第37話
その後も直樹との交流は続き、少なくとも夏を間近に控えるまで、ふたりは様々な場所を訪れたが、松原はとある”所用”によって何度かに一度は彼とのデートを断らなければならなかった。それは心苦しく、また気を張り詰めるものでもあったと同時に、”所用”を悟られないようにするための懸命な努力が必要とされた。
松原はその間、日に日に大きくなる不安を自覚し、ほとんどやつれるほどにまで精神をすり減らしており、直樹と出会う時だけが唯一心を救われる時間として、ますますもって彼への依存の度合いを増していった。
しかしその不安は、やがて現実へと変わる時がやってくるのだった。
それは直樹に誘われ、映画を見に行った時である。最初はなんのこともない、平凡なデートに過ぎなかった。もちろん松原にとってはそれこそ心安らぐ瞬間であり、少しでもその安寧を得るため、劇場内ではずっと彼に触れ、頭を預けていたほどである。途中、慌てて入ってきた隣のカップルの妙な騒がしさを鬱陶しくも思ったが、それに煩わされるだけの時間も勿体無く思っていた。
不満があるとすればせいぜい、例えば松原がスクリーンで繰り広げられる男女の熱愛を見ながら「私たちに似てる気がしない?」だとか「もし私が同じことを言ったらどうする?」だとか、期待する言葉を引き出そうとする問いかけに対し、直樹が平然としたまま曖昧に答えを濁し続けたことくらいだろう。まして浮かれる松原にとっては、それすらも大きな欠点とはならなかった。
そうして映画館内では全く平穏のまま幸福に違いない時間を過ごしたのだが、驚くべき電話が掛かってきたのはその後、夕食を取るために直樹の選んでおいたレストランに入って間もなくのことだ。料理を待つ間に、律儀に電源を入れ直してしまっていた松原の携帯電話が、煩わしくも着信を知らせる音を鳴らし始めたのである。
松原はそれに対して明らかな動揺を抱き、ほとんど戦慄し、冷や汗というよりも脂汗を滲ませ、思わず驚愕の声まで上げそうになった。
眼球が小刻みに揺れるのを自覚し、すぐさま対応を考える必要があったのは、そこに表示された着信相手の名前のせいに他ならなかった。
真っ先に考えたのは”応じない”という手段であり、全く無視するか、即座に電源を切るかを選ぼうとしたのだが……それを止めたのは他ならぬ直樹で、彼はいつもと変わらぬ薄っすらとした余裕ある笑みを浮かべて「取っていいぞ」と促してきたのである。
そのため、松原は応じざるを得なくなった。その場を離れることも考えたが、そうしてしまうとなんらかの後ろめたい相手ではないかと察されてしまう気がして、その場で半ば背を向けて、声を潜めるのが精一杯だった。それは直樹には絶対に知られてはならない相手であり、よもやこんな時に連絡をしてくるなど思わなかったが、それによって松原は電話相手に対する苛立ちを増させることになった。
相手は平静を装っているが、恐る恐るというか、不可解にも驚愕した、息を詰まらせたような声音であることが明白で、わざわざ松原本人であることを確認することさえした。奥底には焦燥のようなものが見え、松原は自分の方がよほど焦っているのにという怒りを増幅させたが、「なんなのよ、いったい?」と話を促した。
すると相手が言ってきたのは、やはり驚くべき言葉だった。
「直樹という男を知っているか?」
と聞いてきたのである。
この相手に直樹のことを尋ねられるというのは、松原にとって最も不都合な出来事であり、最も警戒し、避けるための努力を行ってきたはずのことだった。この相手にだけは、直樹との親密な交流を知られてはならなかったのだ。
松原は平静を装おうとしたが、無駄なことではあった。明確に沈黙を発してしまい、すぐにそれに気付いて「知らないわよ」と突き放すと共に「忙しいから電話してこないで」と早口に告げ、一方的に電話を切ることがせいぜいの抵抗だった。
その様は電話相手にとって明らかに不審に違いなかっただろうし――なにより直樹にも不審に映ったのではないかと思い、松原は焦った。電話を切った後もしばし彼の方を見ることができず、初めて出会った時のように恐々としながら体勢を戻し、俯き加減で前髪の隙間から彼を覗き見るのが限界だった。
しかしまたしても驚くべきことに、彼は明らかにこちらを見つめながら、それでも平然といつも通りの薄い笑みを浮かべていた。訝る様子も、今まさに何かを悟ったという様子も、ましてやそれで怒り狂った様子もなく、あるいは最初から全てを知っていたとでもいうような表情だったのだ。
松原はそれに安堵すると同時に恐怖した。思わず仰け反って、その拍子に顔を上げてしまったほどで、紛れもなく戦慄する表情が彼の目に映ってしまったことだろう。
ただ、それでもなお彼は変わりなく、淡々とした口調で「用事は終わったか?」と聞いてきただけだった。そして松原が頷くと、いつの間にか運ばれてきていたらしい料理を見やったあと、ワインの入ったグラスを持ち上げたのである。松原は心底から混乱し、戸惑ったが、それでも震える指をどうにか押さえつけてグラスを持つと、その縁同士を軽く触れ合わせ、小さな甲高い音を立てさせた。
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