてくる可能性があるし、既に相手も同じく、自分に対して不信感を抱きながらも手を出せずにいるだけかもしれないのだ。

 それでも健吾が沙織との関係を切らなかったのは……今までで言えば、きっかけがなかっただけに過ぎないかもしれない。長く続いた交際は、それを終わらせるとなれば突然に多くのものを失うことになる。まして習慣化したものであるなら、無価値でありながら重要な価値を持っているものだ。

 そして今はとなれば、さらにもっと別の理由が加わっていたのである。松原と会うようになってからというもの、最初は気遣って、あるいは気付かれないようにというためだけだった沙織との連絡が、次第に色を取り戻し始めたように感じていたのだ。以前と同じような新鮮さとはまた違うが、彼女との会話に興味を抱くことが増えたし、待ち合わせを承諾された時は心躍らせることすらあった。

 ひょっとしたらそれは単純に、”スリル”なのかもしれない。その中に身を置くことで、新たな感情を通して恋人を見ることができている、ということか。事実、健吾は松原と連絡を取り合うことをやめようとは思わなかったし、その親密さを増すほどに、沙織との連絡を刺激あるものと感じるようになっていった。

 しかしある日のことである。そういったある種の平穏、順風満帆の充実した日々を許さなかったのは、松原だった。

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